武蔵随想
武蔵はいつから新免を名乗ったのか


一般的に、武蔵は書簡などプライベートでは「宮本」姓、オフィシャルでは「新免」姓を名乗ったとされている。
「五輪書」では新免姓である。
ところが、若いころの武蔵が弟子に与えた印可状が残っていて、そこでは「宮本」姓である。宮本武蔵藤原義軽というのがそれである。
若いころは、播州龍野の円光寺に道場を開き、多田半三郎たちに円明流を伝授していたのだ。
このころ、武蔵は円光寺の住職の娘といい仲になったらしい。
寺の言い伝えによると、この娘は、後に鳥取に嫁いだとさ。
円明流、鳥取とくれば、武蔵雑学事典によると、岡本馬之助祐美が思いうかぶ。宮本武蔵政名のことである。
鳥取池田藩が播磨から鳥取に移ったときに、いっしょについていったのだろう。
武蔵を語るうえでは、ややこしい人だ。普通に考えて、新免を語っていないなら玄信ではない。
新免無二は、印可状では「宮本」姓である。宮本無二助藤原一真なのだ。
黒田藩分限帳に載っている頃は新免(新目)を名乗っている(=許されている)が、その後の印可状でも「宮本」姓である。
玄信が、兵法書に「新免」姓を用いたのは、既に、宮本武蔵を名乗る武芸者が存在していたので、区別するためだったかもしれない。
玄信は無二が存命中にも「新免」姓を名乗っていたのだろうか。
宮本無二斎のせがれなら、武芸者としてのブランドは「宮本」姓と思っていたのかもしれない。
夢想権之助の仕合のエピソードなどからも分かるように、玄信は無二の子であることをオープンにしていた。
親子の愛情が薄いということはなかったはずだ。逆だろう。

