武蔵随想

武蔵、熊本に行く

武蔵の遺した書画の鑑定は純粋に学術的なものと思う。
が、例えば「五輪書」序文が武蔵自筆か他人が書いたものかの議論は出自の論争の中で語られたりする。
年つもつて六十や生国播磨の武士の下りが、考察の証明として取り上げられたりするからだ。
武蔵非名人説の論者も「五輪書」序文をよく取り上げていて非難の的にしていた。自慢ばっかりしていると。

一般的に、「二天記」の記述は虚構性が強いとされ、「丹治峰均筆記」は信憑性が低いとされている。
あいかわらず、いろいろ言われておるのぉ。

しかし、後世の者が残したもので、当時の武蔵の評価が分かり、しかも信憑性が高く、その信憑性も揺らがないものがあるのだ。
それは墓だ。いわゆる東の武蔵塚である。
墓相のことは知らんが、なかなか立派である。殿さま墓よりも立派じゃないのか。
剣豪列伝中の人物の中でも、というより歴史上の人物の中でも立派なうちに入るのではないか。
でかけりゃいいってもんじゃないだろうが、東の武蔵塚は武蔵を偲んで建てられたものだ。
この墓から肥後熊本での当時の武蔵の立場が分かるのではないだろうか。

晩年になって、やっとのことで仕官にこぎつけたのではないだろうし、
単に殿さま側近の芸人(御伽衆)として召されたものでもないだろうと思う。
藩政の援助(大の兵法)でもないだろう。
もっと大きな大切な存在だったのだ。

肥後熊本は加藤家が出羽に配流された後、細川家が入った。
細川藩の立ち上げのため、民衆の心を掴むのには、加藤清正級の人物が必要だっただろう。
そこで候補に上がったのが大人物、古今無双、我らがヒーロー宮本武蔵だったのではないか。

ま、最近では伊織の書簡などから賓客であったと認識されつつある。