武蔵随想

「小倉碑文」は、伊織が書いたのか春山が書いたのか

「小倉碑文」は、伊織が書いたのか春山が書いたのかと議論される。
生誕地に関する事柄が記述されているため、身内が書いたのか他人が書いたのかで論点が変わるのだ。

この碑文の内容は「五輪書」序文などの武蔵の伝書に肉付けしていったのではないかと思う。
もし、春山が書いたのとしても、武蔵の戦歴に興味があったと思えない。
伊織から撰文依頼があったとき、春山は、熊本藩士、特に二天一流門弟たちに確認したはずだ。
そのとき、武蔵本人の履歴というものは「五輪書」序文しかなく、それを元に話しを膨らませていったのだろう。
とすれば、「小倉碑文」は後の「丹治峰均筆記」「武公伝」「二天記」と同じように覚書きが情報元なのだ。
もしかしたら、原案は寺尾兄弟かもしれない。

こうなると、「五輪書」序文は武蔵死後九年目以前には既にあったことになる。
もし、武蔵の墓とも伝えられる碑文の元資料にしたなら、「五輪書」序文は武蔵本人の文であろう。
嘘は書けないからだ。

もし、碑文の記述に誤りがあったとしても、「小倉碑文」建立に関わった人たちは、
碑文の内容を嘘や誤りと思っていなかったはずだ。
泊神社の棟札の信憑性を論ずるときによく使われる、まさか神社に対して嘘はつかないだろう、 と同じ論理で、
また、書いているのが僧侶か身内であるならなおのこと、 その信憑性は高いと思いがちだが、
それは、「小倉碑文」建立に関わった人たちが、 武蔵の実像として信じていただけである。

これは、伊織が書いたとしても同様である。