武藏伝説

私がその巌流だ

武蔵と小次郎の試合の当日のことである。
小次郎は一人で小倉の船着場へ行き、いっそうの小船を雇って乗った。
みると海峡におびただしい小船が出ていて、多くの見物人が舟島に渡っていた。
小次郎は船頭に「今日は小船がたいそう沖へ出ているが何かあるのか」と訊ねた。
「へい、巌流という兵法者が宮本武蔵と仕合をするのです。それを見物しようと、今朝からこの有様です。」
「私がその巌流だ。」と名乗ると、船頭は声を落とした。
「それなら、島へ行くのはおよしなさい。あなたがいかに強くても、武蔵には大勢の弟子たちがいて、
待ち構えています。まず勝つことは無理でしょう。」
すると小次郎は静かに言った。
「お前が言うように、今日、私は島で命を落とすだろう。しかし、堅く約束したことだから行かなくてはならない。
たとえ死ぬとわかっていても違えられない。こうしてお前の船に乗り合わせたのも何かの縁だ。
もし、わたしが死んだと聞いたら、わたしの魂を祀って水でもあげてほしい。」
と、懐中から鼻紙を落涙している船頭に与えた。
船頭は、小次郎の心に感嘆したという。


こうした場合、この船頭のように正直に言うのもいかがなものか。
巌流は名乗ったとき、自分を応援してくれると思っていたに違いない。