武藏伝説

どじょう少年

武蔵が常陸を抜けて出羽のあたりを旅したときのこと、正法寺が原というところを通った。

路の脇に小桶に泥鰌を入れた十三、四歳の少年がいたので、この少年に「泥鰌を少し分けてくれまいか」と頼んだ。
すると、少年は「いいよ」と桶ごと差し出した。
「こんなに多くはいらない。少しでいいのだ。」と言ったところ、
少年は笑って「旅人が所望しているのだから別にかまわないさ。桶ごと持っていっていいよ。」と言って去っていった。
武蔵は唖然として見送るしかなかった。

しばらくたって、日も暮れたので、武蔵は宿を探そうとしたが、なかなか見つからなかった。
どうしようかと思案していると、向こうの山蔭に灯りが見えたので、
この灯りを頼りに歩いていくと、人家にたどり着いた。
武蔵は「旅の者だが、不案内で如何ともしがたい。一夜の宿をかりたい。」と頼むと、
中から少年らしき者の声がして、「ここは狭いので、自分一人で一杯だ。客人を泊めるほど場所がない。」と言う。
武蔵は、「旅のことなれば、どのようなところでも構わない」と重ねて宿を乞うた。
すると、中から少年が出てきて、「なんだ、泥鰌をほしいと言ってたおじさんじゃないか。」と武蔵に気づいた。
少年は武蔵を中に入れ、柴茶を出したりした。その所作はいかにも聡明な感じがした。

武蔵は不思議に思うことがあったので、
「どうして幼年の者が一人でいるのだ。父母はどうした。」と少年に尋ねた。
少年は「父は農業を廃しこの野で住んでいました。
父母ともすでに他界して姉が一人いましたが三里ほど先の農家に嫁ぎました。」
「今日は秋風が冷たいので、客人はもう休んでください。」答えた。
武蔵は不審に思いながらも、そこに寝ることにした。

夜半を過ぎたころに、刀を研ぐ音が聞こえ、武蔵は目が覚めた。
さては、盗賊か、寝ているところを襲うのだろうと考え、わざと大きな欠伸をした。
少年はまだ起きていて、そんな武蔵に「なんだ、まだ寝ていないのか」と言った。
武蔵は刀を研ぐ音でなかなか寝れないのだ、と言うと、
少年は「客人はなかなか強そうな顔をしているのに、顔に似合わず、臆病なんだな。
もし、自分が刀で襲ってもこの細い腕ではどうにもならないでしょう。」と笑って言った。

「どうして刀を研いでいるのだ」と武蔵が聞くと、少年は父を斬ると言う。
さらに問い詰めると、「では、包み隠さず言いましょう。実は父が死んだのは昨日のことで、
裏の山にある母の墓の傍らに埋めようと思っても、自分一人ではそこまで遺体を持っていけない。
そこで、父の遺体を斬って何回かに分けて持っていこうと考えました。」と答えた。
それを聞いて、武蔵は「幸いにも今日は、私がこうして宿を借りている。二人で葬ればよいではないか。
心配することはない。」と言った。武蔵と少年は亡母の墓と一緒に埋めた。

少年は、武蔵に「自分一人では頼りない。しばらく逗留してくれないか」と懇願した。
武蔵は不憫に思い、「此処に住むより私についてこないか。」と勧めた。
すると、「客人と一緒に何処へとも参るのはいいですが、一生、奴僕のようではついていきたくない。
武士になり槍をとり馬に跨る身になれるなら付いて行きます。」
「それでは、ついて来い。思いのこすことはないか。」
「思い残すことはない。姉も音信がないままから、告げることはない。」と言って、家に火を放って焼いて、武蔵について行った。
その後、諸国を経回し、豊前小倉で小笠原家に仕え、馬に跨る身分になった。
後に、宮本伊織と号した。


武藏は盗賊が寝込みを襲うのだろうと思ったとき、わざと大きな欠伸をするのか。
それで、逃げると思ったのかしら。