親族指定と遺産としての臓器 投稿者:てるてる 投稿日: 7月31日(水)21時22分16秒
親族優先と当然とする意見に多かったのですが、臓器を遺産と同じように考えていました。
親族優先の臓器提供について 投稿者:てるてる 投稿日: 7月31日(水)21時19分16秒
厚生労働省のホームページに、臓器の提供先を指定することについての、
意見募集の結果が公表されています。
↓
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/p0718-1.html親族優先が当然、という意見も多いのですが、私が疑問に思うのは、
こういう人たちは、臓器をもらうときも、親族に限るのだろうか、
それとも、もらうときは、他人からももらってもよいと考えているのだろうか、
もしそうだとしたら、そこに矛盾を感じないのだろうか、
もし矛盾を感じないとしたら、浅はかではないだろうか、ということです。臓器移植待機患者や、臓器移植体験者の意見もあります。
待機患者の方は、もし自分が提供する側になったら、親族にあげたい。
しかし、もらうほうとしては、実は自分は、親戚達に、臓器移植を待機しているということを
隠しているのだが、もし、親族優先の臓器提供が認められることになったなら、
親戚にも言わなければならないかもしれない。
でも、とても言い出せない、と書いています。
つまり、親族指定が認められるのならば、移植待機患者は、まず親族にお願いするべきで、
他人からの提供をあてにするのはあとにせよ、という風潮ができることも予測したうえで、
移植を望む立場のものとしては、親族に自分は移植を待っているというのは、親族に、
臓器提供をおしつけるみたいだと、感じるのでしょう。ぬで島次郎さん、哲学倫理学会などは、提供先指定に反対しています。
提供先指定賛成の、堂々たる論文もあります。
大学の先生が、学生にアンケートをとったものもあります。
てるてるの意見書は、一回目のは、長すぎ、ここでの投稿をろくにまとめずに送っていて、
恥ずかしい限り。ああ、目ぇ噛んで死にたい。
二回目のは、ややましです。
是空さんへ 投稿者:char 投稿日: 7月30日(火)06時45分01秒
移植という問題はきわめて政治的、イデオロギー的な運動である。だから推進派と反対派がある。政治的なもくろみによって、移植法案を可決し、医師たちがお金儲けをし、名声を得、力を得るために、通俗的な野心によって、脳死移植を倫理に反してまでおしすすめようとしている。下の方のおっしゃりたいことは大体こういううことでしょうか。
マスコミに毒されているのか、知りませんが、医者を目の敵にしていて、すこし近視眼的な見方といわざるを得ません。ひとつはっきりさせておかなければいけないのはレシピエント候補者は確実に近い将来死ぬことが
確定しているといううこと(肝、心、肺)。死につつある患者を何とか少しでも長らえさせたい、社会復帰させたいというところで、ひとつの治療法として脳死移植ははじまっています。
これは医療の原点です。致死的な病・外傷に対する治療法はそこに根ざしています。
だからレシピエントや、医療関係者の生の声を聴いてみてくださいといったのです。移植をすることでまったくお金は儲かりません。移植に限らず重症患者をみているのは月給20−40万円で24時間オンコール、不眠不休で働いている人が多いのです。>欧米での移植医療は、「間にいる人たち」によっては、明らかに飯の種になっていますから、
ーーー理解できません。ひとつの外科治療法です。>ドナーやレシピアントのサイドにたって、情動的に移植医療を見るのは、あまりにもセンチメンタルではないかと思います。
ーーーセンチメンタルで死にそうな重症患者が救えるのなら、世の中に医療という物は必要ありません。あなた学生か何か知りませんが社会に出てもうちょっと苦労されたらいかがですか?死にいく人たち(移植前後の)ドナーの家族、レシピエントの家族、現場で見たことありますか?
間にいる人々 投稿者:色即是空 投稿日: 7月29日(月)18時02分52秒
<<どぎついことばで表現してもどうしても事実は事実です。ある突発的な不幸が起こってドナーとして適格なかたがいらっしゃったとして、そのかたがまったく偶然に善意で臓器提供を申し出られたとして、このように奇跡的にでも偶然と善意がたまたま重なったとして、死につつある人が助けられるとすれば、その少ない貴重な偶然を感謝して利用したいと思います。>>しかし、脳死・臓器移植の流れは、推進派によって、計画的、意図的に、むろん数字の形で、しっかりもくろまれているわけですね。ドナーの臓器が偶発的にレシピアントへ至るというのではなく、ある種イデオロギーに乗りながら、確率でもって配給したい・・・という強い動機がなければ、1997年の臓器法さえ生まれなかったと思います。レシピアントが偶然に手に入れた臓器の匿名ドナーに感謝する気持ちにウソはないでしょうが、また臓器がほしい切実な気持ちは理解できるとしても、ドナーの不幸から幸せがバトンタッチされたレシピアント自身がもっている「非倫理性」は、どうしても否定できないでしょう。言うまでもありませんが、ここで、私は、レシピアントが悪いとか言っているのではありませんよ。
<<移植手術をたとえ受けても手術後経過が悪くて生と死の間を苦しくさまよった挙句亡くなられる方もいます。例え成功しても一生薬をのみ続け、5年経ったら50%が種種の合併症で亡くなられるのです。ドナーの家族だけでなく死に行くレシピエント候補者、移植後のレシピエント、移植後死に行くレシピエント、医療関係者、コーぢねーター全員の立場考えを一度生で聞いてみてください通行人さん。あるいは西欧で行なわれている、移植医療を生で見てください。それからでも机上の空論は遅くないと思います。>>
ドナーとレシピアントの「間にいる人々」って、広い意味の利害(野心・お金を含めて)でからんでいる方たちであって、彼ら・彼女たちの職業としての現実を見る必要があるのではないでしょうか。ドナーは善意で自分への精神的満足以外何もない上に、家族を巻き込んでプライバシー侵害の危惧を乗り越えての慈善をする。一方レシピアントは、待機リストに長く載ってようやく僥倖として臓器を得る。この両者の間で動き回る関係者は、少なくとも、臓器移植によって、収入を得(個人から、国から)、名声を得、力を得ているわけです。そこには、通俗的な意味での野心があり、欲があり、政治があり、金があるわけですね。たとえば、欧米での移植医療は、「間にいる人たち」によっては、明らかに飯の種になっていますから、ドナーやレシピアントのサイドにたって、情動的に移植医療を見るのは、あまりにもセンチメンタルではないかと思います。おそらく、臓器医療のこれからの展望の一つとしては、臓器・組織利用によって生じる儲けを、いかに社会に利益として還元できるかがテーマになってくるのではないでしょうか。組織のパテントで争われたJohn Moorケースなどは、これからおきてくるであろう「金銭訴訟」のさきがけとなっていますね。
ありえる話 投稿者:のり 投稿日: 7月29日(月)16時27分28秒
> 移植が必要な患者全員に、臓器が行き渡るなんてことは > あり得ないでしょう。移植が必要な患者全員に臓器を行き渡らせるために、
脳死の人だけでなく、植物状態の人や重度痴呆老人、重度障害者などから
臓器を取り出そうという動きも現実にあります。
なにかしっくりこない 投稿者:一見さん 投稿日: 7月29日(月)10時56分17秒
>待機リストに載ったまま死亡するという無駄死に これって、無駄死にと言うのかなぁ・・・。どれだけ臓器移植への理解が深まったとしても、それが脳死からの臓器提供が
必要なものであるのならば、移植が必要な患者全員に、臓器が行き渡るなんてことは
あり得ないでしょう。だったら、何をして、目的とするのか? 目指すところが見えてこないから 漠然とした不安が広がる。
訂正 投稿者:色即是空 投稿日: 7月28日(日)22時10分10秒
「何を今ま論してきたのか!」・・・>「何を今まで議論してきたのか!」脳死を固体死・・・>脳死を個体死
すんません。 m(_ _)m
臓器移植雑感 投稿者:色即是空 投稿日: 7月28日(日)22時06分57秒
日本人には、新しいものを、積極的に取り入れる習性といっていいほどの強い気質があると思います。あるものが日本に、入ってきて、まず日本の風土、精神風土、社会に受け入れられるかどうかの検討がほとんどなされないままに、とりあえず、直感的に人々がそれを、良いものとみなして、導入してしまいます。導入されると、それが社会の中で、割りと大きな位置を占めてしまい、そこからの受け入れ議論は、それを返上するかどうかの議論ではなく、「受け入れるという前提」で、始まります。こうした事例は、日本社会のいろいろなところで、珍しくなく見られるもので、たとえば、平成という元号が決まるときも、すでに「平成」が決まっていましたし、青函トンネル、四国架橋などのプロジェクトも然りです。きちんと議論をして決めるべきものなのに、その議論は、既成事実を単に正当化するための、「ためにする」議論になりがちだと思います。脳死臨調の報告書が少数意見無視をむき出しにしたとき、立花隆氏が「何を今ま論してきたのか!」と激しく怒っておられましたが、そうした議論でのひどいやり方は、日本では見慣れた風景となってしまっています。
脳死を固体死であると認めさせて、臓器移植の市場原理へと引っ張っていくことは、すでに脳死・臓器移植の密接する概念と実践が導入されたとき、つまり60年代から、「ためにする議論」での正当化は始まっていたわけです。97年の臓器法も、その意味で、日本的ディスコースのパターン的帰結なわけです。日本という国のディスコースの、ある種「宿痾」として、この点を理解しておかないと、法律を修正するにしろ、廃止するにしろ、こちらの心構えが違ってきます(笑)。正しい手続きで理性的に議論して、不採用となれば、いさぎよく引き下がるという、理性的主体の潔さなど、毛ほどもなく、政治的に押していって、有無を言わせないやり方が今まで飽きるほどあったし、これからも頻繁にあり得ることを、やはり確認しておく必要があろうかと思います。
で、その議論をやっている風に見せて、初めに想定していた結論へもっていくために使われる常套手段の一つ(そしてその手段は日本の場合非常に有効であるのですが)は、イメージに訴えるというものです。どなたかもおっしゃっていた「命の贈り物」「命のリレー」というフレーズなんかも、たくさんある例の一つでしょう。議論がためにするという形で行われているものですから、直感的に、私なんか、すぐそのイメージ語の「胡乱(うろん)」さをびびび・・・と電気に打たれたように感じてしまします。イメージが人々の心を拘束するという負の例は、和田移植事件でありまして、あのイメージの悪さは、前例がありません。彼の「醜い」表情をことさら選んで、写真つきの記事を流通させることで、どれだけ人々(医者も含めて)が、地縛霊によるように、自分の心を拘束し続けたことでしょう。その縛りの期間、ひそかにいかがわしい脳死・臓器移植の実践が行われたのは周知のことであります。そして、それから幾星霜、今は、逆に明るい・夢のある・イメージとして、「命のリレー」「命のギフト」というフレーズが、ほとんど死に瀕している共同体社会に、まるで中に劇薬を隠した糖衣錠の甘さをかもしているわけで、一瞬でもこのせちがらい社会のことを忘れたい人々に、ドナーカードを書かせる手妻となっているように思われます。
Commodity 投稿者:色即是空 投稿日: 7月28日(日)02時37分14秒
>としさん「商品」と訳してみましたが、Commodityは「生活資源として」かつ「流通するモノ」というイメージで、私的には解釈しています。臓器は「モノ」か?という問いかけに対する答えは、欧米でもいろいろなんでしょうが、「準所有物」的な受け取り方で多数派のディスコースは成り立っているようですね。・・・といいましても、臓器移植の文献を6月から集中的に読み出したもので、まだ入り口に立って、様子見の状態です。
ご紹介しました、「商品としての身体」は、A4紙でプリントして30枚ほどで、結構な分量はありましたが、おっしゃるように、現実の記述中心で、仮説やその説明にはほとんど紙面を割かれてはいません。道徳的バランスに配慮しつつ、やはり臓器の流通を高めようという意図で書かれていますね。それは最後に彼が提案する、そのためのアプローチを見ればおわかるになると思います。
臓器・組織関連の欧米のディスコースは、市場価値からの正当化が多いのでしょうが、むろんそればかりではありません。最近読みましたE. Richard Gold 著の[Body Parts: Property Rights and the Ownership of Human Biological Materials](1996)は、アメリカの関連訴訟を検証しています。かなり繰り返しの多い冗長なテキストでしたが、原則、アメリカ方は、人体に所有権を認めていませんが、現実的には、かなり曖昧であることを指摘していました。たとえば、(1)John Moorのケースでは、裁判所は、脾臓からとった細胞ラインに、Moorの所有権を認めなかったが、医師には認めた。(2)solid organ(心臓とか腎臓とか)は、売買の対象にならないが、毛髪や血液や精液など再生のきくものは対象になる。(3)赤ん坊は売買の対象にならないが、州によっては、出産した母親は、医療費や賃金などを手当てしてもらえる。(4)遺伝子は、パテントとされる・・・等々。さらに、法の二面性への言及がなされています。(1)法は、ラインを引くだけでなく、社会的アレンジメントを形作り、守る。(2)法は、たとえば人体のプライバシーの領域に、ラインを引くだけでなく、婚姻のような社会システムを可能にし、親子の関係を形づくる。(3)法は、罰するとともに、報償する・・・などです。
この本については、森岡さんも論文を発表しておられるHastings Centre Reportの1998年3・4月号で、Judith Andreが、Bodies for Saleと題して1ページの書評を書いていますが、手元にそのコピーありますので、拙訳を入れて見ますと、「権利概念のふところの深さから、理論家たちは人体の道徳的地位を強化する、新しい種類の所有権の創設を示唆する。だが、著者のE. Richard Goldは、この示唆を危険なものと見る。理論的に、如何に可能であるにもかかわらず、米国の裁判所は、ほとんど経済的用語だけで、所有権の問題を評価しようとしている。経済は価値を守るためだけで、他の利害は、危険に瀕している。他の価値を考慮しないし、することを拒否している。このあたりが、Goldの本の重要なところである。そして、実際に、経済的価値以外の価値について論じている」。
さらに、「身体、人、所有の概念の複雑性があれば、私たちがそれらを扱う尺度として唯一の原則があるわけではないことは、別に驚くに当たらない」としつつも、「経済価値ばかりが唱えられるとき、別の価値をさがすのは、むずかしくはある」と述べ、その意味でも、Gold の著書には読むだけの価値があると推奨しています。
自分的に、今、臓器移植の理解を「身体論のアプローチ」から試みようと、狙っていますので、ここで紹介する文献は、この掲示板からちょっとずれた風になっています。
商品としての身体 投稿者:とし 投稿日: 7月28日(日)01時22分12秒
色是即空さん、貴重なReviewありがとうございました。"The Body as Commodity: The Use of Markets to Cure the Organ Deficit"
というタイトルからすると、「商品としての身体」という側面を批判的に
捉えなおしているのかというようにも思えます。
しかし、そういう内容は全くないわけではないにしても表面的な議論に終わっており、
実質的には「商品としての身体」という現実を記述しているだけのように思えました。
これはあくまでReviewを読んだ感想ですが、実際のところはどうなのでしょうか。
商品としての身体(2) 投稿者:色即是空 投稿日: 7月27日(土)16時54分17秒
・人体の所有権の性質とは何か。通説は、「A modicum of property right exist in human cadaver.」である。英国コモンローは、米国のルールにも残っているように、準所有権という呼び方で、人の死体を埋葬する権利と認識してきた。・臓器提供を阻む三つの問題点。
(1)提供を嫌がる個人的感情。死の否定、医者が提供者より、される側の生命を重視することに対する悪感情、宗教的理由。これらは、教育や啓蒙活動で改善可能だ。
(2)親族が許すのをためらう。突然の身内の死ということで、許可をためら う、あるいは、事態を理解できないまま許可をしない。
(3)関係者が、親族の許可をうまく得られないこと。・1987 Uniform Autonomical Gift Actの改正前は、1968UAGAである。新法には、商業売買の禁止条項がを入れた。routine inquiryの条項を入れたが、十分ではない。
・米国の臓器獲得システムへの批判。「60%が臓器提供を是とし、85%が最愛の者には提供すると言っているのに、4%の米国市民がドナーカードを持っているだけである。他にもさまざまな失敗の理由がある。
・他国での臓器獲得システム。多くの欧州国では、"presumed consent" systemを採用している。フランス、ベルギー、オーストリア。「推定同意」の利点。より効果を見込めるシステムである。実際に、上記の三国は、米国よりも臓器獲得率が高い。「推定同意」の欠点。このシステムをしても、なお臓器不足を解消できないことだ。個人の意思と自由を傷つけていること。従って(1)供給増、(2)個人の自由意思の最大化が目標となる。供給が追いつかない理由は、voluntarismのシステムであるからだ。批判者は、こうしたシステムが、強制的民主制の価値に対立している選択の自由を落としているからという。ゆえに、米国の世論調査では、「推定同意」に人気がない。
・死体の国有化。いくつかの国では、実際にこの方式が採用されているが、基本的人権の侵害が起きている。この侵害は、国家が囚人からその臓器を取り出すときに生じる。ボスニアや中国の実態がレポートされている。
・臓器の商業化。臓器トレードが国有化に対峙するシステムである。臓器売買は、世界中で、反倫理的な実践と見られている。
・提案。The Middleman Approach. 制限された臓器の商業化。システムの分類。(1)推定同意システム、(2)利他主義を基礎にしたシステム、(3)徴集的システム、(4)Middlemanシステム、(5)マーケットシステム。
商品としての身体(1) 投稿者:色即是空 投稿日: 7月27日(土)16時53分04秒
<<David E Jefferies(たぶん1998年)の"The Body as Commodity: The Use of Markets to Cure the Organ Deficit"(商品としての身体)を要約してみましたので、ご参考になさってください。>>・Introduction. 議論は、「人は、自らの身体や部位を処分するに、どんな権利を有するか」だ。こうした権利を認識したり、生み出すと、倫理的なジレンマを生じることになる。
→例えば、「肉体の商業化」は、人権侵害を招く。
→英国では、19世紀からこの問題が提起されている。死体泥棒。それにとどまらず、殺人まで起きた。William Burkeのケースでは、1年の間に、16名の客を殺し、医学部にその死体を販売したという。
→このスキャンダルが、1832年のAuatomy Actにつながる。(1)解剖の教師と学生のライセンス。(2)死体泥棒に刑罰。・インドや南米の一部の国では、自由市場原理による臓器供給システムが存在する。死体泥棒のスキャンダルがあまり見られなくなったが、死体の価値は闇市場の発展という危険を生みだしている。それは、臓器移植手術が成功してきているからだ。
→臓器移植をすれば生きられる。
→生きる質を移植が高める。
→他利主義の性質が、遺族の悲しみを和らげることになる。・臓器供給を増加させるために、様々なシステムが提案されているが、たいていはうまく行かない。一部には、臓器市場を作れという声があるが、これは、様々なレベルで物議をかもしている。だが、死体売買を許した英国の二の前を避けるためにも、セーフ・ガードが必要とされる。
・臓器移植の歴史と臓器不足。1983年に有名なcyclosporim (immunosuppressive drugs)が導入されてから、移植臓器の拒否反応をコントロールできるようになる。移植提供者とレシビアントの地理的レンジが拡大されて、可能性あるレシピアントの数が飛躍的に増えた。一方で、ドネイト側は、そのスピードに全く追いつけないでいる。毎年30万人が、世界的規模で臓器提供を受けている。
・待機リストに載ったまま死亡するという無駄死にの他、問題は、ブラック・マーケットの拡がりである。待ちリストの人は、病状の悪化や辛抱できずに、闇市場に向かいがちである。その問題は、国際化している。たとえば、闇市場で調達された臓器の品質の問題。さらに、人権侵害が起きている。海外から臓器を求めて来る人により、国内での臓器価格が高騰している。
・潜在的な臓器不足は、臓器がとられずに、2万体の死体が埋葬されているからだ。2万体からは、4万の腎臓、2万の心臓と肺のペアがとれるわけだ。たいていの人が臓器提供をせずに埋葬されたり、火葬に付される。
・米国の臓器提供システム。移植臓器としては、次の条件に合うのが望ましい。
死体は脳死。
未だ心臓が鼓動する。
55歳より若い。
感染やガンにかかっていない。
腎の生体は、15から80歳。
二個とも良好で、レシピアントと合う。
http://ijgls.indiana.edu/archive/05/02/jefferies.shtml
冷静に 投稿者:森岡正博(管理人) 投稿日: 7月27日(土)00時25分31秒
>charさん(+α)脳死問題は一面だけからは把握できません。冷静で、論理的に意見交換しましょう。(ちなみにここは議論の場ではありません)。
たとえば下の書き込み、最後の「それからでも机上の空論は遅くないと思います」はよけいな文章だと思います。
全員にインタビューを。。 投稿者:char 投稿日: 7月26日(金)22時24分46秒
通行人様 wrote:
>charさんへ
他人の臓器をもらうことが「生きる権利」の内容として
自明のことなのか?
レシピエント候補者たちは反対者に「私たちに死ねと言うのか!」
とよく口にしているが、ドナーの出現を待つ心こそ、潜在的な
ドナー候補者たる人々に「健康な、臓器残して、お前死ね」と
言ってるのと同じではないか?どぎついことばで表現してもどうしても事実は事実です。ある突発的な不幸が起こってドナーとして適格なかたがいらっしゃったとして、そのかたがまったく偶然に善意で臓器提供を申し出られたとして、このように奇跡的にでも偶然と善意がたまたま重なったとして、死につつある人が助けられるとすれば、その少ない貴重な偶然を感謝して利用したいと思います。
移植手術をたとえ受けても手術後経過が悪くて生と死の間を苦しくさまよった挙句亡くなられる方もいます。例え成功しても一生薬をのみ続け、5年経ったら50%が種種の合併症で亡くなられるのです。ドナーの家族だけでなく死に行くレシピエント候補者、移植後のレシピエント、移植後死に行くレシピエント、医療関係者、コーぢねーター全員の立場考えを一度生で聞いてみてください通行人さん。あるいは西欧で行なわれている、移植医療を生で見てください。それからでも机上の空論は遅くないと思います。
はじめまして 投稿者:さん 投稿日: 7月26日(金)01時22分35秒
はじめまして
臓器移植法改正とは関係ないのですが・・・。最近思うことを1つ。
「命の贈り物」「命のリレー」という言葉を時々耳にします。
この言葉がなぜかとても鼻につくのですね・・・。そんな言葉で片付けられない、もっと深いものがあると思うのですが。
臓器移植についてのスタートが、アプローチが、何か違うと日頃感じます。戯言ですみません!
通りすがりに 投稿者:りょうこ 投稿日: 7月24日(水)15時07分24秒
最近読むのもおいつかない・・・通りすがりなので簡単に
>15歳以下とくに幼児に対して、高いレベルの救命処置がとれて
地域により時間帯によって(^^; 違いますが、多いとは言えないでしょう。
>病院に患者が運ばれてきたら、最初に、ドナーカードの保持を調べさせる。
>ドナーカードを持っていることがわかったら、臓器提供施設に指定されている病院に搬送する。そんなことしてる間に死んじゃうよ、という気がしますが。
ご挨拶 投稿者:色即是空 投稿日: 7月23日(火)17時49分45秒
はじめまして、色即是空と申します。
森岡さんの論文とご本をいくつか読んで、ここにたどり着きました。
生命倫理をかじる学徒なんですが、もっと早く来れなかったのがまことに残念です。
少し、ここの掲示板をブラウズさせていただきましたが、
森岡さんのお仕事と同様に、皆様のご意見、啓発されるところ多いです。自分の意見がまとまりましたら、雑感程度から、書き込みさせていただきますので、
よろしくお願いします。森岡さんを、進化される倫理学者、こんな風なイメージをもっております。
鈴木さん 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月23日(火)07時41分50秒
書き込みありがとうございます。
ぜひ、ご体験にもとづいたいろいろなご意見をお聞かせください。
私は、この問題は、一面的な意見主張だけではとらえきれない複雑なものを抱えていると考えています。多面的な理解が、なによりも必要です。よろしくお願いします。
はじめまして 投稿者:鈴木 投稿日: 7月21日(日)17時43分38秒
はじめまして、鈴木と申します。
時々この掲示板を覗かせて頂いておりました。投稿するのははじめてです。
私は胆道閉鎖症という病気の子供を持つことによって、否応無しに「移植」医療と関わり合いを持たざるを得なくなり、平成7年と平成10年にそれぞれ両親をドナーとした生体での肝臓移植を経験いたしました。子供は残念ながら平成11年1月に亡くなりました。
移植でしか助かる道のない子供との15年間の歩みのなかで、生体肝移植が現実に手の届くものとなり、更には「脳死臓器移植」が実現するという、激変する医療環境に身を置きながら様々な方達のイ生きざまを見させて頂いてきました。
一言では言えない想いでいっぱいですが、これからもこの掲示板を通じて勉強させて頂けたらと思っております。宜しくお願いいたします。>景子さん
妹さんを亡くされるという胸痛む現実の中で、「臓器の提供」ということに直面された大変さは察するにあまりあるものがあります。
直接面識のない私ですが妹さんに手を合わさせて頂きます。>一見さん
「臓器提供」における主役、特に「脳死」による「臓器提供」の主役は、提供を御決めになられたドナーさんだと私は思います。
個人的に2回の生体での移植を経験しておりますが、生体での移植と脳死による移植とは根本的に違うという気持ちです。
上手にご説明できなくて申し訳ありませんが、大きな大きな命の循環の中に誰もが生かされていることを思う時、「脳死臓器移植」の主役はまず第1にドナーであるように感じております。
15歳未満の方々の「臓器提供」の場合、どうしても親御さんのあり方に係ってきてしまいますが、そうなると尚のことレシピエント主役の考え方は悲しいように思います。
中途半端な意見で申し訳ありませんが、一つの考え方としてお聞き流しください。m(__)m
景子さん 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月21日(日)14時18分08秒
ぜひ、ご意見などを書き込んでみてください。当事者の方からのご意見は貴重です。
よろしくお願いいたします。
臓器提供しました 投稿者:景子 投稿日: 7月21日(日)08時30分47秒
7/4に妹が脳死による臓器提供希望(ドナ−カ−ド)しました。残念ながら基礎疾患があり判定基準をクリアできず心停止後の眼球、気管の提供のみとなりました。脳死については私なりにいろいろ考えていたのですが 実際 その状況となり 短い時間に病院,移植コ−ディネ−タ−の方と話したり また妹の最後いかに、人間としての尊厳をうしなうことなく迎えるか すごく大変でした。妹はクリスチャンでしたので,信仰が
ド−ナ−カ−ドを持つ決意をしたのか また長い間病ニ苦しんでいたのでなのか いまはしるよしもありませんが,よっかったと思っています。ただ時間に余裕ができ臓器提供についていろいろ本などで知識が増えるにつれ いまのドナ−カ−ドのあり方に疑問が出てきました.。これからここのサイトで勉強させてください。
15歳未満の時 投稿者:一見さん 投稿日: 7月19日(金)11時40分29秒
少年法など他の法令をかんがみ、12歳以上であれば、ドナーカー等
意思表示カードに記入するとき、親権者の同意が必要とするような
方法で、解決できるように思います。12歳未満の時は、親権者が、書類を作成できる。
ただし、脳死の可能性のある重篤な症状に、自分お子どもが陥った、その場になって、
すべての判断を迫られるのは、大変な負担なので、現場での同意のみでは
不可として、事前に登録した者のみを対象とする。少なくとも、自民案に比べれば、ましな案ではないでしょうか?
プラスして「脳死に至る一連の医療的措置について医師が、
家族へのカルテの全文の開示を拒否した場合には、その事例は
臓器提供の対象にしてはならない。」というのを加えてはどうでしょうか?
すべての患者に対して、カルテの全面公開というのは、医師会の猛反対に
あるでしょうけど、「脳死状態からの臓器提供」という事に限定すれば
カルテを公開しない正当な理由は見つからないように思います。
もしかして 投稿者:てるてる 投稿日: 7月19日(金)08時04分07秒
病院に患者が運ばれてきたら、最初に、ドナーカードの保持を調べさせる。
ドナーカードを持っていることがわかったら、臓器提供施設に指定されている病院に搬送する。
という厚生労働省の通達を、日本全国の国公立・私立の病院に出す。
法令だと、国会議員が決めなければならないから、反対する議員も出てくる。
でも、厚生労働省の通達だと、国会議員はタッチしないし、
各病院に対しては、通達に従わないと、予算や補助金などを減らす、
ということを、決して明文化せず、雰囲気で脅しをかけることができる。
という方法をとるのかもしれない……
というのは、単なる、想像です。
高いレベルの救命措置 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月18日(木)21時20分01秒
それは、大事な点ですね。現場の方々のご感触は、いかがですか?(ちなみに15歳未満です、以下ではなく。「デイリー自民」も間違えてる(こんなことで、脳死への理解不足なんてえらそうなこといえるのか?自民党さんよ。))
提供施設をどうするのだろう。 投稿者:一見さん 投稿日: 7月18日(木)11時27分59秒
ここまで来ると、運用のテクニカル的な事になってしまうけど、
15歳以下とくに幼児に対して、高いレベルの救命処置がとれて
かつ、脳死を的確に判断できる施設ってどのぐらい存在するのだろう?「死んでしまったらそれで、おしまいだ」と言われても、納得できないと思うのだが。
自民党案 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月18日(木)09時48分35秒
朝日新聞たたき台は00年に厚生省(当時)研究班が提示した「子どもは親権者の承認で提供
が可能」とする試案に沿う形になるとみられる。NHK
十五歳未満の子どもについて、本人の生前の意思が確認で
きない場合でも親の同意があれば脳死からの臓器提供を認めるとする法律
改正の素案を作り、同意できる家族の範囲などを具体的に検討ということなので、町野案に沿うことになるみたいだなあ。町野案の政治力はすごいものですね。
しかし「脳死への理解不足も指摘され、
生命議連ではPTA団体などとの意見交換も計画している」
というのは???。PTA以前に、国会議員が脳死を理解しているとは思えないけど。私の論文読んでないでしょう。まず脳死臨調の多数意見の医学的誤謬を正してからじゃないと、議論を進めてはいけないはずだよ。
RE:自民党 投稿者:りんご 投稿日: 7月18日(木)02時08分09秒
ほんとうに、どうなるのでしょうか???デイリー自民より
↓↓
http://www.jimin.jp/jimin/daily/02_07/17/140717b.shtml
【平成14年 7月17日】
■ 「15歳以下の臓器移植を」の声、大勢 臓器移植調査会
日本の法律では15歳以下の臓器移植ができないことになっているため、子供の心臓移植手術などは海外で受けるしかない現状について、17日開かれた脳死・生命倫理及び臓器移植調査会で論議。「法改正によって可能にするべきだ」という意見が大勢を占めた。厚生労働省の説明によると、これまで43人の子供が心臓移植などを受けるため海外に渡航、うち12人が死亡している。同調査会は、論議を集約して可能にするための「たたき台」をつくり、超党派の「生命倫理研究議連」(中山太郎会長)とも連携、実現に向けて努力していくことになった。自民党 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月17日(水)23時53分42秒 毎日新聞速報によると、自民党が、15歳未満からの臓器移植を認める方向で一致したそうです。でも、具体的な案は、どうなるのだろう? 町野案?
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20020718k0000m040144002c.html
ドナーの出現を待つ心 投稿者:てるてる 投稿日: 7月17日(水)20時02分17秒
>通行人さん
>レシピエント候補者たちは反対者に「私たちに死ねと言うのか!」
とよく口にしているが、ドナーの出現を待つ心こそ、潜在的な
ドナー候補者たる人々に「健康な、臓器残して、お前死ね」と
言ってるのと同じではないか?そう簡単には言い切れないと思います。しかし、
ある想定のもとに、「ドナーを待つ心」の問題が、
この掲示板でとりあげられたことがあります。過去ログハウス
2000.09.20-29
http://www.interq.or.jp/earth/elephant/life0920-29.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/kakologhouse/kakolog20000920.htm
ドナー登録 投稿者:モイナ 投稿日: 9月24日(日)21時01分55秒
『現代思想 2000/9』の土井論文を読んでいて、ふと、こんなことを考えてしまいました。
骨髄移植ではドナー登録するときにあらかじめ適合検査を行い適合者同士のカップリングが成立するのを待つわけです。
では、これを脳死臓移植に拡張したらどうなるでしょうか?
東京都のレシピエントAさんにもっとも適合する臓器を持つのは北海道のBさんと福岡のCさんであると、あかかじめわかってしまいます。つまりAさんが臓器移植するためにはBさんかCさんの「死」が必要と具体的に知ることができるわけです。以前、ドナーとレシピエントとの「出会い」について議論されていましたが、『出会い』は「技術的」には、臓器移植前に可能なのです。
そして、出会ってしまっても、なお「議論ばかりで行動しない奴ら」と言えるのだろうか?やはり、臓器移植を推進するためには、ドナーとレシピエントは出会ってはいけない。
と、いうことなのか。
理念の問題として 投稿者:一見さん 投稿日: 7月17日(水)00時03分08秒
臓器移植って、主人公は、ドナーとレシピエントのどちらなのだろうか?
それとも主人公は医師なのだろうか?臓器移植という技術があって、万が一の時に臓器をドネイトしたいという
意志があって、それによって生存のチャンスが生まれる患者がいる。理想論かもしれないけど、この順番で説明すると、日本人の宗教観からすると
分かりやすいように思いますが、無理があるのでしょうか?
逆に聞きたい 投稿者:通行人 投稿日: 7月15日(月)19時04分34秒
>charさんへ
他人の臓器をもらうことが「生きる権利」の内容として
自明のことなのか?
レシピエント候補者たちは反対者に「私たちに死ねと言うのか!」
とよく口にしているが、ドナーの出現を待つ心こそ、潜在的な
ドナー候補者たる人々に「健康な、臓器残して、お前死ね」と
言ってるのと同じではないか?
自分の子供が「脳死」と言われたら 投稿者:てるてる 投稿日: 7月15日(月)17時03分37秒
2ちゃんねるの育児板に「自分の子供をドナーに?」というスレッドが立っています。
最近、相次いだ、脳死・移植関係のニュースに呼応して、
もし自分のこどもが脳死と言われる状態になったら、という、
おかあさまの気持ちのもとに、意見が交わされました。
ゆうべは、私も、遅くまでおつきあいさせていただきました。
http://life2.2ch.net/test/read.cgi/baby/1026574230/
『置き去りにされた小児患者』というタイトルで 投稿者:いずみ 投稿日: 7月13日(土)19時09分22秒
今日のTBS『ニュースの森』番組冒頭、特集を組んでいました。
サブタイトル、覚えている分のみですが書き出すと
小児心臓移植「15歳問題」/渡航移植を決心するまで/移植本番での試練/異例の再移植を乗り越えて現行の法律で遺言が認められない15歳未満、それと提供意思の必要性の問題/
トリオジャパンの方のコメント「18歳問題だけでなく成人の移植も視野に入れた改正が」
(↑ここ、うろ覚えですので実際の発言とは異なるかも)/
移植する臓器は適応する大きさでないと…/
心臓移植を必要とするする子ども43人の内6人が渡航前に、6人が渡米後待機中に死亡/
山口県在住の家族への、Jリーガー等も協力しての募金活動、渡米し、移植するも不適応、
しかし2日後ドナーが現れ2回目の移植は成功/
親御さんのコメント…大意のみ…「提供者は姿かたちが変わってもどこかで生き続けてると
思う気持ちで提供している、それを聞いて涙が出た」
(↑あくまで意訳です。違っているかも。それに、文脈からして「提供者」というより
「提供者(ドナー)の家族」でしょうね)/
USAにも小児待機患者は300人→そこへ日本から臓器移植を求めて来る、ことへの問題/そこで、法律の見直しが、となるのですが、一方小児救急医療体制の不備と脳死判定基準の問題がある…/
だいたい、こういう流れでした。
意訳というより「超訳」になっているかもしれませんのでご容赦を。
これから、マスコミ等でこの問題が取り上げられる頻度も増しそうですね。
りんごレポート大宮編(2) 投稿者:りんご 投稿日: 7月12日(金)21時16分43秒
日本脳死・脳蘇生学会の午前中の模様をお伝えしますー。まず、一般演題として「脳低体温療法」「臓器提供」「蘇生後脳症」のセッションがありました。
「臓器提供」のセッションの中で、「提供の意思をかなえられなかった意思表示カードの記載不備症例の検討」田中秀治氏(杏林大学)によると、2002年1月現在、日本臓器移植ネットワークによせられた臓器提供意思表示カード所持に関する情報が463件で、このうち、脳死下臓器提供に至ったものが18件、心停止後腎・組織提供が41件、組織のみの提供が196件。
この463件の情報のうち、心停止下提供に関するものが35件、不明が82件、記載不備が54件で、記載不備によって提供の意思がかなえられなかったのが全体の11.6%を占めていたそうです。
それに対して会場から、「カードの構造上に問題があるのでは」などの意見が出されました。
後日、厚生労働省や日本臓器移植ネットワークの人のお話を聞く機会があったけど、記載不備に関して、カードそのものを変えることは考えていないようでした。午前中のもう1つのセッションは、脳蘇生の限界への挑戦「予想外の意識の回復を見た重症脳障害例」でした。
大会長である堤晴彦氏の意向で、1例でもいいから予想外の意識回復を見た症例報告してほしいということで、5例の症例発表がありました。
実は急性薬物中毒だった例や、心臓疾患、低体温療法に関連したもの、心肺停止をきたし蘇生後難渋しつつも社会復帰に至った例などが紹介されました。いのちは尊いもので、それを診断し治療する医師の判断力ってすごいなあと思いました。
その医師の判断ひとつで、いのちが左右されてしまうのかも・・・。
きゃー、こわい。会場からの質問にも動じることなく答えているお医者さんたちでした。
それにしても、脳蘇生を語りながら、午後からは、小児の脳死のことをディスカッションするという、なんとも奥の深い学会です。りんごレポート大宮編(3)へ続く!
少し違うのでは? 投稿者:一見さん 投稿日: 7月11日(木)21時57分55秒
>charさんへ日本でも脳死からの臓器移植そのものに対して反対している人は多数派ではないと思います。
しかし、本人や家族が、脳死を死として受け入れるかどうかは、誰かに強制される
ものではないと思います。
親族指定認めず、国会論議へ 投稿者:てるてる 投稿日: 7月11日(木)21時44分55秒
Yahoo!newsでも掲載されていますが、毎日新聞、読売新聞によると、
厚生労働省の審議会は、親族も含め、提供先指定の臓器提供を認めず、
国会での論議が必要という結論を出したそうです。http://www.yomiuri.co.jp/00/20020711i111.htm
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20020712k0000m040062000c.html
charさん 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月11日(木)20時03分41秒
その点については、私の近刊「生命学に何ができるか」に詳述しましたので、ぜひお読みください。http://www.lifestudies.org/jp/seimeigakuninaniga.htm
(無題) 投稿者:char 投稿日: 7月11日(木)15時40分05秒
米国のドナーも日本のドナーも同じ人間であるのなら、愛する家族や友人につながる生身の存在のはず。今日の米国で脳死=人の死に異論を唱える人はいないのでしょうか?
既成事実の積み上げによって米国では脳死が一律に人の死となったのならば、米国と同様の経過を経て日本もそうなっていくのでしょうか?日本の脳死移植反対論者はなぜ、北米欧州の現状に異を唱え、やめさせようとしないのか?
多くの日本人が膨大なお金を使って米国へ渡って移植を受けるのをやめさせようとしないのか?
世界のなかに自分のいのちを救う方法があって、それ以外では自分が必ず近いうちに死ぬということが確定していて、脳死移植を切望する患者がいたとして、脳死移植に反対するといううことが
その患者の生きる権利を間接的に剥奪することにもなるというう事に関して、倫理的にどうか?
米国 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月11日(木)14時08分47秒
米国では、脳死は一律に人の死です。
この点が、日本とはまったく違うのです。
生体と死体を天秤にかければ、生体のほうが重いという理屈で、移植が肯定されます。米国では、「脳死」にかんしては国民的コンセンサスは取られないまま、70年代から80年代にかけて専門家主導で既成事実が積み上げられていきます。その結果、いまでは疑問を呈しにくい状況が作り上げられていると思われます。
失礼します 投稿者:ちゃー 投稿日: 7月11日(木)00時14分21秒
失礼ですが
米国で移植医療をみていると、ここの掲示板で語られている話が
どうでもいいように思われてきました。
ここは、それが殺人であろうが、自殺であろうが、薬物中毒であろうがドナーが臓器提供に適していれば
通常どうり移植が行なわれている。なんでもありの世界です。
死刑囚の臓器でもでも使わない理由はないと思えてくる。
欧州・北米の脳死移植がどういう理論的根拠のもとで、どういう経過で社会のコンセンサスを得てきて、今日の状況があるのかどなたか教えてください。
今の日本は北米の移植状況をめざしているわけですから。
(無題) 投稿者:金魚 投稿日: 7月10日(水)16時17分22秒
はじめまして。金魚と申します。現在日本では体重が10キロ以下の乳幼児は外国へ行かないと臓器移植がうけられないんですよね。
それは臓器提供可能な年齢が15歳以上で、15歳以上の臓器は乳幼児の体にあわないからだと聞きました。
15歳が臓器提供できないのは、個人の意志尊重などのためであるということも、調べて知りました。
それでは何故、アメリカなどではそれが可能なのでしょう?
アメリカでは個人の意志などは無視する、ということなのですか?
それとも、宗教かなにかの違いなのでしょうか。初めて書かせていただくのに不躾に質問してしまってスミマセン;
御粗末な記事ですね。 投稿者:一見さん 投稿日: 7月10日(水)11時31分02秒
神戸新聞の記事は、御粗末きわまりないですね。アイバンクに登録している=本人の生前の意志なのだから
本人の生前の意志が"ドナーカード"の誤解によって活かされないケースが
多発しているのなら重大な問題だけどそうではないケースで、家族の同意だけで提供される数が減ったというのであれば
これについての評価は意見の割れるところだろう。提供者の数が減った事について、その要因を、分析していないし、
何が言いたいのかもわからない。
角膜、腎臓提供が減少との記事 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 9日(火)20時26分42秒
神戸新聞に、角膜、腎臓の提供件数が激減との記事が載っています。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/020709ke65010.html角膜、腎臓提供が激減 臓器カード普及で余波
--------------------------------------------------------------------------------2002/07/09
心停止後の角膜と腎臓の提供が、最近二年間で大幅に減少している。背景に、臓器提供意思表示カードの普及がある。心停止後の臓器提供は脳死段階と違い、同カードがなくても患者家族の同意があれば可能だが、医師や家族が混同して「心停止後の移植もカードが必要」と誤解しているケースが多いという。兵庫アイバンク(神戸市)は「移植のしくみについて、正しく理解してもらうよう啓発に力を入れたい」と話している。(森本尚樹)
脳死段階での臓器移植は、同カードによる患者本人の意思表示と患者家族の同意が必要。だが、心停止後の臓器提供は患者家族の同意だけでかまわない。
同アイバンクによると、角膜提供者は例年二十人前後だったが、二〇〇〇年度は七人、〇一年度は十二人に留まっている。全国でも約千人を数えた提供者数が、〇〇、〇一年度はともに約八百七十人まで減った。
死後に角膜を提供したいと考えている人の多くはアイバンクに登録している。しかし、同カードを持っていなかったため、移植が行われなかったケースも少なくないという。
同カードには脳死段階での臓器提供のほか、心停止後の提供についても記載する項目がある。各地のアイバンクはカード普及に力を入れているが、このことが、理解不足のまま混乱を招く皮肉な結果につながっている。
腎臓移植でもやはり同じ傾向がみられる。このため兵庫県と同アイバンク、県臓器移植コーディネーターが連携し、県内の臓器提供施設の脳外科の医師・看護婦を対象としたアンケート調査を検討している。
角膜移植についての問い合わせは同アイバンクTEL078・382・6046
この手の記事は、いつも、臓器移植法で、脳死後の臓器提供には、
本人の意思表示が必要とされているせいで、心臓死後の臓器提供にも、
本人の意思表示が必要と「誤解」されているのが、原因であり、
家族の同意だけで臓器提供できるという仕組みが理解されていない、
という調子で、書かれています。今まで、このような記事が神戸新聞に載るたびに、心臓死後の臓器提供についても、
本人の意思表示を必要とするべきであるという投書をしてきましたが、
それも、一回目は載ったけど、二回目からは載らなくなったし、今度は、
もう、疲れて、投書する気力もわきません……
毎日の記事は 投稿者:一見さん 投稿日: 7月 8日(月)21時33分44秒
第9例に関する記事ですね。
判定委員会の文章と大きな矛盾はないですが・・・http://www.mhlw.go.jp/shingi/0104/s0427-4.html
公になっていない、部分があるとすると・・・
やっぱり、なにか釈然としませんね。カルテの患者への開示(遺族を含むかどうか?)の法制化に医師会は
反対しているけど・・・脳死移植関連の場合、原文そのものを
遺族が希望すれば、原本の開示は、保証されているのだろうか?
りんごさん 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 8日(月)00時04分53秒
乙です〜。
おっとっと、他の掲示板とまちがえました。
おつかれさまです〜。>>現代では、爆発的に世界に普及した移植医療の発展の中で、脳死と脳蘇生の分岐点は、人間の生命、すなわち人間存在自体を規定するまでにその意義を深めてきました。
>
>ほんと意義深いお言葉ですね。
>どんな学会が展開されるのか、期待に胸が高鳴るりんごでした。私の胸も高鳴ってきました。
大宮編(2)に期待します!「爆発的に世界に普及した移植医療」……といっても、ある程度、
経済的に豊かな国に普及した移植医療、ですね。
免疫抑制剤の開発向上も、移植医療の普及をささえたと思います。
それから、Yahoo!newsによると、日本臓器移植ネットワークで
臓器移植を斡旋してもらったときの費用は、医療控除の対象になる
ことに決まったそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020707-00000201-yom-pol政治ニュース - 7月7日(日)12時48分
臓器移植のあっせん費、医療控除の対象へ
厚生労働省は6日、臓器の移植希望者が脳死者からの臓器や骨髄などの移植を受ける際、あっせん団体に支払っている費用について、新たに医療費控除の対象とするよう2003年度の税制改正で財務省に要望する方向で検討に入った。あっせんを受けなければ移植治療が成り立たない実態を踏まえた措置で、移植を受ける患者にとって所得税や住民税の軽減につながる。
厚労省が新たに医療費控除の対象とするのは、脳死下の心臓、肺、肝臓、腎臓、すい臓、小腸と、心臓死後の腎臓のほか、骨髄、臍帯血(さいたいけつ)のそれぞれの移植あっせん経費。
現在の臓器移植では、ほかの疾病と同様、医師の診療・治療行為や投薬などにかかった医療費のうち、患者の自己負担分を医療費控除の対象とし、200万円まで控除できるが、あっせん費用は控除できない。
しかし、移植希望者は自分で提供者を探すことが事実上不可能で、臓器は「日本臓器移植ネットワーク」、骨髄は「骨髄移植推進財団」、臍帯血は全国10か所の「臍帯血バンク」を通し、自分の症状にあった提供者を探しているのが実情。あっせん経費は、1件につき臓器が10万円、骨髄が平均56万円(検査料も一部含む)、臍帯血が5万円(北海道臍帯血バンク)という。
このため、厚労省では、「移植はあっせんを受けて初めて実現する医療行為とみなすべきだ」(幹部)と判断した。(読売新聞)
[7月7日12時48分更新]
りんごレポート大宮編(1) 投稿者:りんご 投稿日: 7月 7日(日)21時00分37秒
第15回日本脳死・脳蘇生学会に参加するために、関空から羽田へ飛びましたー。
羽田から大宮までは、バスで移動。首都高からは、途中、東京タワー、お台場、銀座、東京ドームなどの夜景がきれいな東京横断の旅。
そして、大宮に到着!会場近くのパレスホテル大宮に宿泊。
ここを選んだのは、会場に隣接していることと、羽田から直行バスがあることなのだ。一夜明けて、いよいよ、会場へ。
受付で参加費7000円を払い、参加章をもらう。プログラムはいくらだったか忘れた。
中へ一歩ずつ進んでみると、あっ、杉本健郎先生発見!。
お顔のわかる先生がいると、とっても心強いものです。
この学会こそ、顔がわかる先生は、杉本先生と濱邊祐一先生だけ。
キョロキョロ。濱邊先生は、まだ、いらしてないようですね。
あとは、論文や検証会議で名前しか見たことがないけど、有名な先生がいっぱい(だと思う)。プログラムに目を通すと、最初のページに大会長である堤晴彦氏(埼玉医科大学総合医療センター 高度救命救急センター)のことばがあって、一部抜粋すると
>現代では、爆発的に世界に普及した移植医療の発展の中で、脳死と脳蘇生の分岐点は、人間の生命、すなわち人間存在自体を規定するまでにその意義を深めてきました。
ほんと意義深いお言葉ですね。
どんな学会が展開されるのか、期待に胸が高鳴るりんごでした。続きは、りんごレポート大宮編(2)へ! http://square.umin.ac.jp/jccrbd/
検証 投稿者:森岡正博 投稿日: 7月 4日(木)23時42分45秒
>せき反射が疑われたのは、判定中止の後だったという。これは、どういう経緯なのでしょうね? よく考えると、なんか分かりづらい。
さらに詳報 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 3日(水)21時51分54秒
毎日新聞のバックナンバーから。
2001年4月28日の報道です。http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/zouki/200104/28-1.html
1度中止の脳死判定、事前の診断が不十分−−福岡徳洲会病院
福岡徳洲会病院(福岡県春日市)で昨年7月、10歳代女性から行われた脳死臓器提供について、厚生労働省の脳死臓器提供検証会議(藤原研司座長)は27日、女性に対する臨床的脳死診断(仮の脳死判定)が不十分で、脳波が平らかどうかを確認できていなかったと発表した。病院は1回目の法的脳死判定の途中でこれに気づき、判定を中止していた。
病院は、当時の記者会見で、判定中止は「脳の一部の脳幹の反射(せき反射)が残っている疑いがあったため」と話したが、検証会議には、実際には臨床的脳死診断が不十分だったためと報告した。せき反射が疑われたのは、判定中止の後だったという。
また、同病院が臨床的脳死診断をする前に、家族に対する脳死臓器提供の説明を、日本臓器移植ネットワークに依頼していたことも分かった。
藤原座長はこれらについて「適切かどうか不明だが法令とガイドライン上の問題はない」と話した。【高木昭午】
[毎日新聞4月28日]
さらに訂正! 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 3日(水)21時46分18秒
>これは、昨年1月に福岡で臓器移植のために実施された脳死判定の文書です。
↓
これは、一昨年7月に福岡で臓器移植のために実施された脳死判定の文書です。よりくわしく説明しますと、2000年7月、福岡県の徳洲会病院で、
十代の女性に対して、臓器移植のための法的脳死判定が実施されたのですが、
同病院は、臨床的脳死と診断する前に、家族から、臓器提供意思表示カードを
提出されていた、
法的脳死判定の第一回目の途中で、臨床的脳死の診断が不充分で、
脳波が平坦になっているかどうか確認できていなかったことに気づいたので、
一旦、法的脳死判定を中止した、
とのことです。
これらの事実は、2001年4月27日に、
厚生労働省の検証会議で明らかになったとして、
毎日新聞や、時事通信で報道されました。
タイトルが変でしたm(__)m 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 3日(水)21時34分25秒
先の投稿は、
「厚生労働省、開示請求された脳死判定の文書を廃棄」
と書こうとしたんだけど、長すぎるので、
「厚生労働省」を削ろうと思って、「厚生」だけ消し忘れたのでした。
短くてわかりやすいタイトルをつけるのって、むずかしい。(^^;)
厚生開示請求された脳死判定の文書を廃棄 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 3日(水)21時31分25秒
Yahoo!newsにも紹介されていますが、読売新聞によると、
厚生労働省は、情報開示を請求された、脳死判定の文書を廃棄していたそうです。
これは、昨年1月に福岡で臓器移植のために実施された脳死判定の文書です。
http://www.yomiuri.co.jp/01/20020703i111.htm開示請求された脳死判定文書、厚労省ひそかに廃棄
福岡県内の病院が1昨年7月に実施した臓器移植のための脳死判定に関し、厚生労働省が関連文書の情報開示を求められていたにもかかわらず、ひそかに文書を廃棄していたことが3日、内閣府の情報公開審査会の答申で明らかになった。情報公開法に抵触する可能性も出ている。
審査会は、情報開示請求者の異議申し立てを受けて、一連の経緯を調査していた。審査会の答申によると、昨年4月に公開請求を受けた厚労省は同27日、「対象の文書が存在しない」ことを理由に不開示を決定した。ところが、不開示決定と同じ日に、厚労省はこの文書を廃棄していた。
厚労省によると、問題の文書は当時、厚労省が日本臓器移植ネットワークから借り受けたもので、文書のコピーを省内の会議資料として使ったという。同省は「情報開示の対象になる行政文書に当たると考えずにうっかり捨てた。隠す意図はなかった」と、隠ぺいとの見方を否定。担当者の処分についても、「何も決まっていない」としている。
これに対し、審査会事務局は「昨年4月の情報公開制度発足以来、このようなケースは初めて。請求を受けてから対象となった文書を捨てることは本来ありえない話だ」と厚労省の対応を批判している。
(7月3日19:35)
臓器提供先に係る本人の生前意思の取扱いについて(A案) 提供先指定に係る生前意思の取扱いについて(B案) 臓器移植委員会におけるこれまでの「臓器提供先に係る生前意思」に関する主な意見(未定稿:事務局まとめ) 諸外国における臓器提供先に係る本人の生前意思の取扱い(未定稿メモ)
|