森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2002年05月01日〜05月31日

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脳死・脳蘇生学会シンポジウム 投稿者:てるてる  投稿日: 5月31日(金)20時52分22秒

スギケン先生の掲示板に、第15回「脳死・脳蘇生学会シンポジウム」の案内が載っています。
浜辺さん、杉本さん、船橋市立病院の唐澤秀治さんその他が、講演をされます。
りんごさん、私の分まで、絶対、行ってくださいませ〜。m(__)m

http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/bbs/index.htm


情報公開についても明文化して欲しいと思います。 投稿者:一見さん  投稿日: 5月29日(水)13時45分37秒

提供する施設側のハードルを下げたって、臓器提供件数が増えるとは思えません。
かといって、良心に訴えるようなイメージキャンペーンにも眼界があるでしょう。
「医療に関する厳正な情報公開」これをセットにするべきだと思います。

話は、無関係な事になりますが・・「個人情報保護法案」で、行政側に罰則規定が
ない事に対して、「行政側が違法をすることを前提とした法律はおかしい」という。
一般市民にとって、理解しがたい理論ですね。

「臓器移植法」についても、「お医者さんは間違いをしない」ことが、前提に
なっていると思います。しかし。「お医者さんも時として間違いをするのです。」
脳死からの臓器移植が「特殊な医療」で、あるからには、
「間違いが起きたときの罰則規定」「間違いが起きていないかどうかのクリアーで
厳正な事後調査と情報の公開」など、厳正な条件を付けたほうが良いと思います。

提供者となる可能性のあるものにとって、究めて安心できる法律であることが
最終的には、提供される臓器を増やすことに繋がると私は思います。

数がたらないから、何とか集めてこよう!・・・こういう匂いのする
議論が先行すると、全てにおいて、マイナスだと思います。

医師を保護する法案じゃなくって・・・あくまで患者を権利を保護し
不幸にして脳死状態に陥ってしまった場合、個人としての生前の
尊厳と意思と志を、生かすための法案であってほしいと思います。


ひろきさん 投稿者:てるてる  投稿日: 5月29日(水)08時05分32秒

町野案だけでなく、日本移植者協議会案でも、てるてる案でも、
脳死判定には、本人も家族も、承諾を必要としない、としております。
町野案と日本移植者協議会案では、脳死判定によって、死亡宣告が
おこなわれます。

てるてる案では、脳死判定だけでは、死亡宣告をしません。
臓器移植をおこなう場合は、臓器を摘出した後に、
臓器移植をしないときは、心臓が止まったときに、
死亡宣告をします。
ただ、心臓が止まるまでの間、どの程度の治療をおこなうかは、
本人の意思がわかっていたら本人の意思で決める、
また、本人の意思がわからなければ、家族の意思で
決めてもよいとしています。

http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/gekkanfukushi.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/gekkanfukushi.htm


町野案 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月29日(水)07時17分42秒

町野改正案では、

(1)脳死については

本人が反対していても、家族が反対しても、それにはおかまいなしに、脳死判定がなされ、脳死が判定されれば自動的に「死体」となります。

(2)臓器移植については

本人あるいは家族の反対があった場合には、できない。

となってます。

この二つの違いを、きちんと認識しておく必要があります。


Re:主観と客観 投稿者:zero  投稿日: 5月29日(水)02時35分57秒

それは、すでに森岡先生がその著書『脳死の人』
において書かれている問題ではないでしょうか。

(1)脳死が私の死であるかどうか。
(2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。
(3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。
という第五章の「一人称・二人称・三人称の問い」のあたりで。

先生は脳死が医学的な側面と法的な側面だけに絞られて議論
されることに異議を唱えています。「求められているのは
むしろ哲学的な、宗教的な、そして生活に密着した思考」だと。


Re 投稿者:ひろき  投稿日: 5月29日(水)01時12分57秒

それは知ってましたが、町野改正案では本人の反対の意思表示が無くても
臓器移植は可能でしたが、家族の反対が無いことが条件ではなかったですか?

自分では文句の言えない状態になるわけですから
個人的に臓器移植に賛成の人でも反対の人でも
誰かに判定をチェックしてもらわないといけないと思います。


15歳未満・・・ 投稿者:けい  投稿日: 5月29日(水)00時28分14秒

法改正(になるのか?)の動きから目を離せませんね。
今現在、臓器が不足しているんです、困っている、という状態が続いているので、
やはりその不足を補いたい、という動きは当然強くなりますよね。
法のシステムって不思議な力のように感じます。もしも、この法が通ってしまえば、
もう明日から(○○年から)、「そのように」なってしまうわけですから。
AIDの話しを井戸端会議していて、それを実行したときに、将来、どういう問題が起きるか、
考えなかったのかしらね、お医者さんたちは…という意見がありました。
この決定によって、将来、どのような問題が起こり、我々に何がもたらされるのか…
そういうことを考えたいですよねっ。

ひろきさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月28日(火)13時46分01秒

>一部では本人の承諾だけでOKという方向らしいですねえ

いえいえ、自民党が採用するかもしれない町野改正案では、本人や家族の承諾とはまったく無関係に、医師が脳死判定をしたら、即、死体ということになります。たとえ本人が脳死で判定してほしくないと思っていたとしても、脳死判定=死体です。

これから国会に上がってくるであろう町野改正案の、このポイントだけは、しっかり頭に叩き込んでおきましょう。


主観と客観 投稿者:ひろき  投稿日: 5月28日(火)00時59分17秒

どこでも「脳死になったらどうしますか?」という議論で始まりますが
正確には「医者が脳死と判断したらどうしますか?」なんですね。
機械のデータに基づいて医者が判断する。
「この方、脳死ですよ」「はい、そうですか」と言えるでしょうか?
この問題も考えた方がいいと思います。

死刑と同じで「例え極悪人でも国家が命を奪ってはいけない」と反対する人もいれば
「冤罪の可能性があるから」と反対する人がいる。
後者は前者の考えには必ずしも同意してないわけです。

脳死もこれと同じで「脳死になったら臓器移植してもいいじゃないか」と考える人の中にも
「判定に不安があるから」反対という人もいる。

だから、本人の承諾と本人の委託された見届け人(たいていは家族でしょうが)の同意があって
始めて要件が満たされたという風にしないといけないと思うのですが
一部では本人の承諾だけでOKという方向らしいですねえ。


自民党が15歳未満の臓器提供へ 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月27日(月)17時40分04秒

↓ やっぱ、自民党なの? 法律を決めるのは? 公明党はどうするのか?
阿部知子議員の動きは?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020527-00000103-yom-soci


>一見さん 投稿者:てるてる  投稿日: 5月27日(月)17時06分02秒

>物事の順序
そう言っていただくと、とてもよくわかります。

私が言いたかったのは。 投稿者:一見さん  投稿日: 5月27日(月)14時29分17秒

優先と行ったら語弊があったようなので、物事の順序とします。

人員や予算的な措置を十分に講じることなく、提供施設の数だけを
増やそうとする事に、非常な違和感を覚えます。

装置が足りないから、ベットに空きが無いから、受け入れ病院を見つけるのに
時間がかかった等の理由で、生存するチャンスを狭められるような事が、
あったとすれば・・脳死状態だと宣告されても
ご遺族にとって、臓器提供には違和感を覚える
事態になるのじゃないかと。

脳死からの臓器移植を考える場合・・何故か医療の大局を見据えた
議論が少なく、「脳死になてえしまったら」から始まっていることが
多いように思います。

だけど、本当は、「どういう状況で脳死になってしまったら」という
付帯条件を、つけたいと思っている人が少なくないと思います。

臓器移植(推進)関連の人は、緊急医療にどのぎらい関心があるのかなぁ。
という、素朴な疑問です。


「難病の子どもを知る本」 投稿者:てるてる  投稿日: 5月24日(金)20時47分40秒

大月書店から、「難病の子どもを知る本」というシリーズが出ています。
6冊まで出ていますが、そのうち、はじめの3冊は、移植と関係のある病気です。
「1 白血病の子どもたち」
白血病の治療法の一つとして、骨髄移植が紹介されています。

「2 心臓病の子どもたち」
治療法として、カテーテル治療とペースメーカーが紹介されています。
そして、本の終わりのほうで、こどもが心臓移植を受けられるようにするための、
運動が紹介されています。
「全国心臓病の子どもを守る会」の運動です。
> 心臓病の中には心臓移植でしか助からない病気もあります。
小さな子どもも日本で移植手術ができるように、国やまわりの
人たちに働きかける活動もしています。さらに多くの人に移植
医療を理解してもらうために意思表示カードなどを配る運動も
すすめています。

「3 腎臓病の子どもたち」
治療法として、透析と移植が紹介されています。
「機械で血液をこす 血液透析」、
「おなかのなかで血液をこす 腹膜透析(CAPD)」、
そして、移植です。

> 移植には生体移植と献体移植があります。生体移植とは、
家族など身近な人から腎臓を1つ提供してもらって移植する
ものです。腎臓は2つあり、1つだけのはたらきでも十分
生きていけます。献体移植とは、亡くなった人から生前の
意思や家族の同意を得て、腎臓の提供を受けるものです。
どちらも血液型や白血球の型が一致しなければ移植できません。
献体移植はかつては大都市の大きな病院にかたよっていましたが、
今では、どの地域においても、血液型などがいちばん適合する
人に提供されるシステムになっています。

「献体移植」という言葉は、初めて聞きました。

大月書店のこのシリーズは、2000年に発行されています。
それぞれの病気をかかえて、学校にかようこども、社会で働くおとなを
紹介して、理解できるように、工夫されています。


前者というのは? 投稿者:てるてる  投稿日: 5月24日(金)20時35分27秒

一見さんは、

>そして、前者が最大限優先されたうえで、不幸にして
脳死状態になったのであれば、生前の意思が生かされる。

と書いていらっしゃるので、前者と言うのは、

>頭部外傷で、現在の医療水準では蘇生限界点ギリギリ・・・1000例のうち
999例程度は脳死状態になってしまう可能性の高い患者がいるとします。

こっちのほうではないでしょうか。
そして、

>しかし、どちらの命が優先されるべきかといえば・・
前者であることに異論のある人はないでしょう。

と書いていらっしゃるのでは、ないでしょうか。


優先順位というもの。 投稿者:一見さん  投稿日: 5月24日(金)16時47分02秒

頭部外傷で、現在の医療水準では蘇生限界点ギリギリ・・・1000例のうち
999例程度は脳死状態になってしまう可能性の高い患者がいるとします。

他方・現在の医療技術では臓器移植以外に、生存の見込みのない患者さんがいるとします。

どちらも、人の命ですから優劣があるわけではありません。
しかし、どちらの命が優先されるべきかといえば・・
前者であることに異論のある人はないでしょう。
そして、前者が最大限優先されたうえで、不幸にして
脳死状態になったのであれば、生前の意思が生かされる。

このことが、確実に守られることが、最も重要で、
かつ厳正に監視されるべき問題だと思います。

臓器は、ヘリを使ったりパトカーの先導で、日本中何処にでも運ばれる。
それに対して、死線をさ迷って緊急を要する患者が、必要な医療を迅速に
受けられない事があるという。 これは、ドナーを増やす為にもマイナスでは
ないでしょうか?

治療を長引かせれば、臓器が使いにくくなる。医療費がかさむ?
そういう匂いが、チョットでもあるようだと、この国では、脳死体からの
臓器移植は定着しないでしょう。

具体的には、緊急医療に携わるものの地位向上(予算・人材の両面で)
遠回りだとも思えるけど、これが、一番の近道だと思います。


たとえば 投稿者:有濾  投稿日: 5月23日(木)23時51分22秒

 みんな、今日は、

 生きるとか、死ぬとかについて考えてみようか?

 みんなは、生まれたときのことを覚えているかな?
 生まれた時のことを憶えている人は居ないと思うんだけど。

 では、死ぬ事ってどういうことだか解りますか?  死んだことのある人は居ませんから、やっぱり解らないでしょう。

 自分がいつ生まれたか、
 誕生日は、みなさん知っていますね。
 でも、自分の誕生日は本当に自分の誕生日なのかな?  

 でも、お父さんも、お母さんもそう言っているから
 多分本当なんだね。

 本当はね、自分が生まれたと思った日が本当の誕生日なんだよ。  

 でも、それは無理だね。

 それと同じで、自分が死んだと思った日が死んだ日なんだよ。

 でも、それも無理だね。
 だって、死ぬときに
 「私は、しにました」って、人にいえないもんね。

 いつ生まれたか、自分では解らないように。
 いつ死んだかも、自分では解らないんだよね。

 いつ生まれたかは、自分の意志とは関係なく。
 お父さんや、お母さん、他にも色々あるんだけど
 自分じゃない、他の人が決めてしまうんだよね。

 いつ死ぬか、これも同じなんだな?  

 自分じゃない、他の人が決めてしまうんだな。

 みんなは、これについてどう思うかな?
 ちょっと考えてみないかな? 

 −−− つづく −−− 


>ところで 投稿者:通行人  投稿日: 5月23日(木)12時53分50秒

小渕さん、ドナーになるには年齢でひっかかりそう。
そうでなくても糖尿病の持病があって薬飲んでたそうだから、
薬漬けになってて移植に適した臓器とは言えなさそう。
他にも政治的配慮とかあったのかな?

生命倫理教材、誰がやっても偏向的にならざるを得ないでしょう。
「誰が作ったか」を明示して、その傾向を読み取ることができるように
することで、欠点を薄めるのがせいぜいできることでしょう。
いろんな偏った人が偏った本をそれぞれ出せば、比較検討もできるし。
同時に「メディアリテラシー」の教材にもなっているという罠(笑)。


ところで 投稿者:一見さん  投稿日: 5月22日(水)12時44分14秒

小渕前総理大臣は、ドナーカードを携帯していたはずなのだけどなぁ。

Re:(無題) 投稿者:ヒゲなしおばはん  投稿日: 5月22日(水)05時51分04秒

・・・かなり、深いことを考えておられるのですね。失礼致しました。
それでも、ヒゲおやじさんにはできるんじゃないかって思えてきました。
授業案のメリットデメリットに詳しいのではないでしょうか。
ヒゲおやじさん風の授業案を知りたくなりました。f(_ _;.

(無題) 投稿者:ヒゲおやじ  投稿日: 5月22日(水)01時44分40秒

情報の正誤やバランスを考えて授業案を作ることはそんなに大変なことではないと思います。問題になっている授業案でも、発問や資料や反応を明示するやり方をしている点は優れていて、ああいう表現形式にしておきさえすれば、修正や積み重ねが簡単に出来ます。
私どもも似た形式で教案(ただし高校〜)を作り授業にかけ修正してきました。しかし、森岡先生なら、あれやあれ的なものをどういじっても届かない水準(知識的なということでなく)で小中向け教案が作れる気がしてしょうがないのです。それは作家の質みたいなもので、私どもがどう逆立ちしても・・・。

すりガラスからひかり? 投稿者:ヒゲなしおばはん  投稿日: 5月21日(火)09時06分14秒

横入りお許しください。
前略
ヒゲおやじさんの叫びを読んで、自分の気持ちと置き換えてみました。う〜〜〜
そうだ、おやじさん、頑張ってみませんか?
というのは、おやじさんが水準になっちゃえばいいんじゃないかって、気づきました。おやじさんのその勢いはきっと通づると思います。
子ども達に。むしろ、おやじさんが水準作っちゃって、例えばkinokopress.comさまに売り込んじゃうとか?・・・冗談がすぎましたm(_ _)m.  ただ、水準といっちゃうと子どもをモノというか、格差をつけた言葉というか、少し抵抗が私にはありました。それから、子ども達の気持ちは標準的というより、大きなばらつきがあって、実際には臓器移植については非常に難しいのではという気持ちも2年間持ち続けています。しかし、教育現場のおやじさんは、ご自分の生徒さんの心の動きはつかんでいらっしゃると思っていいですよね。そうなると、おやじさんがご自分の生徒さんのための授業案を作って、提供する情報に誤りがないかを、森岡先生にお尋ねする・・・というほうがいいのかしら・・・って勝手にすみません。名乗りもしてないのに・・・m(_ _)m.
 いえ、おやじさんはこんなことは充分ご承知の上でお願いなさったいるのですよね。
 実は、私そうなんです。おやじさんの投稿を繰り返し読んでいて、やっと気づきました。仕事のこともそうだな、私に足りないことを教えてもらいました。 かしこ すりガラスに水をいただいた気分のおばはんより

それでもお願いしたい 投稿者:ヒゲおやじ  投稿日: 5月21日(火)00時07分04秒

それでもお願いしたいと思います。
うまく言えませんが、私どもが欲しいのは、公平さではなく水準です。公平なんてありえないけど、思考の水準みたいなものはあるとしか思えない。その水準を担保せずに子どもたち(や私たち)に自己決定を委ねるのは、森岡先生自身(やその層化した思想)の歴史を省略した上での歪曲に思えてしまう。この同時代に先生がいらっしゃるのですから何とか・・・

ヒゲおやじさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月20日(月)21時22分48秒

授業教材を作るのは、ほんとにむずかしいです。
たとえ私が、公平を期して作ったつもりでも、どうしても、森岡杉本案寄りの教材になってしまうことは目に見えています。
この改正案に直接タッチしていない方が、関連資料を読破して、作ってくださるしかないようにも思いますが・・・。

お願いします 投稿者:ヒゲおやじ  投稿日: 5月20日(月)19時51分41秒

生命倫理課題を授業で扱う場合、ご本人の感動?や得心?
をそのまま授業化するとこういうパタンが頻発します。
子どもに正当な自己決定の機会を得てもらうためにも、
森岡先生、小中学生向けの授業案か読み物を作ってください。 お願いします。

たしかに 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月19日(日)15時45分25秒

>ひろきさん、ゆうみんさん

ひろきさんご指摘の箇所を読み飛ばしていました。その箇所は、あきらかにおかしいです。(1)(2)は臨床的な脳死状態になったことが前提なのに、(3)は脳死以前の話。それを並べているから、下記で紹介したような子どもの意見が出てくる。(2)の記述もヘン。

この授業はまずいです。


この道徳授業は 投稿者:ゆうみん  投稿日: 5月19日(日)02時12分51秒

少し、乱暴なように思います。小学6年生に、「いのち」についてのどのような学習が、それまでに為されているのか解りませんが、いきなりこの内容では、多くの子供たちは、ただ振り回されるだけのような気がしますが、如何がなのでしょうか。

ミスリーディング? 投稿者:ひろき  投稿日: 5月19日(日)01時38分13秒

下のリンクですが

@臓器提供する  → 病院はすぐに移植医に電話連絡。救命治療をうち切り、臓器保存術に切り替え方針決定。脳死判定を待って臓器摘出。
A考えていない  → 臓器提供を拒否していないので、病院はすぐに移植医に電話連絡。救命治療をうち切り、臓器保存術に切り替え方針決定。心停止後、家族の承諾のみで臓器摘出。
B臓器提供を拒否  → 家族の救命治療要求に基づき、脳低温療法(救命治療)実施。75%が回復。または、家族に看取られ安らかな死。

これは明らかに間違いでは?
低体温療法すればほとんど助かるわけじゃないでしょう。
低体温療法をすれば助かりそうな患者には効果的なだけで
もうどうしようもない状態なら何やってもムダでしょう。

こんなデータを見せられれば、誰でも臓器提供したくないでしょう。
子供達が真剣に考えるべき問題はこういうことではないような気がします。


チョットした疑問 投稿者:一見さん  投稿日: 5月18日(土)19時43分28秒

最近のこの国の医療事情を鑑みて、少なからぬ者が抱く
漠然とした不安に、以下のようなものがあると思います。

つまり脳死からの臓器移植を受ける者と、同じレベル(いやそれ以上の)医療を、
ドナー側が受けることが保証されているのだろうかということ。

今現在の日本の緊急医療体制では、実のところ保証されていないと思います。
緊急医療の充実と同時進行でなければ、脳死からの臓器移植の推進には
大手を振って賛成とは言いにくい。

子供の脳死判定についても、小児ICU等の施設が、十分に充実したうえでの話だと
思います。


道徳授業 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月18日(土)07時43分05秒

資料の見せ方で、意見が逆転するのは、子どもでも、大人でも同じですね。
しかし、

>脳死になってそのままにしておけば、どうせ死ぬんだとも思っていた。でも、
>そのままにしている時間にもう一度生きることができるというのは知らなかった。

という感想が出ているけど、これについては、次の授業のときでいいから、訂正するべきだと思う。


道徳授業記録 投稿者:りんご  投稿日: 5月18日(土)02時04分32秒

小学6年生を対象にした「脳死問題を通じて人の死について考えると共に、生の尊厳に気づく」ことをねらいとした授業の記録。

参考図書に、森岡本がないのが残念・・・。

http://www.geocities.co.jp/NeverLand/7745/takada.htm


郵便局に 投稿者:りんご  投稿日: 5月18日(土)01時46分48秒

おいてあった、臓器提供意思表示カードの説明書には、「贈りたい人、贈りたくない人・・・」のメッセージは、ありませんでした。

なるほど 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月15日(水)20時09分44秒

となると、この表現の初出は、どこなのだろう??

リンクが・・・ 投稿者:りんご  投稿日: 5月15日(水)10時48分22秒

ふたたび

http://www.mwc.ne.jp/shimonzu/ainote.htm


贈りたくない人という表現 投稿者:りんご  投稿日: 5月15日(水)10時43分33秒

森岡せんせご紹介のページに以外にも使用されれていました。

http://www.mwc.ne.jp/shimonzu/ainote.htm

http://www.jtr.ne.jp/card.html


贈りたくない人・・・ 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月15日(水)08時53分36秒

下記のページに、

>贈りたい人も
>贈りたくない人も
>臓器提供意思表示カードを
>お持ちください

というCGがありますが、
「贈りたくない人」という表現は、なんかヘンです。
この二分法も、ヘン。

http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~urology/jisyoku.htm


そろそろ 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月13日(月)03時01分54秒

動き始める気配ですね。
国会内の阿部さんたちの、反対派・慎重派は、静かなのかな?

臓器移植法改正求める集会 投稿者:てるてる  投稿日: 5月13日(月)00時56分33秒

毎日新聞と、Yahoo!に、日本移植者協議会など関連団体が集会を開いて、
臓器提供病院の拡大と、15歳未満の臓器提供者を認める法改正を求める
決議をしたというニュースが載りました。

http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20020513k0000m040045000c.html


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 5月 9日(木)01時40分30秒

「脳死」なんて感覚的には誰も認めてない欺瞞だ、というような主張をして
普通の人はそのまま臓器移植反対に行く所を
「生きている」状態からの移植を認める、という方向です。

問題がこじれるのは「生と死のラインを明確にしよう」とするからで
それは「臓器移植が出来るのは死体からだけ」という考えに固執しているからであり
「生死の定義は置いといて」生きている体から移植を認めてはいいではないか、とのことです。
臓器移植に関しては「違法性阻却論」と似てますが
問題が他にも拡大していくので、パーソン論あるいは「滑りやすい坂」とか言われて
危険思想扱いです(特にドイツでは)。

今のところ、臓器問題しかやってませんが
後に尊厳死や出生前診断による中絶などに話が及んでいくはずです。

命を客観的なものではなく主観的なものとみなして
本人や周りの意志を重大視してます。
「生命の平等性や神聖性」について疑義を投げかけています。


RE:おひさしぶりです 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 8日(水)20時48分08秒

>ひろきさん
>テキスト(叩き台?)はピーター・シンガー「生と死の論理」です。
「脳死」概念のまやかしは批判していて、その上で私とは全く別の方向に
考えを伸ばしていったのはいい勉強になりました。

それは、Truogが、脳死概念を捨てるべきか?という問いを出して、
脳死にこだわらずに、植物状態も含めて、
本人の意思による尊厳死と臓器提供を認めよう、
という結論を出したのと、同じようなことを言っているのでしょうか?

私は、尊厳死と、臓器提供とは、分けて考えるべきだろう、
と思うのです。
臓器提供は、他人に自分のからだを利用してもらうこと。
もしそれを、植物状態でも脳死状態でも区別せずに、
本人の意思だけで認めるならば、
薬物の実験とか、医学生の解剖教材とか、いった利用方法も、
認めてもいいのだろうか? ということになると思います。
さらには、生体で、麻酔をかけてやってもらいたいとか、
麻酔も要らないという人も現われたら、どうするんだろう。
Truogは、臓器移植のことしか言っていませんが、
ピーター・シンガーは、臓器移植以外の利用方法についても、
言っているのでしょうか?


ひろきさん 投稿者:ゆうみん  投稿日: 5月 8日(水)10時42分03秒

どうも、お久しぶりです。着々と学業に励んでおられるご様子、何よりですね(^^)。
わたしも、この『生と死の倫理』は読破(?)したいと思いつつ、正直なところ途中で挫折しています。あなたの書き込みに刺激されて、再び挑戦してみようかなと思い立っています。

横レスになってしまいますが、また気楽な書き込みもなさってくださいね。少しでも、グリーフケアになれば幸いと思いますし...。


おひさしぶりです 投稿者:ひろき  投稿日: 5月 7日(火)02時47分13秒

ゼミの発表のためにここからのリンクやみなさんの意見を参考にさせてもらっています。
本文の内容をまとめて、自分の意見を述べるという形式ですが
やはり一度語りだすと、際限なく広がり、ページが多くなってしまったので
また修正しないといけません。

テキスト(叩き台?)はピーター・シンガー「生と死の論理」です。
「脳死」概念のまやかしは批判していて、その上で私とは全く別の方向に
考えを伸ばしていったのはいい勉強になりました。
一度、輪読した後に後期にまた発表があるのですが、
その時は真剣に立ち向かってみたいです。

今回は時間不足と知識不足のため、著者の考えを追うだけになりそうです。


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 6日(月)09時48分55秒

さっそく移植法ページに追加しておきました。

報道について 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 6日(月)08時19分31秒

このごろは、脳死と診断された患者からの移植手術があっても、すっかり、報道が小さくなっていますが、最初のときの報道については、ドナーのプライヴァシー侵害の疑いが残っていますね。
そのときの報道について、救急医の方が、NHKに抗議したことが、ウェッブ上で公開されています。↓
「NHK脳死報道に関する疑問」

http://ghd.uic.net/99/j6hodo.htm


小説の紹介 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 4日(土)01時54分40秒

松浪和夫著「摘出」の紹介文を書きました。↓
まだ臓器移植法施行前に、脳死肝移植を実行しようとする医師を描いています。
臓器移植ネットワークを介さないで、移植医が、レシピエントを選定し、それをまた他の医師の意見で、他の患者に変える話も出てきます。

http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/library42matsunami.html


厚労省が確認。本当は信州大の患者が、肝移植第一候補でした! 投稿者:りんご  投稿日: 5月 3日(金)10時40分23秒

「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会 のHPより

>4月15日(月)に行われた肝臓移植手術のレシピエント第一候補者は、日本臓器移植ネットワークの公式発表と異なり、実際に移植手術を受けた北海道大学の患者ではなく、本当は信州大学の患者が第一候補者だったことが、厚生労働省臓器移植対策室の調査で判明した。

>信州大医学部付属病院は、衆議院議員・河野 洋平氏(65歳)への生体間肝移植手術を16日(火)午前9時45分から開始していることから、本来の肝移植第一候補者への手術は、可能な体制にあったことは間違いない。

詳しくは、下記のページへ!

http://fps01.plala.or.jp/~brainx/news24.htm#2002/ 4/30


断固 投稿者:森岡正博  投稿日: 5月 2日(木)10時02分36秒

たしかに町野さんは断固貫く、というか変容ということを知らないですね。
だから、下にあるように、自分の感情が少数派であってもそれをみんなに断固説得するという筋道になる。

「個々の死生観なんてたいした問題ではない」という意見を、断固貫くのが、町野さん。

それに対して、私も断固貫いた対談が、かつての「論座」対談だったのでした。双方一歩も引いてない。これを美学と見るのか、不毛と見るのか。。。


普通の感覚について 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)22時14分36秒

山勢委員は、看護婦ですが、母親の情として、意見を述べられています。
もし自分が死ぬとわかっていたら、是非自分のこどもに臓器を提供したいと願う。
しかし自分がぴんぴんしていて、自分のこどもにも、おかあさんがいなくなるような目に遭わせたくないと思うならば、是非とも他人から自分のこどもに臓器を提供してほしい、と思う。

これは、私の、臓器移植そのものに対する感じ方と同じです。
もし自分のこどもが脳死になったら、絶対に臓器を提供しない。
でも、もし自分のこどもが心臓移植が必要だったら、絶対に移植手術を受けさせたい。

他のこどもなんかみんな死んでもいいから、後でこどもがはずかしがってもいいから、自分のこどもだけ、命を助けたい。

そういう気持があるからこそ、それが不動の強い感情だからこそ、法律は、公平無私をめざさなければならないと思っています。


おまけ 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)22時01分59秒

4月1日締め切り、5月12日締め切りの2回の意見募集をするについての、厚生労働省の方の御意見。

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 それと相川委員のご発言については、パブリックコメントという仕掛けをもってして、ある程度本日整理をさせていただいたような資料ですとか、これまでの当委員会にお示しした資料の所在を明示をすることによって、インターネットを通じて「何かご意見がある方はどうぞ」というやり方をし得るというツールはございます。
 ただ、そういう中で、一つには通常1カ月ぐらいその周知をし、ご意見をいただき、それに対して十分な時間的なものをもってして整理をして、またこちらにご報告をする。いずれにいたしましてもパブリックコメントは投票ではございませんので、A案B案についてこういうご意見が広く国民の皆様方の間にあるということを私どもとして把握をし、委員の皆様方に情報提供するツールとしてというふうに私どもは受け止めておりますが、そのような手法があり得る。
 ただ1カ月かかるというのと、ただ、そうは言っても先程委員がおっしゃったように、どうしても限りがございますし、そういうものに対してリアクションをいただく方はある意味で感度のいい方という部分がございまして、先程藤村委員なりあるいは山勢委員があえてということでおっしゃったように、町野委員のご発言にも関わらず、「普通の感覚」という表現がいいのかどうかよくわかりませんが、というのをすくい上げるものかどうかというところについてはいろいろと制約があろうかと思いますが、もしご指示があればそのような段取りもしえます。そこについてはどういうふうにするか、またご指示をいただきたいと思います。
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私って……4月1日締め切りのぶんにも、5月12日締め切りのぶんにも、長文の意見を送ったりして……つまり、
「リアクションをいただく方はある意味で感度のいい方」
で、
「普通の感覚」
ではないのね……しゅん。


町野委員の意見(結び) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)21時56分37秒

これが結びです。

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 町野委員
 今日決めないということは、私はそれはよろしいことだろうと思います。さらに弁解をさせていただきますと、私の話に対しては原則論はそうです、スッキリしているといわれます。しかし、これはかなり前からこの臓器移植ができた時から意識されていて、こういう問題が出てきたらどうなるだろうかということをずって考えてきた末の結論ですから急にこういう問題が出たから、いや原則はこうだったと言ってるわけでは毛頭ないのです。自分の子どもだったら、というような議論もありますが、助けられる子どもの身になってみたら、他の人を飛び越えてお母さんの臓器を貰ったということで、はたしてその子にどういう影響があるだろうかということを私は考えます。
 それとやっぱりそのために助からなかった人がもしかしたら出るかもしれないということですね。客観的に順番を待っている人たちです。感情と理論というのは私は別ではないだろうと思います。国民感情を考慮される方は、国民の感情というのはご自身で理解されているだけの範囲ではない、おそらくもっと理解しなければいけないことがあるのではないか、私もその点は反省いたしますけれども、そこらへんをちょっと申し上げたいと思います。

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町野委員の意見 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)21時52分52秒

これぞ、真骨頂です。

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 町野委員
 あまり話さないつもりでいたのですが、いまこれを機会にいくつか申し上げたいと思います。私は法律がこうだからこれを強行しろと、公平というのはこうだからこうしろというだけではありません。私は感情的にもこれが正しいと思うからです。
よく感情と理論とは別だというように言われることがあります。今日の議論もそのように受け止めますが、私はそうではないだろうと思います。両方正しいということはない、どっちかが間違っている、あるいは両方間違っているということはあると思います。
そして感情の裏付けのない理論と言うのは、まさに虚しいと思います。そして感情だけの議論は情緒的で、恣意的なものになることです。私は二つは一致すべきものだと思います。
 法律論だけを云っていると言われるのは、私としては辛いものがあります。法律家だからそういうことを言うのだろうと言われますけれども、私は本当にこれは正しいし、感情的にこれが支持されると思っているから言っているわけでございまして、自分の感情を押し殺して言っているわけではないということです。
 国民感情のことを言われますけれども、たしかに国民の中にはいろんな感情があることは私は事実だと思います。しかし同時に私は先程から申し上げております通り、移植を待つ方の患者の感情も考慮して欲しいと思います。身近な人の感情だけを考慮しろ、たしかに汝の隣人を愛せよという言葉がありますが、その聖書の言葉の意味は隣人からまず愛しなさい、そうでなければ他の人は愛せないということになるのです。だから汝の隣人だけを愛せばいいということでは全然ないわけです。
 国民感情を考慮するということであるならば、多くの人たちの感情も同時に考慮してもらいたいというように思います。そして私は感情的には自分の言っていることは正しいと思いますけれども、これは国民が納得してくれないということであるならば、それは私は間違いだとは思いませんが、さらに納得してくれるように努力するのが筋道ではないかと思います。
 そして「例外」の意味です。例外にも何段階かあります。原則はこうなんだけれども、その原則の意味からしてこういう例外もあり得るというタイプのものがまずある。たとえば人を殺してはいけないというのは原則です。しかし正当防衛だったら人を殺してもいいわけです。これが例外です。いまのは同じレベルの問題です。
 しかし人を殺してはいけない。しかし妄想で人を殺してしまった。これはやっぱり許されないことです。これは、彼を非難することができないだけです。これからやってほしい、精神障害の人は、たとえばそういうエクスキューズのある人は、どんどん人を殺していいということには、ならない。
 ここで言われている例外の意味がどちらかということですね。私はこのあとの方の意味だとするならば、これは非常にある意味であまりきれいでないといいますか、小手先のその場しのぎの議論だと思います。そしてもし最初のレベルだ、つまりそれが権利だということであるならば、もうちょっとおおっぴらにしなさい。先程も言いましたとおり、それだったら隠さないでどんどん宣伝して、あなた達の権利だ、正当防衛権はどんどん行使すべきだと同じだという具合に言うべきであって、勇気凛々と対抗しなさいというのが私は筋道だろうと思っている。そこらをはっきりさせないでおいて、うやむやのうちにすることはまさに私の感情としてはこれはちょっと許すことができないというふうに思います。

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臓器の提供先指定についての審議(2) 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)21時49分22秒

この審議会では、断然、町野朔さんが、光っています。一人、孤高に、断固反対を貫いています。
私の心の中で、今、町野朔さんは、赤丸急上昇、ストップ高状態です。
もはや、熱烈なにわかファン状態で、できるだけ、抜粋していきます。

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 第4に、やはり不公平なことでございます。ネットワークでの順番を飛び越すということの不公平さというのは、この中にも指摘されておりますが、何よりもこのやっぱり臓器移植がスタートした時、私は移植学会の野本先生らの言われることはそのとおりであると思いました。やはり公明公平な移植医療でなければならない。そして個人の恣意的なこと、個人の好みによって左右されるということはやっぱり避けなければいけない、そして透明性を確保しなければいけない。私はそのスタートの時がやっぱり正しかっただろうと思います。
 この臓器移植法はいろいろなところで奇妙な修正を受けたということはありますが、この点については変わらなかっただろうと思っております。しかし、いまこれを正面から否定するということを私は認めるというのは、やはり妥当ではないだろうと思われます。
 これは小さいことのように思われますが、日本の移植医療のこれからのあり方にかなり関係して来ることだろうと思います。日本では臓器移植がいろんな法律上の理由とか、いろんな事情でかなりできなくなっているということがあります。もちろんこれが正義の観点からやむを得ないことであるならば、死んでいく患者に対しても、これはやむを得ないことなんだ、ということはできる。しかしそうではなく、日本に生まれたことの不幸を嘆けとしか言えないような状態だと思います。そしてそれらの患者たちは海外に行って移植を受けたりしているわけです。
 そしてそのような事態を放置しておきながら、今度は身内にあげるという意思を重視すべきだという考え方というのは、私はかなり島国根性的な考え方だろうと思います。
したがいまして私はこの内部に入るまでもなく基本的に反対でございます。これ以上私は申しません。

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 私は別に非人間的に理屈だけを押し通そうとしているつもりは全然ありません。それぞれの事情・心情というものがあるのです。その時にやはり一つの考え方として決断をしたわけですよ。公平公正でやっていこう、それがそれぞれの人の感情を大切にし、権利を大切にするゆえんだというふうに決断したわけです。
 その時にある時点でやっぱりこっちのことをもっと考えなければいけないから、それを覆すということは、そうするともう一回最初から考え直すというのは筋道は通るけれども、これは例外だから認めちゃっていいのだろうか、そうするとそのうち例外が原則になるということだろうと思うんですね。

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臓器の提供先指定についての審議 投稿者:てるてる  投稿日: 5月 1日(水)21時44分48秒

厚生労働省のホームページに、2002年3月13日の第6回「厚生科学審議会疾病対策部会臓器移植委員会」議事録が載っています。
これは、前の、4月1日締め切りの意見募集より前の審議会です。

ここで、委員長の黒川氏が、自殺して提供先を指定するのはどうするのか、という意見を出しています。

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 黒川委員長
 でも私は脳死になるかどうか全然わからないんだから。ここでもう一つ大事なのは、自殺した人の場合、そういう生前の意思があったらいいですか。私は子どもを救うために自殺するんだと遺言を書いておいて、それは受けられますか。そんなことをしていいのか。それはこれに関係ある話なんですよ。それも認めますか。
 それからもう一つは社会的な意味は、もしこれをするのであれば、生前に意思を表示することを普及啓発することは適当でないというのは一体どういう意味ですか。せっせと啓発するべきですよ。皆さん、自分が病気になったらまず自分の肉親から、血族から貰いましょう、自分たちの血族を説得できないでどうして他人から貰えますかということを言えますか。もしこれをやっていくと、僕が一番恐れているのは、そういう社会的な風潮が出て、登録したらあなたは自分の血族をまず説得しているんですかということを言われますよ。
 何で他人のを貰いたがるの。血族と十分話してますか。そういうことは必ずエックスキューで出てくるような気がするなあ。他人のを貰う、そんなことをあてにするよりまず自分たちでやっているのか、家族みんなでやってますか、お金を集めているんでしょうねと言われたらどうしますか。これをエンカレッジすることになりはしないか。もしそうなったらば私が身内でいるのであればあげたい。だけど人にはあげない。じゃあよその人はますますくれるはずはない。こういうふうになりはしないかなという気が日本の社会では出てくるのではないかな。つまり誰かが誰でもいいですよと言った時に、あんた馬鹿じゃないのとは言わないけれども、欲しい人は自分で努力をしろということを言いはしないかなという気がする。

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http://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/03/txt/s0313-1.txt


「難病の子どもを知る本1〜白血病の子どもたち〜」
山城雄一郎・茂木俊彦監修、稲沢潤子文、石本浩市・難病のこども支援全国ネットワーク編、オノビン絵・田村孝絵、大月書店、2000年
「難病の子どもを知る本2〜心臓病の子どもたち〜」
山城雄一郎・茂木俊彦監修、稲沢潤子文、石澤瞭・難病のこども支援全国ネットワーク編、オノビン・田村孝絵、大月書店、2000年
「難病の子どもを知る本3〜腎臓病の子どもたち〜」
山城雄一郎・茂木俊彦監修、稲沢潤子文、香坂隆夫・難病のこども支援全国ネットワーク編、オノビン絵・田村孝絵、大月書店、2000年

「道徳授業記録 島根 道島根通信」No. 240, 2000年3月24日

01/09/10 臓器移植対策委員会(第3回)議事録
01/10/11 臓器移植委員会(第4回)議事録
平成14年4月12日 臓器提供先に係る生前意思の取扱いに関するご意見の募集について
臓器提供先に係る本人の生前意思の取扱いについて(A案)
提供先指定に係る生前意思の取扱いについて(B案)
臓器移植委員会におけるこれまでの「臓器提供先に係る生前意思」に関する主な意見(未定稿:事務局まとめ)
諸外国における臓器提供先に係る本人の生前意思の取扱い(未定稿メモ)
02/03/13 第6回「厚生科学審議会疾病対策部会臓器移植委員会」議事録