森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年04月01日〜04月12日

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またもや、善と悪 投稿者:古川明広  投稿日:04月12日(水)06時56分15秒

「加害によってよごれた曖昧な善」しかしこれは、生命倫理の枠内にとどまる生命認識ではあると思います。環境倫理や、両者の中間形態として宙ぶらりんとなりがちな実験動物倫理、家畜動物倫理(?)、エントロピーによる生命の捉えかた、等を加味して検討すると、生命とはむしろ「良性が混入した不純な悪」なのかもしれない。この「不純化した悪」を善と転化するのが人間で、過剰に転化しすぎることもしばしば。その意味では、あくまで悪でありつづける悪性を限りなく不純化していくことをこそ善としてとどめ、それを克服した「善」を捏造してはダメなんじゃないかとも思います。

死の相対化について 投稿者:古川明広  投稿日:04月12日(水)06時52分16秒

町野案のなかで言われている死の相対化について。
脳死とはより人為でコントロールされた死なので、延命治療の中止や臓器移植が問題化してくるのも、より死をコントロールできる段階になってしまったいまの医療が切り開いた問題なのだと思います。より管理された死において、死が相対化していくのは当然と思うし、これも今の医療が私たちとの関係において切り開いたこと。もし現行法が、町野氏の言うように医師が医学的見地に立って脳死の概念を提示したり脳死判定するというような専門家性を阻害しているところがあるのだとしたら、それは検討されないとならない。でもそれはあくまで医学的見地からみた死であって、いわゆる「自然死」という絶対的な死から離れて管理された死を死ぬ私たちは、医学が示す死も検討したうえで、そのケースそのケース、その場その関係における独自の死を死ぬ。その独自の死という普遍性においては、それは相対化ではないと思う。これって日本人的な問題もあるんだろうけど、それだけじゃない。なんだか繰り返してるかんじだけど、ここんとこまた確認。

Le Pissenlitさん 投稿者:古川明広  投稿日:04月10日(月)07時37分49秒

僕もある施設を一度見学したことがあります。子供の施設ではなくて、もう少し年長者が対象の授産施設です。そこでは常時ボランティアを受け入れていて、また行きたいのですがなかなか都合がつきません。
> 彼女が脳死状態になり意志表示のないことをどう扱うかというと、幼児より障害の
> 方ではないかと思いますが。
幼児と脳障害者、脳障害者と健常者とで、意思表示のないことの扱いが違ってくるということですか? 自閉症の症状にもいろんな程度があるようだし、一概には言えないのでしょうが。

真剣さとか積極さとかってほんの刹那しか出せなくて、あとはほとんど眠って生活を過ごしてる気がしてます。自分を認めるというか、肯定するのって確かに難しいですね。全面肯定はぜったいムリ。死ぬ最期にでも、かろうじて否定の量より肯定の量がちょっとばかり上回ればめっけものという感じです。


Re:自閉・学校教育 投稿者:Le Pissenlit  投稿日:04月09日(日)22時07分48秒

自閉に応えて
かって私は友人の働いていた自閉症の子どもの施設を訪れた経験があります。
一人の自閉症の女の子から、何回も「お母さんになってね!」と力一杯手首に爪あとが出きるほど痛く握られたことがあります。この子の表現を思いだしながら彼女が脳死状態になり意志表示のないことをどう扱うかというと、幼児より障害の方ではないかと思いますが。しかし、彼女の人生って十分に他の人に自身を与えたと思われるので、他の方に臓器を与えるより「ごくろうさまって」私は個人的に言いたいですね。
あまり解答にならないかも知れませんが・・。

学校教育
身につかない勉強についてですが、古川さんの積極的な態度と言うのか真剣な場から生まれる言葉でしょうか、求める力なのでしょうか、私は生きた短いお言葉を頂くことや問いを持つことがありますね。
勉強とは、学校教育の短い期間でなくその後の継続や、人によっては学校教育に乗りきれないというより、大きいのか枠に治まらないような資質の方がいますよね。
自分が自分を認めることは結構一番難しいのかもしれませんね。案外一生の仕事のように。


自閉 投稿者:古川明広  投稿日:04月09日(日)09時09分23秒

自分にもまったくの無関係な問題ではないこととして、自閉症のことを考えることがときどきあります。森岡さんの紹介記事、Le Pissenlitさんのおっしゃる「意志表示をしていない人に家族といえども介入することが困難な時」とも絡むか絡まないかわかりませんが、自閉症の方が脳死状態になった場合を想定すると、意思表示のないことをどう扱うかについて、幼児とおなじ扱いになるのか、ならないのか。

学校教育 投稿者:古川明広  投稿日:04月09日(日)08時49分26秒

> Le Pissenlitさん。学校教育にちゃんと乗り切れなかった弊害なのか、勉強をするというのが、ほんと身についてません。だから臓器移植のことについてもまだすごい勉強不足で、勉強の速度がとてつもなく遅い。過去に大学病院内のICUで看護助手をしたことや実験動物飼育関係の仕事をしたことの皮膚感覚はあります。それらを含めて、良く言えば直観的、でも実のところは単なる当てずっぽうで発言して反応をみて、あわよくばそれで勉強不足を補おうとしているところがあります。そうは問屋はおろさんよなあ。ここで新たに出会う概念や言葉なんかにしても、当てずっぽうすぐ使っちゃう。使ってみてわかるものとはいえ、う〜。

改正反対の質問状 投稿者:森岡正博  投稿日:04月08日(土)20時41分28秒

大阪の朝日新聞だけかもしれませんが、次のような記事が。

関西の患者や市民、宗教関連の11団体が、関西の臓器提供施設に公開質問状を送る。「本人の意思を無視した移植の強制につながる」と。
団体名は3つ出ていて、「頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会」「宗教法人 大本」「阪神医療生協診療所」ほか。
質問内容は(1)院内のコンセンサス(2)家族の承諾で移植が可能になったり乳幼児からの提供も可能になった場合、どう対応するか。

などのようです。山口研一郎さんが、からんでいるらしい。


キャンパス拡大により 投稿者:Le Pissenlit  投稿日:04月08日(土)11時47分02秒

皆様の豊かな議論を休み休み拝聴しています。高度何万フィートに上昇して日本の景色の緑の部分に頭を休め易いので皆様の緻密なご意見有り難いです。

さて、ららさんの紹介記事、米本昌平氏の公益紡ぐ大学の期待に対して古川さんの述べられた<学校教育にちゃんと乗りきれなかった者にとりどうも。  解かりますね。
しかし、私は最近このHPで府大の生涯教育学部に通学しているかのようで、森岡先生をはじめここに参加している方々の知にクラス・メート気分であづかっています。府大の現役学生諸君のHPも含めて。本屋さんで手にした本が府大の先生のものであった等おかしい経験も含めて。その意味でネットにより大学の知がより近く社会人に開く現実に(すべてという圧力はかけたくありません)感謝しています。

臓器移植の問題にしても、町野案、森岡案、てるてる案、etc案等、並列、対立に豊かに社会に向け語られ、時間をかけて、いろいろな議論、対話、出会いにより「真理」が守られ希望を感じます。大学が自由な雰囲気(勝手放題無責任でなく)を持ち、議論を通じ「知」の限りない喜びと厳しさを知る人々にサポートされることを願っています。
この意味からの米本氏のご意見にもうなずける次第です。

それにしてもいい子ちゃんでも自己価値の低い内を開かない現代人をどうしたものやら。
自己価値がとても高いことが前提でない時や場、意志表示の思想の歴史にまたもや新たな時と場の配慮を必要としていますね。意志表示をしていない人に家族といえども介入することが困難な時ですね。古川さんやミラレバの娘さんの別のお言葉に興味や反応を覚えますが、またの機会に。


トリオジャパンからの要望書 投稿者:古川明広  投稿日:04月08日(土)07時54分39秒

うわあ、そうですか。ナイーヴになってばかりでもおれんのですね。
患者の方々の個々の考えは、トリオジャパンからの要望のかたちで統一されているのだろうか。個々の意見を聞ける機会があったらなあと思います。

抑圧 投稿者:古川明広  投稿日:04月08日(土)07時42分29秒

てるてるさんがおっしゃるように、世間とか間主観性とかは個人にたいして抑圧的にはたらいていると思います。よく言われる日本の医者の体質とかも、その世界における間主観性なのだと思います。いろんな世界のいろんな間主観性があって、それらが対立したり同調したりしながら、全体の間主観性が形成されているのだと思います。そうした間主観性の抑圧によって個人の意思が封じられないよう保障すべきというてるてるさんの主張は僕も納得できます。
ただ、脳死による臓器移植という問題においては、法は個人意思の全面保障を避けないとならないと思うのです。家族や個人などが対等に調整をおこなおうとする「場」をこそ、法は保障しなければならないのじゃないだろうかというのが、現時点で僕の考えていることです。臓器移植問題とは、間主観性にしろ近代的個人にしろ、その可能性と弊害の同時検証をこそせまるものだと思うのです。

僕自身、自分の生の期間が長らえるにしたがって近親の血縁者が減っていく一方の生き方をしていく公算が高そうなので、いまのいろんな分野における「保証人」のありかたって、ヤなんですよねえ。「家族」って概念とかも、血縁性からもうすこし自由にならんのかとか思います。


森岡さん 投稿者:てるてる  投稿日:04月07日(金)20時40分27秒

修正案をアップしていただき、ありがとうございました。
いつもお手数をお掛けしてすみません。m(_ _)m
特色を紹介するように、とのことですが…

ポイントは、以下の4点です。
 「保証人」
 「臓器移植に関する法律を説明する冊子の配布」
 「臓器を摘出するときの家族への配慮」
 「6歳未満の子供の臓器提供」

「臓器移植に関する法律を説明する冊子の配布」は、ドイツの臓器移植法を参考にしました。

「臓器を摘出するときの家族への配慮」は、掲示板でららさんが指摘された、

 > 自動的に、一律に、マニュアル的に行われていくのではないか、という危機感
 > 「いのちと死」は本人とまわりの者が体験する一回きりのことであり、
 > 100人の死には、100通りの物語があっていいはずだと思うのです。

という点について、私も同感なので、何か対策をと考えたものです。

「6歳未満の子供の臓器提供」については、子供が臓器を提供するときに、代理で家族が子供用のドナーカードに臓器提供拒否の意思表示をするという、矛盾した規定についての説明文を付けました。既に掲示板で書いたことが元になっていますが、くわしくは本文を御覧ください。

「保証人」について。
これは臓器移植に限らず、現在の医療全般に関する私からの意見表明です。
現在、私たちは、病院で何か手術を受けるときには、保証人の署名捺印を求められます。その保証人は血縁者であることが求められます。これが単身者にとっては至極不便、不合理なのです。ある高齢の男性は、保証人の署名捺印を病院から求められて困り、遠方に住む、長年会っていない、老齢の親族の女性、はっきり言ってよぼよぼのおばあさんに書類を郵送し、署名捺印をしてもらったといいます。
手術は簡単なものでも、ミスによって命取りになることがあります。患者がもし亡くなったり植物状態になったりしたら、医療ミスがなかったかどうか調査する必要が生じると思います。本来、患者は、自分のカルテを見る権利や説明を受ける権利、他の医者の意見を聞く権利を保障され、もし、不幸にして亡くなったら、代理の人に権利の要求を代行してもらえるようにするべきではないでしょうか。家族が代行できる人は家族にしてもらえばいいでしょう。家族がいない人も、もし自分が死んだら代理をしてくれる保証人を選べるようようにしたらいいのではないかと思います。

現行の臓器移植法では、家族がいる人は、本人の臓器提供の意思表示と家族の同意とがあれば臓器を提供できることになっています。しかし、家族がいない人は、当然といえば当然かもしれませんが、本人の意思表示だけでいいとされています。私には、これは、法律が個人の意思を尊重しているのではなく、むしろ、軽んじているように見えるのです。家族がいない人からの臓器提供を誰が責任をもって見守り、検証するのか。そこが不安なのです。

臓器提供における保証人というのは、外国の制度のなかにもないように見えますが、何か代わりに、患者の権利を保障する制度があるのかもしれません。保証人という言葉がふさわしいかどうかもわかりません。実は、あまり自信がないのですけれど、医療が患者本位に行われてほしい、という私の願望の表明として、保証人という制度を提案します。


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月07日(金)13時09分24秒

てるてる案の最新バージョンをアップしました。示唆に富む内容になっています。
てるてるさん、第3版の特色をご紹介くださいませ。

トリオジャパンから出された要望書も、移植法ページにリンクしました。
町野案と同じ内容のものが患者団体から出されたわけです。

私は、トリオジャパンに対しても反対の立場です。

そろそろ2本目の論文を書かないといけないなあ。


世間と社会 投稿者:てるてる  投稿日:04月07日(金)08時50分30秒

Tetsuro-hさんは
> 特に現代人は社会的な風潮や人間関係に敏感ですから
> 同調の輪が築き上げられることは否定できないと思い
> ます。
とおっしゃっていますが、これが古川さんがおっしゃる「世間」や、ららさんがおっしゃる間主観性というものではないでしょうか。
臓器を提供するときも、提供しないときも、個人の意思を尊重しないで、世間に従うのです。

家族はしばしば世間を気にして個人を抑圧します。だれそれのために、と口では言いながらそのだれそれを世間に合わせて行動させようとします。
登校拒否や夫婦別姓の人や障害者として生きる人を抑圧し、排除するのはこの家族であり、世間です。

移植を受けた方との 投稿者:古川明広  投稿日:04月07日(金)06時37分21秒

対話は、してみたいですねえ。移植された臓器とのつきあいが、時の経過でどう変わっていくのかとか。でも、たとえばこの掲示板で話す機会があったりしたら、その勇気にたいしてどう接してよいやら。それでも話してみたいなあ。

Re:善と悪 投稿者:古川明広  投稿日:04月07日(金)06時07分41秒

> 問題は、その善と悪を行き来
> する過程に真実があるか否かと、汚れの程度ではないかと思います。悪のための悪とか、
> 悪のための善ではなく、悪でよごれたいいかげんな善があってもいいように思う、

まさに、僕もそう思います。「悪でよごれたいいかげんな善」これは生命の営みそのものという気さえします。さらには、たえず入り込んで内発するよごれをどの程度排出できるか、できないのかという問題です。だからTetsuro-hさんが言うように

> 他人の臓器が体内にはいっていることはある意味自然の摂理に反している。

かもしれないけど、ある意味では自然の摂理なのかもしれません。たとえ先端医療と言えども、それはあくまで生命の「生きる力」の土台のうえにしか成り立たないのだから。
それにしても、いい言葉をもらえました。僕にとって臓器移植とは「加害によってよごれた曖昧な善」をいのちに行うときに生ずる問題のようです。ここでの、いのちをめぐる加害の広がりも、ひとつの「間主観性」であるのではないでしょうか。


世間 投稿者:古川明広  投稿日:04月07日(金)04時43分30秒

yukikoさん
> ↑共同体的  @町野B案  本人の提供意思がなくても臓器を摘出する
>           A現行法   個人の善意の提供意思と、家族の同意
>           B私とか   個人の善意の提供意思のみ
> ↓個     Cドイツ型? 個人の善意の提供意思と、家族の同意

で、Cへ向かうためには必ずBを経なければならないというのに、ちょっと異見。
日本において関係性の切り捨てを法で強制することの影響は、とてつもなく深刻ではないでしょうか。問題を、取り返しのつかないとこまで潜行化させるだけのような気がしてならないのですが…。Cへ向かうためには必ずBを経なければならないというのが、法によるレールで強要されるのではダメだと思うのです。

ららさんが言われる「間主観性」のつらなりに支えられて生きているという感覚は僕にもあります。そういうのに確実に貫かれているし、それにイヤな思いをさせられたり、非常に反発を感じることもまた多いです。日本って、近代化しようが都市化しようが、良くも悪しくも自然がしぶとい風土なのだと思います。
こうした私たちにとって、法ってどうあったら良いのか…。
しかし、

> この循環論法的構造のどこかに確からしさの錨を装填(そうてん)し、もしくは新
> しい公益を供給する装置を求めるとすれば、一つの可能性は大学であろう。

とか言われると、学校教育にちゃんと乗り切れなかった身としては、ちょっとフクザツ…。


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月06日(木)22時59分27秒

移植を受けた方と対話することに、いずれはなると私は思っています。
そのときのために、いまはエネルギーをちょっとためておこうかな。
私も具体的な対案を考えていますが、むずかしいですね。

>てるてるさん
対案は、町野さんのように、具体的な法律条文のかたちで、最終的には示さないとだめだと思います。臓器移植法の第何項を、こういう文言に変えるとかいうふうに。根本的な修正の場合は、全体の文言も考えないといけないでしょう。私も、そこのところで苦慮しています。

>法律専攻の方いません?
具体的な文言を作成する際に、ぜひ、アドヴァイスをお願いしたいです。


ドナーとレシピエント 投稿者:てるてる  投稿日:04月06日(木)18時10分53秒

> ミラレパの娘さんへ
> 人の臓器を与えられることを求めてでも生きようとすることが、尊いと言えるか

言えます。

レシピエントは、一方的に善意を施されるだけの人ではありませんし、ドナーは、一方的に善意を施すだけの人ではありません。
臓器提供は、自分が脳死状態になったときに、その状態が長く続くのを拒みたいという人にとっては、一つの希望の持てる選択肢です。
しかし、脳死状態になったときに、あまりにも早く臓器が摘出されてしまうのは、脳死判定がたとえ正しく行われたとしても、その人に生きていてほしいと願う人にとってはむごいことです。だから、できるだけ、死にゆく人を見送る立場の人が気が済むまで待つ、ということを、対案の中に入れたい、と思います。

脳死・臓器移植の問題について、移植を受ける立場の人と、議論をすることはできないでしょうか。若林正さんが「わかば」というホームページで積極的に発言されています。前にもそのURLを紹介しましたが、もう一度紹介します。そのサイトのなかの「専門家とはなにか」という論文は、必読だと思います。論文に無断で直接リンクをはることを禁止されていますので、表紙のほうにリンクをはります。

http://www.246.ne.jp/~wakaba/


考えたこと 投稿者:T.K  投稿日:04月06日(木)16時40分28秒

はじめて投稿します。みなさんの様々な意見や考察を興味深く読ませていただきました。
自分も脳死・臓器移植について思っていることを書いてみたいと思います。

日本における脳死・臓器移植論争を考えるとき思うことは、日本人の倫理観の土台は欧米のそれと比較してみると、かなり相対的であるということです。恐らくこれはららさんが引用して下さった米本氏の「個人を中心とする人間ネットワークがどう反応するかの推測が、個人の判断根拠となる」から来ているのかもしれません。
つまり、日本における倫理・道徳観は人と人との関係の中から生まれてくる故に相対的になりやすいのではないかということです。さてこの相対的倫理・道徳観がどのようにこの臓器移植論争に影響してくるのか?それを知るうえで大事なポイントは、この論争のなかにはっきりと二つの立場があるということです。(ドナー側・レシピエント側)
そしてそれぞれの立場のなかで、それぞれがドナーやレシピエントを中心に人間関係を深め、それぞれの倫理観・道徳観を創りだしていくのではないでしょうか?(倫理観・道徳観の相対化)
この様な相対化された倫理・道徳観をひとつにまとめることは大変難しいでしょう。
ましてやどちらの側の言い分が正しいのかなど判断することは少なくとも今の僕には出来そうもありません。
ただその中で私たちは決断していかなくてはいけないのもまた事実です。
欧米(特にアメリカ)では多様で相対的な倫理・道徳観へ対応するために原則主義を唱えました。
そのなかで最も中心となっている原則は自己決定という原則です。最低守らなければならない原則が、本人の意志を尊重しそれに応えるという了解によって世間的な倫理観を維持していこうという試みです。
では、日本ではどのようにして人々の多様な倫理観や価値観を和解させ共存させていくべきでしょうか?
どのようにすべきか、、まだ自分の中でも結論を出せずにいますが、しかし少なくとも私たち日本人はこの日本独特の倫理観、人と人との関係から生まれる倫理観をなくしてはいけないような気がします。


従容と死ぬことを教える 投稿者:ミラレパの娘  投稿日:04月06日(木)15時41分08秒

Tetsuro-hさん、御丁寧なお返事ありがとうございます。

技術問題はともかく、こういう人間像が一つの理想として、古今東西にあるだろうと思うんです。「自らは求めず、与え尽くす者」。キリスト教だけが献身を言ったわけではなく、仏教でも喜捨をするし、修験道なんて山伏が世間の罪悪を背負って投身自殺しましたね。誰でしたか聖人が飢えた虎に自らの肉体を餌として与えたという話もあります。

与える者になろうとするのは、むしろ尊いとされてきたことですね。しかし、ちょっと口幅ったいので言い辛かったのですが、人の臓器を与えられることを求めてでも生きようとすることが、尊いと言えるかなんですね。アメリカでは現実に、臓器提供を受けた人が、死んだ人に感謝しつつ副作用等に悩みつつも生き生きと生きておられますからね、その人達を裁くようなことは、やはり言わないでおきたいなとは思いました。ここらへんは、やはり宗教性に裏打ちされた死生観を考えないではおれませんね。

私はある面で日本伝来のストイシズムを美学と思っていますから、他人の死を伴ってまで生を与えられることを潔しとしない精神性の存在を、どんな子供であろうと知っている教育がなされて然るべきると思うんです。他人の死をおのが生の犠牲にはしない。でも、自分の死が何かの役に立つなら、役立ててくれと望む。国とか権力とかのためでなく、貧しい人病める人のために、と。こういう精神性を否定してしまったら、人間の善は何かって話になるように思います。

たらたらすいませんが、もう一つだけ書きます。私は森鴎外ファンなのですが、彼は61歳で肺結核と萎縮腎を併発して死にました。結核は20年来もっていたそうで、ひたすら摂生し、精励恪勤し続けました。死ぬ1週間前まで仕事をやり抜いて、ついに寝付きますが、死ぬ寸前まで医者に身体を見せなかったそうです。奥さんが泣くので仕方なく一度だけ尿と痰の検査をさせたとか。そしていよいよ死ぬなと思ったので、羽織袴に着替えて仰臥し、あの有名な「死は一切を断ち切る」云々の遺書の口述を始めたと言います。
鴎外は脚気予防に失敗したことを終生黙殺し、後から言えば問題ありですが、文学者と言われるのを嫌い、医科学者を任じていた人にしてこの死に方は何でしょう。
鴎外なら臓器移植問題をどう思うか、聞いてみたい気がします。


Tetsuro-hさん 投稿者:てるてる  投稿日:04月06日(木)08時12分04秒

あなたが御自分の子どもに
「他人の臓器を自分の体の中にまで入れて生きたいか?」
と聞いたら、あなたの子供は、あなたの顔色をうかがって、ほんとうは
他人の臓器を自分の体の中に入れてでも生きたいのに、その
「他人の臓器を自分の体の中にまで」

「まで」
という言葉であなたの気持ちを察して、親であるあなたに愛されたいがゆえに、
自分の本心を隠して、
「生きたくない」
と言うかもしれませんね。

拒否反応 投稿者:Tetsuro-h  投稿日:04月06日(木)03時53分04秒

<ミラレパの娘 さん
拒否反応については、臓器移植で免疫抑制剤の開発もするよりも
人工臓器の開発に努力してはどうでしょうか?
そうすれば脳死=人の死とごっちゃになったこの問題も
すこしシンプルになるんだと思うんですが・・・。

それから、僕は子どもはいません、
それゆえ、どんなに自分が今、ここで「親になったとして」と
考えたとしてもそれはあくまで想像です。
しかし、あえてその想像の世界の中で理想を語るならば
僕は自分の子どもには
「他人の臓器を自分の体の中にまで入れて生きたいか?」と問います。
なんと言われようと、自分が正しいと思ったことを実行するのも
親の役目だと思いますからね(^^)


失礼しました。 投稿者:Tetsuro-h  投稿日:04月06日(木)03時44分55秒

<ミラレパの娘 さんへ
「さん」をつけなかったこと深くお詫びします。
私が普段つかっているチャット等ではHNに「さん」はつけないものですから・・・。
以後気をつけます。

当人同士、家族ないでの倫理観の一致
それは一見、個人同士の対話で行われている、まさに民主主義ともとれます。
しかし、その意思表示によって両者の利害関係が一致したからといって
臓器移植を是としていいかというと、それはやはり恐いことです。
その個々人の間で行われている対話・議論も自己決定と云えるのか?
そもそも何を自己決定とするのか?
その定義が重要です。

子どもに決定かがあるかのように社会的に振る舞ってみても
やはり子どもは「親の子」であることには変わりがありません。
そうなると、子どもは親の顔色をうかがい
本当はドナーカードなんかどうでもいいのに
親や教師からカードへの記載が善意的行為であるから・・・という発言ひとつで
子どもはYesに丸をつける。
経験的に誰もがあると思いますが、自分が本当はほしくなかった玩具を
仕方なしに選んでしまう。親が「こっちにしなさい!」と云ったが故に・・・。
つまり、子どもにとってはこの臓器移植の自己決定すら
玩具の選択と同等のレベルで考える恐れがある、
善意すら全体主義で守り通そうという風潮がある。
強い宗教心は日本人にはありませんからね・・・一部を除いては。
だから僕は例外抜きに、まず臓器移植、脳死=人の死とすることが
反対なのです。それは結果的に個人の自由をも束縛する。
また、他人の臓器が体内にはいっていることはある意味自然の摂理に反している。
そうまでして生きるというならば、「生きること」の意味とは何でしょうか?

http://member.nifty.ne.jp/TsBar/


善と悪 投稿者:yukiko  投稿日:04月06日(木)03時02分22秒

古川さん

そうした自己、他者への加害性ですが、私は、やはり「善と悪」にかえっていくのではないかと思います。

食人性、臓器(自然物)への操作性など、臓器移植にまつわる加害性を悪だとします。
レシピエントを自己の善意による臓器提供で救済する、というたった一点の善のために、これほどの悪でささえていい、と思います。
こうした悪の肯定は、先端医療や臓器移植そのものの全的開放、果ては防衛問題まで許されるではないか、という批判があるかと思いますが、問題は、その善と悪を行き来する過程に真実があるか否かと、汚れの程度ではないかと思います。悪のための悪とか、悪のための善ではなく、悪でよごれたいいかげんな善があってもいいように思う、というのが、私の倫理性です。

で、法改正という現実を前に以前から思っていた私の加害性について。
私は、国が大義のために個人の痛みを犠牲にするのはよろしくないと思っているのに、今回は、臓器移植法との間でそれもやむなしか?と自問し続けています。私はレシピエントに犠牲を強いるのはいやだ。状況的弱者に犠牲を強いるなんて最悪だ。最低の最低の最悪なんだ。臓器移植法に反対することは蛮行である、と、これをはっきりと悪と定義し、私の善をささえるための巨大な悪?と(思えるものなら)思いたい。


個と共同体 投稿者:らら  投稿日:04月06日(木)02時16分53秒

米本昌平さんが朝日新聞3月30日(木)夕刊「論壇時評」で書かれていた記事を読んで、
日本人の「個と共同体」の独自性は、そうだそうだ、これだこれだと思いました。
その独自性は素晴らしいものだし、そういう感覚で「個と共同体」を生きている我々には、
なんだか希望がありそうだ、と思いました。最後のあたりを引用します。
     ―――――
     参照軸としての「世間」

      社会規範の参照軸として西欧にはキリスト教会があり、アメリカには憲法がある。
     では日本では何か。それは安部謹也が再発見した世間であろう。そこでは個人を中心とする
     人間ネットワークがどう反応するかの推測が、個人の判断根拠となる。論理的には無根拠の
     循環論法の構造でしかない。だが社会的(より正確には間主観的)な秩序を紡ぎ出す装置で
     もある。この循環論法的構造のどこかに確からしさの錨を装填(そうてん)し、もしくは新
     しい公益を供給する装置を求めるとすれば、一つの可能性は大学であろう。
     ―――――

すでに近代日本を考える上では論じ尽くされてきたことかもしれませんが、なぜ「死後の臓器提供へと自己決定している存在」と言えるのか、私はそう言えないのか、ということを考えあぐねていたときに、何かしらピンとくるものがあったのです。

私は、ヒューマニズムにも、憲法にも拠らないのに、なにかの支えで生きている。
それが「間主観性」って言えば高尚ですが、確かに私を支えてくれる「なにか」なわけです。
もしもこれがなければ死んでしまうかもしれない。それほどの絆でもある。
具体的に「この人」とは言えない、でもつながっている何かなんだ。
私はきっと、「脳死・臓器移植」について考えているとき、このあたりの感覚を根拠に、話しているんだと思います。この感覚も私にとっては立派な「個と共同体」に対するものです。
西欧の方々が、そりゃあ、「個と共同体」じゃない、違うよと言っても、私はそうだと言いたい。


一度投稿したものが長すぎてはねられた大事故だ 投稿者:yukiko  投稿日:04月06日(木)00時31分55秒

というわけで、また同じものを書く気力をおぎなう体力がないのではしょった投稿になります。
意味不明な場合、レスください。

↑共同体的  @町野B案  本人の提供意思がなくても臓器を摘出する
     A現行法   個人の善意の提供意思と、家族の同意
     B私とか   個人の善意の提供意思のみ
↓個     Cドイツ型? 個人の善意の提供意思と、家族の同意

@は、強者が弱者を抑圧することが社会システムの安定化装置となっている社会性。家族の同意のみの提供では、家族が社会システムの傀儡となっている感があり、反対。
Aは、関係性重視の社会性。現行法の基本理念が「1人称2人称の死の尊重のために、個人の善意の提供意思を反故にする」という趣旨ならば、私は?を選びなおしたいと思います。
Bは、個人の尊重や尊厳に重きをおいたもので、いわば流行の「あるがまま」的自由があるけれど、強者は強者のまま、弱者は弱者のままで、死を分かち合うことは難しい。
死者に尊厳がない社会では、強者である家族の同意での臓器移植が可能となる。
Cは、Bでいう個人の尊重が了解された後、関係性をふたたび取り戻した社会性。
社会システムや権威に対抗できる程度に個の体力があるため、弱者に対し、自己規制(ここではじめて自己犠牲ではなく、自己規制といえると思います)による養育的配慮が可能となる。現行法を生かすのであれば、私はAではなく、Cの立場から
「ドナー提供者が、1人称2人称の死の尊厳を自身のうちに包含し、家族のなかに存在する『提供者の(脳)死にたえられない(状況的弱)者』のために、喜んで提供意思の不可能性を許容して家族に脳死後の提供を委託する」
ということにしたいと思います。
現行法でやるなら、古川さんがおっしゃったような、伝統性と近代的個人意識の、私たち世代の日本的表現を、そこから創出したいと思います。

なお、@がダメ社会でCならいい社会だというつもりはありません。
@Aは、私たちの現在に至る連続性であり、どの共同体でも内包している社会性です。
私は今、日本はBを直前に揺れている状態であると考えており、Cへの志向性を法の精神に生かしたいのです。また、Cへ向かうためには必ずBを経なければならず、AがCへジャンプすることは、単純化して言いますと、不可能です。


・・ 投稿者:森岡正博  投稿日:04月05日(水)21時25分59秒

ここのところ、インターネットができないところに行っていたので、書き込めませんでした。みなさんの議論が進んでいるので、着いていくのがたいへんです(^^;)。
でも、フォローしていますで・・・。まだ長丁場ですので、じっくり行きましょうね。

それと、この掲示板にいつの間にか広告が付いてしまったんですが、気にしないでください。私が使用料滞納したからです(^^;;;)。


臓器移植する倫理 投稿者:古川明広  投稿日:04月05日(水)19時27分55秒

yukikoさんがおっしゃるように、「臓器移植は是か非か」「臓器(自然物)に所有権があるのか」などのことに答えが見いだせなくても、それでも臓器移植をするという倫理がありえるのだと思う。その倫理性とはなんなのかを、考えたいです。

「死を賭した献身、犠牲」を巡る文化の問題として語るべきというミラレパの娘さんの見解は、ここらへんのことをあつかうものだと解釈しますが、どうもキリスト教的な美や善ということのみに回収されてしまう倫理性には、僕は納得いかないのです。脳死における「死を賭した献身、犠牲」を僕なりにもうすこし解剖してみます。まず前提として、臓器提供を必要とする人がいる。その人に脳死の人が臓器提供をするとは、死を賭した献身、もっと言うと自己加害的な性格をおびるし、その加害は家族や関係者にも内部化して加害し痛みを発生させる。またそれはドナー本人が行うのではなく、具体的には医療スタッフが行うのであって、本人の意思の実現はそうした他者やシステムに委ねられ、それにあくまで依存している。そうして摘出されレシピエントに臓器が移植されることは、それでレシピエントの命が助かったとしても、移植した臓器が生む免疫などの問題は一生つきまとうし、人によってはそんなかたちでの生の獲得をあとで後悔するかもしれない。こればっかりはやってみないとわからない。そうしたかたちでドナーの自己加害は、レシピエント本人やその関係者にも内部化して加害することと無縁になれない。こういうことがすべてではないけれど、臓器移植をする倫理というのを考えるとき、こうしたやってみないとわからない加害性の広がりを覚悟し、承知しないとならないと思うのです。これは善とか美だけで語れないことだと思うのです。


(無題) 投稿者:古川明広  投稿日:04月05日(水)17時24分23秒

町野氏の改正案を読むと、現行法も旧案においては町野B案のスタンスであったようだし、
三年を目途として見直すというのも、最初からいきなりじゃなんだから、だんだんに臓器移植医療に慣れさせていこう、教化していこう、みたいなふうなのを感じなくもありません。
もしそうなら、私たちはそれを逆利用して、現行法が持っている隠れた理念(?)を掘り起こして、よりそれが発現されるような見直しをしていかねばならないと思います。子供の意思表示の問題や臓器より細かい組織のあつかい、家族の定義など、すでにそうした現行法の理念と実際のズレから生じた問題点が出てきてるし、そうしたいのちに関するキビシイ自己検討を続けるためにこそ、現行法の前提条件は守られねばならないと考えます。

だいたい日本人はだれかがすでにやったことの後追いをすることが多いし、理念のこもっていない、八方にいい顔をしようとして曖昧になってしまうようなそんなことばかりだし、現行の移植法も、成立事情としてはそういうところがある気がします。本人の意思表示がない場合に移植はダメというのも、意思表示をしない自由の保障とかいうよりも、圧倒的に私たちの曖昧性をケアしている面が強いと思います。でも、ことこの問題に関しては、私たちの曖昧さを、あえて法でケアしなければならないと考えます。法にいのちをケアされるなかで、僕は自分のいのちの曖昧さを疑っていきたい。強制されるのでなく。

町野氏の改定案は、個人の意思決定の思想に関して、輸入モノにとどまっていると思います。その輸入性が、普遍性とごっちゃにされて語られている。


Tetsuroさんへ 投稿者:ミラレパの娘  投稿日:04月05日(水)12時44分02秒

早速のレス、ありがとうございます。
でも、いきなり「Re:ミラレパの娘」と呼び捨てはないんじゃないでしょうか?
もう少しよく読んで下さい。完全肯定なんかしていないことは、分かっていただけなかったかな・・・・。医療に救われない多くの死に、自分や家族が遭遇することをある程度覚悟して生きることも必要だ、と。その覚悟に立った臓器の授受が当事者同士の納得で行われることまで是非を論じられるのか、と。

難しい問題ですね。例えば親にしてみれば、我が一命に代えても子供の命を救いたい。そして世の中には、文字どおりの献身で自分の人生に栄光を与えようと思う人がいる。特にクリスチャンの方は神の栄光という考えがあるから、献身的です。キリスト教的ヒューマニズムを媒介に、「献身」の需給関係がキリスト教世界では早くから成り立っていますよね。修道士がレプラ罹病を承知で間者の収容所で働く、なんてのもその一つです。

この件は、「死を賭した献身、犠牲」を巡る文化の問題として語るべきと私は思うんです。拒否反応については、うまい発明で解決するかもしれません。社会の切実な需要があるから開発を急がねば、という声が大きくなれば、大変な投資が研究開発に行われるでしょう。しかしそれに歯止めをかけるのは、やはり大方の価値観だと思います。なんとなくやばいんじゃない?の意識だと思います。この意識は、たぶん日本人の死生観に根ざしているのです。仏教界とか神道界とか、はたまた学術的には人類学とか民族・民俗学とかの人達も、それなりに発言しているようですが、自分達の文化伝統に自信がない国民であることが、ここでもかなりマイナスに働いている気はします。

しかし、こういう一般大衆的な倫理観にまで立ち入って言及しないと。わが子に臓器を提供してでも生きてほしい親をどう説得するか、という話ではないのでしょうか?あなたが親になった時、子供を臓器移植で救えるとなったら、迷わないと言い切れるでしょうか?私は、ここで子供を死なせる親であろうとすることも救おうとする親であることも、裁けないと思います。個個人の生き死にのギリギリを国家が統制してはならないように、基本的には誰にもああしろこうしろとは言えない、当事者同士の意志のみで判断することだと思います。

だからこそ、問題にすべきなのは、ここでもさんざん議論されている通り、意志表示できない者から国家の法の名において命を奪うことです。「家族が望んでいるから」と国が言い訳にすることは絶対に許せません。


町野氏の言う 投稿者:古川明広  投稿日:04月04日(火)07時01分11秒

「死後の臓器提供へと自己決定している存在」にこだわりますが、現代医療を含め、現代文明に依存して生きている以上、人間とはこうしたリサイクルな不死性に向かう存在だというようなことを言いたいのだと思うし、僕はいったんは受け止めねばならない認識だと思います。そのうえで、これを批判していこうとするなら、当然自己批判も含み込んでいかねばおかしいと考えます。

石垣りんの 投稿者:古川明広  投稿日:04月04日(火)06時40分23秒

「表札」って詩、こういうのありますね。名前にしろ、そもそも自分の生自体がもともと自分で主体的に参入したものではなく、気がついたらこうだったってところがあるから、あらためて再納得して自分で表札かけるという作業を今もしている気がします。この作業は、両親の死を看取り終えるまで完了しないという気もします。その後でもまだ自分に残りの生があったら、改名とかしてみよう と思ってるんですけどね。ハンドルネームみたいのなんか、いいですね。

近代化 投稿者:古川明広  投稿日:04月04日(火)06時23分07秒

過去ログを読みました。興味深かったのが、てるてるさんとららさんのやりとりを中心とした、日本の近代化をめぐってのこと。近代化といっても一律ではなく、それぞれの国でそれぞれの近代化があると聞きます。関係を重くみる日本人の伝統性は、近代性にたいして批判をしていく可能性も有しているけど、なんか体質みたいなところにとどまりがちで、近代性とちゃんと対峙できるような思想性となっていきにくい面もありそう。私たちが私たちの近代化をつくっていくには、近代的個人意識も伝統性も引き受けつつ、相互に批判し合っていくのが問われていくのだと思います。脳死をめぐるいのちの問題が、これらがよりハッキリと衝突しあう場となるのは当然。そうでなければならないし、そうしていきたいです。

Re:ミラレパの娘  投稿者:Tetsuro-h  投稿日:04月04日(火)01時52分12秒

はじめまして。
臓器移植はO.Kというのがミラレパさんのご意見のようで。
僕はそれには反対です。
基本的に助かるということがどういう状態なのかを
もうすこし考慮された方が良いような気がします。
臓器移植後は免疫抑制剤を譲与しなければなりません。
つまり臓器と云うのは移植された側が所有していながら
体内において、その場所(体)を拒否しているのです。
土台、他人の体内に自分の臓器がいくことなど
常軌を逸しているという証拠ではないでしょうか?
もちろん、これはあくまで僕の感覚的な意見なのですが、
完全肯定は臓器移植に関してはやってはいけないような気がします。
もちろん完全否定も同様ですが、
ただ、輸血や骨髄移植とは全然状況がことなりますから、
もっと慎重にならなければ、簡単に全体主義的発想・行動になると思います。

http://member.nifty.ne.jp/TsBar/


さらに補足 投稿者:てるてる  投稿日:04月04日(火)00時19分51秒

私が見たニュースは、毎日放送の「ニュース23」でした。
しかし、今、NHKのニュースを見ると、「臨床的脳死」という言葉は使っていません。
昏睡状態だと言っています。

補足 投稿者:てるてる  投稿日:04月03日(月)23時33分01秒

下の引用には前後の文章が欠けていますので、補足します。
「脳死を判断するのは、脳の専門家が決めればいいという意見に頷けないことは次のような例をあげればわかりやすいのではないでしょうか」(P.91-92)
(中略)
「日本の法律の中には、『死』という言葉が使われている法律がたくさんありますが、『内閣総理大臣が欠けたとき、内閣は総辞職する』ことに関しては『死』という言葉は使われていません。『脳死は死である』と法律で決めてしまえば、総理大臣が脳死状態でも、内閣を存続させることは法律違反になるでしょう。」

まさかほんとうになるとは 投稿者:てるてる  投稿日:04月03日(月)23時25分05秒

テレビのニュースで、小渕総理大臣が臨床的脳死状態になったと聞きました。
「脳死は本当に人の死か」の92ページで、弁護士の原秀男さんが次のように述べています。
「例えば、総理大臣が脳死状態になって、脳死判定によって死と判断されれば、総理大臣の欠けた内閣は即総辞職しなければなりません。しかし、脳死判定をしなければ、長くて三ヶ月くらいは脳死状態でいることができます。その間内閣を存続させることができるのです。」
今は、臨時総理大臣が決められていて、後継者も決めるそうですが。

http://www.interq.or.jp/earth/elephant/transplantbook.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/transplantbook1.htm



てるてるさん 投稿者:yukiko  投稿日:04月03日(月)18時01分52秒

資料集、ありがとうございます。使わせていただきます。

存在証明 投稿者:ミラレパの娘  投稿日:04月03日(月)14時39分40秒

はじめまして。高度な内容の議論が続いているところへ、ちょこっとお邪魔します。
私は人間が病気で適当なところで死ぬのは良いことだと思っています。私の父は私が8歳の時に脳卒中で39歳で死に、その後それなりの苦労があり「父が生きていれば」と思うことは多々ありましたが、それは「父の人生を満喫させてあげたかった」という以外の意味はありません。しかしロマンティストであった父が、この拝金主義な社会を生き延びることは、彼の幸福とは思えませんので、39歳というのが父の寿命だったと思っています。

私はその父の年令になりました。バツイチ男と結婚して、二人の成さぬ仲の子供の母親をやっています。私とは生まれも育ちもまったく違う子供達の親にある日突然なるというのはストレスです。子育てのエネルギーの半分は自己愛に根ざすと思います。修行だと思ってやってる節もありますが、自分に似た子孫がいないということを、下手に子育てしてしまったために、強烈に淋しく思ったこともあります。

そんな時期に、国内初の臓器移植が行われました。そのニュースを見ていた私は、思いがけない希望を見い出しました。「あ、何も子供を残すだけが未来につながる方法じゃない、私の臓器を提供したら、その人が生きて子孫を残してくれたら、私の子供が残るのと同じようなもんだ」少し神経症気味なのかもしれません。しかし、私はひそかにドナーになろうと決めました。臓器を提供する側が、その行為を通じて何かを達成できるのなら良いと私は思います。

一方で、おとなしく死ぬのも人間の精神の崇高な営みのように思います。森鴎外の遺書にあるように、死は何人も立ち入ることを許されない厳粛な人生の儀式だと思います。死を覚悟して生きることは人間の義務のように思います。その哲学の土台に立って、我が死で他者の生をあがなうという生き方は美しいと思います。なんていうのでしょうか、そういう「武士道」的な美学のないところで死が論じられるのは、あまりにも無機的すぎる気がします。

死を迎え入れ、死者を送ることは、人生の最重要な儀式であることは、今も変わりありません。一つの死を巡って人は何度も何度も集い、語らい、祈ります。どんなに小さな死であっても、死は生きるための深刻な教育力があります。どんなに小さな子供も、「人は必ず死ぬ」ことを知るべきだと思いますし、死から教わることは、悲しみだけではないと思います。臓器移植の議論で、死をめぐる精神文化が非常に安っぽく扱われているのが、私には不満です。


資料集 投稿者:てるてる  投稿日:04月02日(日)22時00分59秒

脳死・臓器移植関係の本を紹介するページを作ってみました。
既に全部読まれた方もいると思いますし、ちゃちな紹介文ですが、
脳死・臓器移植問題に関心を持たれる方に少しでも参考になれば、と思います。
紀伊国屋WEB,NACSIS WEBCAT にもリンクをはってありますので御利用ください。

http://www.interq.or.jp/earth/elephant/transplantbook.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/transplantbook1.htm


是か非か 投稿者:yukiko  投稿日:04月01日(土)23時48分41秒

「臓器移植が是か非か」、「臓器(自然物)の所有権」などの基本的な考えをより充実させる必要は、私自身について感じているところです。

できれば、「臓器移植は是か非か」、「臓器(自然物)に所有権があるのか」という視点を保ちつつ、現実にレシピエントが体験している「生活問題としての臓器移植」についての視点を両立していければよい、と思っています。

私は、臓器移植は、個人の内発的な提供意思がある場合に限って認める、というところでこれ以上の拡大は打ち止めにしたいと思っています。これは、現行法でおさめる、というところとは妥協できます。「個人の善意による意思」が盛り込まれているからです。

臓器移植には、生殖医療同様の、生命、自然物の操作を感じ、基本的には反対です。一方で、レシピエントには緊急の援助が必要だとも思っています。移植医療が実在し、レシピエントがその医療の援助を必要として存在している、これを見捨てておけない、というところが、制限つきながら臓器移植を是としている私の根拠です。自分なりの「第3の道」のつもり、です。

無痛文明論(6)を読むと、自分が綱渡りをしている気がしますが。


意思表示etc 投稿者:Tetsuro-h  投稿日:04月01日(土)03時06分07秒

どうも納得がいきません。
これまでの論調からすると意思表示が大事なように受け取れるのですが・・・。
(まちがっていたらごめんなさい。)
確かに意思表示は無意味ではありません。
様々な意味で効果的だと思います。

では、下記のような「意思表示しない(カードをもいたない)ことも『臓器を提供しない』ということに含める」という論はどうでしょうか??それはれっきとした意思表示ですよね?
つまり、提供するか否か迷いあぐねている時点でも公的には意思表示されているわけですよね?
つまり、ドナーカードの記述に迷っているときに脳死になってしまえば、その人は死ぬ瞬間の意志は反映されない。

これは、非常に恐いことだと思います。
今日のような脳死患者からの臓器提供が善意だという風潮(僕にはマスコミがそう騒いでいるように見えたので・・・)があるなかで、ドナーカードをもつことは「臓器提供の意志がある」に○をつけろと言っているかのようです。

ちょっと言い辛いので結論だけ言います。
これほど難解な問題を高々紙切れ一枚に決定権をもたせることができるのでしょうか?
そもそもそれを現段階で法制化していいのでしょうか?
これほど賛否両論ある問題を単純に(ではないかもしれませんが)
「提供意志のある人だけドナーカードをもって印をつけてください」
としてよいのでしょうか?

まず議論すべきは「臓器提供が是か非か」であるようにも思えるのですが・・・。
僕には子どもの意志表示にせよ大人の意思表示にせよ、
この根本的な問題がもう少し議論されてからでないと
「意思表示さえすればよい」という風潮にもなりかねないように思います。

特に現代人は社会的な風潮や人間関係に敏感ですから
同調の輪が築き上げられることは否定できないと思います。

http://member.nifty.ne.jp/TsBar/


てるてるさん 投稿者:yukiko  投稿日:04月01日(土)00時14分18秒

石垣りんのその詩、以前読んだことがあります。「それでよい」という一言が胸に響きました。

ららさん 投稿者:yukiko  投稿日:04月01日(土)00時08分35秒

ららさん、誤読でした。すいません、しつれいしました。

>100人の死には100通りの物語が
そうですね。おっしゃる通りだと思います。

>「個人と共同体の関係」=「責任と義務」という理解をしようとするのではなく、
>意志表示した人、、その個人の意思の尊厳
こうしたことを懸念するとき「かつて来た道…」という言葉を思わず連想してしまいます。

2)の「本人の意思表示が制度的に保障されていない」状態で「家族が摘出に反対」する例として、フランスの事例が手元にあります(でも15年前の超古い本なんで状況が変わってる可能性あり)。

「北アフリカの移民がフランス国内で交通事故に遭い、脳死となった。当然のように移植チームは臓器摘出を準備、看護婦が本人の衣服や持ち物を改めたが、摘出拒否を示すものは何もなかったので、その妻に、事故に遭った夫は以前、その種のものを残していなかったかどうかを尋ね、もしあれば、臓器摘出はできないことを告げた。しばらくして、妻が病院わきの車のボンネットの上で、何かを書いているのを、医師が目撃した。医師は検察局に通報し、彼女が『臓器提供を拒否する夫の遺言』を偽造していたことがわかった。罪には問われなかったものの、さんざんしぼられた挙句、脳死状態の夫の体から、腎臓などが摘出された」(いのち最前線・脳死と臓器移植 読売新聞社刊より要約)

フランスの臓器移植法を知らないので、脳死の定義などはわからないのですが、この事例では、
  @本人のする・しないの意思表示はなかった
  A家族に提供意思の確認はされなかった
  B家族は反対をゆるされなかった(強制執行)
  C臓器提供拒否の意志を示すカードの不携帯は自己責任に帰されたようす
  D個人の領域に対する検察権力の介入
  E一人称、二人称の死の尊厳の喪失
  F医療者の家族に対する「説明(と同意?)」は充分ではなかったようす
気が付いただけでも、これだけの違和感があります。

この事例は移民でしたが、こうした臓器移植法を掲げる国の「共同体」「@人々」「A家族・関係者」と「個人」との関係には関心を持ちます。この読売の記者さんには悪いけど、フランス文化で育った市民がこのような臓器移植法をどのように受け入れているのか書かれてなくて、物足りない本になってます。