「2ちゃんねる」の心理学板に、「脳死の受容をめぐって」というスレッドがあります。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1007438531/
そこで、2002年1月2日、大阪在住さんの投稿をきっかけに、一つの議論が始まりました。
大阪在住さんとは、森岡正博さんの「脳死臓器移植」専用掲示板で、 2002年1月2日に、「身内が脳死になりました」という投稿をされた、ひろきさんです。
このページには、ひろきさんこと大阪在住さんの投稿を中心とした議論をまとめています。
脳死による死別体験者の悲哀の受容過程には、
特殊性があるのか否か・・・
あるいは、なぜ日本人は、脳死が人の死であることを
認められないのか・・・などなど。心的外傷や日本文化論からの
回復とも関連するテーマですね。
医療技術の進歩により脳死と心臓死のタイムラグが大きくなるケースが増え,
家族および社会の精神的・経済的負担が非常に大きくなってきた。
さらに移植医療の発達によって脳死体を医療資源と見なすようになったことが
死の定義を変更する動きの背景にあるわけだから。
日本は世界的に見れば医療先進国であるのに
死の定義の変更に消極的であるのは、
独自の文化的背景があるからだと説明されてきたわけだけど。
ただ,文化的背景と言っても,
日本人の死生観といった根深いものだけではなく,
理科教育の問題や医療に対する不信感といったものも
考慮する必要があるのでは。
遺体を損壊した場合には、タタリがあるとして昔から恐れられて
きましたし、現に、いまも刑法では「死体損壊罪」がありますし・・・。
ふと思ったんですけど、それじゃ、なんで火葬するんでしょうか?
火葬したら、遺体が激しく損傷すると思いますけどね・・・矛盾?
これから考えるに、
日本では死んだ後も魂の一部が体に残ると考え、
欧米では死んだら魂は神の御元へ行ってしまうので体には執着しない、
これらが脳死の認識に関係しているのかと。
>>9
体が現世に残っていると、彼岸に行けずに迷ってしまうから
と言う話を聞いたことがあるような・・・
ちなみに、文化その他については全くの素人なので
間違っていたら申しわけない
うん、で、そういう意識の背景は?
これについては、欧米諸国でも、これまで言われてきたほど、
脳死を受容できているわけではない、という見解があります。
USAでドナー家族を調査したところ、ドナーが脳死と診断された段階で
死んだとは思っていなかった家族も、半分とは行かないまでも、3割程度は
いた。
ドイツなどでも、世論調査のようなことをすると、3割程度は、脳死を
死とは思えない、という結果が出ているそうです。
日本でも、だいたい、いつも、3割程度が、脳死を死とは思えない、という
結果がでる、ということで、ここ10年ほど、推移している。
日本・ドイツ・デンマークは、先進工業国のなかでは、臓器移植法の制定が
遅れた国で、この三つの国では、他の国々と違って、脳死について、かなり
議論した、という経緯があります。
デンマークでは、倫理委員会が、脳死を死としないで臓器移植ができるように
する、という提案をしたけれども、それは国会で却下され、脳死を法的に死
として臓器移植とする法律が制定された。
ドイツでは、脳死を死としないで臓器移植ができるようにする法案が国会に
提示され、1/3の議員が賛成したけれども、否決されて、脳死を死として臓器
移植をする法律が制定された。
日本では、本人と家族の承諾があれば、法的脳死判定をして、臓器移植をする
法律が制定された。
他に、USAのニュージャージー州と、オーストラリアの
ウェスタンオーストラリア州では、
脳死を死と認めない人の権利を認めています。
やっぱり欧米でも認めない人がいるんだよね。
でも、日本と何が違うかって言えば、それなりに個人の権利を認めてる
ってことなんだろうか。
このカキコ見て、欧米はさすがに個人主義だなと思った。
脳死と言うのは、医者が判断する「死」です。
脳死は遺族が見て納得できないんですよ。
脳死と言うのは、医者への完全な信頼があって始めて成り立ちます。
私が4日間で得た感じはこんなのでした。
はっきり言います。
ただ、僕の兄の場合はまだ25歳なので諦め切れないだけで
それまで、脳死なんて一生関わらない問題だと思って
特に考えたこともなかったです。
ただ、ドナー登録とかはしてなかったので、
私の個人的な感想を述べさせてもらうにとどまります。
心臓死は当たり前ですが、心臓が動いていない
脈がない、こんなのは素人でもわかる。
丸一日心臓が止まったあと再び動き出すなんて
信じている人もいない。単純な問題です。
目の前にあるのは「ほぼ死体です」て言われても
現に脈は打ってるし、心臓も動いている
身体だって温かいじゃないですか。
何で、死んだなんて言えるのさ。
「でも人工呼吸器を外せば死ぬんです」
それって殺人だろ。溺れた人だって
人工呼吸しなきゃ死ぬけど、死体じゃない。
しかも、100%脳死だと言える状況なんてほとんどない。
遺族、というより家族としては、そのわずか数パーセントを信用したい
完全に脳死と言われても、判断ミスだってありうる、
医学的にはどうであれ、こういう状況で目の前で眠っている人間が
再び目を覚まさないなんて信じられない。
実際、毎日病院に行くたび、実は脳死じゃなかったというのを期待している。
臓器移植に賛成とか言っている人は、
よほど割り切った人かあまり考えたことのない人だと思う。
私自身あまり考えたことのない人だったから
どうせ助からない命は助かる命に廻せよ、と思ってました。
テロで見知らぬ4桁の人が亡くなろうとも、親しい一人が助かればいい。
みんなそう思うはずです。
そう思わない人は、いい意味でも悪い意味でも普通じゃないと思う。
これが60近い父だと感じ方も変わってくるかもしれません。
私は心理学は門外漢なので議論しているつもりはないです。
けど、そんなふうに堅く決心している人でも
いざというときは決心が鈍ることが多いというのは、知っておいた方がいいです。
こういう体験談もご参考にしてください。心情の変わり方がリアルに報告されています。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/keijiban/kanso018.htm
http://www.lifestudies.org/jp/kanso018.htm
素人と書いてあるので、心理学の議論をするつもりはこっちもない。
無知のベールというのは、倫理学のアイデアだ。
「何の手掛かりもなくなった時に、どう考えるか」というのが、倫理感の基本である、という。
思い切りかいつまんだ説明だから、多少の語弊もあるが。
つまり、肉親だとかいうラベルが無くなった場面で、あんたはどう考える?
死にかけてる提供される人、「ほぼ死体」な提供する人(ドナー)、って場面を抽象化して、
肉親かそうじゃないか、というような情報を全て剥奪された時、あなたはどう考える?
やっぱり、ドナーとして「殺す」のではないか?
有り体に言えば、「効率」という名目の下に。
なかなか、おもしろいことをおっしゃいますね。
一応、「無知のベール」について検索したら、次のサイトが見つかりました。
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/original.html
>原初状態においては、各人の個人情報(社会的階級、人種、性別、宗教、価値観) は
無知のベール(veil of ignorance)の背後に隠されているため、各人は自分の
特定の状況について知ることができないと想定される。
日本臓器移植ネットワークとか、UNOSなどは、そういう想定のもとに、
運営されているのだと思います。
それが移植医療の基本でもありますね。
しかし、その基本を崩す要望が、ドナー側から出されることがありますね。
UKでは、白人の患者が、白人のレシピエントにしか、臓器を提供したくない
と生前に要望しており、その要望通りに移植手術がおこなわれ、後から
人種差別として問題になったことがある。
日本では、昨年、親族に臓器を提供したいという要望通りに手術がおこなわれ、
これも後から問題になりました。
>私自身は義父が長いこと人工透析をして苦しんだので、臓器移植に関しては
積極的に推進すべきだと簡単に思っていた。自分が死んだら腎臓と角膜の提供を
決めており、家族間では意思表明をしていたが、実際の登録は一日延ばしにして
済ませていなかった。
この方は、別に、親族優先で提供してほしい、などということは考えていませんでしたね。
ただ、身内に病人がいれば、臓器移植のことも考えやすいのは、確かだと思います。
同様に、身内に脳死と診断される患者が出て初めてわかることもあると思います。
本人の事前の意思表示がない場合、まったく、その事態が起こってから初めて、
家族が、コーディネーターから、臓器提供について打診され、考えることになる
わけで、その苦しみは、大きいと思います。
しかしながら、こどもからの臓器提供を可能にするために、親の同意だけで
臓器提供ができるようにすることが必要だという主張もあります。
こどもの心臓死後の腎臓提供は、現在の日本でも、親の同意だけで、行われた例が
あります。
その体験を本に書いている人もいます。
よく議論されている「脳死」て白黒はっきりつけられるような状態として語られていませんか?
「脳死になったら」というテーマの「脳死」は誰が見てもわかるものとして扱われてませんか?
正確には、機械のデータに基づいて医者が判断するのです。家族には分からない。
機械にミスはないか、医者にミスはないか、その2つの落とし穴があり、
そういったほとんどない可能性を頼って奇跡を信じる人と
そんな可能性はあっさり切り捨てて割り切る人と
が出てくると思います。
「脳死になったらどうするか?」という議論は
身体が傷つけられるとか、他人の臓器で生きていくことの是非とか
倫理面で片付けられることが多いです。
「死」を判断するのはあくまで医者であり、
家族の側が確認できるのは生きている身体です。
そのギャップは果てしなく広いと思います。
いいえ。全ては曖昧な確率論的なものでしょ? 少なくとも、「無知のベール」はそう。
90%の確率でずっと脳死の人がいて、その人の臓器があれば50%の確率で何人かが救えるとなったら、
一人を「殺す」方が効率が良い。非人道的な言い方ですか? なら多数を「生かす」方が効率が良い。
誰かが判断を下さなければならないとなったら、専門家の医者だろ?
彼らが何%かの確率でミスを犯すとしても、「無知のベール」の中で考えた時には遙かに効率が良い。
人間が人間を裁くのと一緒だ。法治国家を否定するならばともかく。
それは「死んでいる身体」だ。
立場を変えて、或いはあらゆる立場を忘れて、考えてみろよ。
「無知のベール」ってのは、そういうことだ。
想像力に乏しくて想像できないなら、逆の立場で考えてみろ。
あんたの「ほぼ死んでる」肉親が、隣に寝ている「ほぼ死んでる」奴の臓器があれば助かるとして、
あんたの肉親は「永久に脳死確率」が50%で、隣人のそれが99.9%だったとしたら?
ただ、あなた及び昔の私みたいに
「何でこんな効率がいいのに脳死を認めない遺族がいるのかわからないや」
と不思議に思う人のために考える材料になると思ったので、ここに書いているのです。
効率、理屈から言うとあなたの言ってることは正しい。
しかし、人間は理屈どおりに動かない事があることを知って欲しい。
ここは心理学の板でしょう。
人間は全て効率のいいように動くと言うのが心理学で描く人間像なのですか。
とてつもなく非合理なことをするから、こういう学問があるのでしょう。
>全ては曖昧な確率論的なものでしょ?
少なくとも心臓死は誰にでも分かる「死」です。
それと「脳死」とのギャップを述べているのです。
医者の判断も裁判官の判決も似たようなものだというのは同意です。
だから同様に冤罪の可能性があるわけだし、判決の結果を信じない余地もあります。
裁判の結果の納得できない人がいる以上、
医者の判断の結果に納得できない人がいるのは当然でしょう。
>立場を変えて、或いはあらゆる立場を忘れて、考えてみろよ。
>「無知のベール」ってのは、そういうことだ。
人間がそんなに都合よく物事を考えられるのなら
心理学なんて必要ないのではないですか。
あなたも実際、サリン事件のときの河野さんのような目にあって
「法治国家に内在する危険の一つが自分に降りかかってきただけなので仕方がないや」
と納得できますか。
ナチスのように精神障害者を全部抹殺すれば、それは効率のいい社会なのでしょうか。
その中にごく一部に正常な人が混じっていても「仕方がないや」で済ませられる話でしょうか。
そうは考えられないのが人間なのではないのでしょうか。
私はあくまで「脳死」を素直に受け入れられない家族の心理を書いているつもりで
臓器移植の議論をするつもりはないです。
医者から「助かる可能性は少ないです」と言われたとき
家族は「助からないわけではないのだ」と考えてしまうのです。
効率が悪いから諦めろ、で納得できる話ではありません。
>立場を変えて、或いはあらゆる立場を忘れて、考えてみろよ。
>「無知のベール」ってのは、そういうことだ。
人間がそんなに都合よく物事を考えられるのなら
心理学なんて必要ないのではないですか。
っていうのは、ナゾだが。きさん、心理学をカンチガイしてないか?
どういうふうにカンチガイしてるか指摘できないほど、カンチガイしてないか?
結局の所、第三者は「効率性」から臓器移植を進めますが
それで家族の側は必ずしも納得しないことがわかってもらえればと思います。
別にここはディベートで家族を効率性の見地から論破すればいいという話ではないでしょう。
「脳死の受容をめぐって」とある以上は、できるだけ両者が納得できるような考えが出ないか期待しています。
別に論破しようなんて思ってないが?
「無知のベール」、私は好きだが、それ自体が既に一個の価値観だからな。
普遍性を求めてるわけじゃない。
例えば、公共事業と一緒だ、と言ってるだけ。
多くの人のために、強制的に立ち退きさせられることがあるだろ? 道路建設なんかの時。
あれは、法的には正当だ。当事者が納得しようがしまいが。
そういう強制執行が、自分の利益になることもあれば、不利益になることもある。
不確定の未来に対して、利益効率を最大にしようとしたら、臓器移植は強制執行もやむなし、と言ってるだけ。
それは法というベールの下での平等だろ?
あんたや家族が納得するかしないかなんてことを、問題にしてんじゃないよ。
或いは、ドナーたるを拒否する家族は、他人からも臓器移植を一切受けない、ってことにするか?
死の淵で、隣にドナーがいても。(それも自分勝手な話だが)
逆に言ってやろうか?
あんたの選択(信条?感情?)は、どこかで助かったかもしれない人を殺した、とも言える。
納得できないだろうな、「殺された側」からしたら。それを知った時。
大体、「両者」って見解自体が変だ。
両者のうちの片側は、肉親が脳死にならんとなりえないもんだろ?
と思うがな。
家族の心理状態にしても、そういう全体的な視点があって、事前にちゃんと考えていれば、
きっちり受け入れられるもんだろ? だからツケだと言った。
それこそ、文化とかの価値観の問題だ。
大阪在住さんのおにいさんは、臓器提供の意思表示をしていないのだから、
この見解はまちがっています。
また、たとえ、大阪在住さんのおにいさんが臓器提供の意思表示をしていた
としても、それでも、大阪在住さんが臓器提供に反対したら、それは、
おにいさんの自己決定権に対する侵害にはなりますが、法律上はもちろん、
道徳的な意味においても、移植待機患者への殺害行為には、決して、
なりません。
医療行為は、本来的に、ひとのからだへの侵襲であり、傷害行為ですが、
患者の病気をなおすという目的があるので、合法とされています。
移植のための臓器の摘出は、患者本人のための医療行為ではないのですが、
患者本人が、他者の命を救うという目的のために許可している場合のみ、
許されます。
患者本人が、移植医療に、臓器提供者として参加することを選択した場合のみ、
許されるのです。
外国では、脳死患者からの移植は、家族の同意だけで許されるところも多い。
しかしその場合でも、脳死と診断された患者の家族の心を傷つけないように、
ドナーコーディネーターが努力しなければなりません。
そうしないと、患者家族の同意が得られないからです。
本質的に、脳死と診断された患者からの臓器提供は、患者本人のからだと、
患者家族の看取りの時間への侵襲です。
人は、本来、誰にも邪魔されずに、看取り看取られる権利があります。
それ対する侵襲が許されるのは、あくまでも、看取り看取られる側の許可が
あった場合のみです。
移植待機患者に、他者の、看取り看取られる時間を侵害する権利があるわけでは
ないので、たとえ、誰かが臓器提供をしなかったからといって、その誰かに
よって、殺されたわけではありません。
その移植待機患者は、自分の病気に殺されたのです。
法律上、道徳上、精神的にも象徴的にも現実的にも。
臓器提供拒否は、当然の権利であって、他者に対するいかなる侵害行為にも
該当しません。法律上も道徳上も精神的にも象徴的にも。
ただ、本人が臓器提供の意思表示をしているのに、家族がそれを拒否したとき、
臓器提供の意思表示をした人の精神の自由に対する侵害になるだけです。
公共の福祉論は確かに応用可能かもしれないです。
しかし、それはあくまで財産権の侵害のように復元可能なものに認められるのであって
生命や身体に関わるものには当てはまりません。
「あなたの命で大勢の人が助かるのです」という理由で命を奪われるようなのは
近代国家としては認められないでしょう。
仮に輸血のように死にはしない行為であっても、
その人の血液がどれほど珍しく貴重でそれで人の命が助かるのであっても
現行法では本人の承諾なしに強制的に取られません。
>不確定の未来に対して、利益効率を最大にしよう
これも突き止めれば精神障害者を抹殺し、「優等民族」が幸せになれるようにした
ナチスの考えと変わりがありません。
効率、効率などと言って行けば、ハイジャック犯が「OOという男の首を持ってくれば
500人の命は助けてやろう」という要求もまかり通ります。
もちろん、そんな強制執行は出来なく、500人は殺されてしまうかも知れず
500人の遺族は納得できないでしょう。
このスレの最初の方を見てみたら、
「脳死による死別体験者の悲哀の受容過程には、
特殊性があるのか否か・・・
あるいは、なぜ日本人は、脳死が人の死であることを
認められないのか・・・などなど。心的外傷や日本文化論からの
回復とも関連するテーマですね。 」
と書いてあり、臓器移植についてはむしろついでという感じだったので
ここに書いたわけですが、あなたはなぜか臓器移植についてばかりこだわり
「あんたや家族が納得するかしないかなんてことを、問題にしてんじゃないよ」
とまで言われるとどうかと思います。
それは臓器移植法関連のスレに書いたほうがいいのではないのでしょうか。
ここはあくまで「脳死の受容をめぐって」なのですから。
ただ、臓器移植の意志について言わせてもらうと、それはそうなる前の意志ですよね。
安楽死も同じ難しい問題をはらんでいるんですが、「そうなる前の意志」は法的には価値が少ないです。
大事なのは「そのときの意志」ですから。それはあまり深刻に考えてなかったとかいう問題でもないでしょう。
そうなったときにどう行動するか、というのはわからないものです。
同意殺人の「本人の意志」というのはあくまで「そのときの本人の意思」であって
そのときの意志を確認せず「数年前の約束で殺した」となっては、ただの殺人罪です。
夫婦間でも強姦罪が適用されうるのを考えると生命・身体については
あくまで「そのときの意志」を基準とするべきなのでしょう。
当然ですが安楽死や脳死のときは、そうなってしまっては「そのときの意志」を確認できません。
だからといって、数年前に約束したのだからガタガタ言うなとかよく考えなかった奴が悪い、というのは
ちょっと単純すぎると思います。それはほとんど悪徳商法の類です。
だから未だに議論が続いているのです。
で、大阪在住。
だから、普段から考えておけ、と言ってるだろ? 心理的に準備しておけ、と。
で、その準備のための一つの考え方を提示しただけだ。
脳死になってから落ち込んだって言われても、考えられなかったあんたが悪い。
脳内の現象で見たとき、「悲しみ」にほとんど区別なんてない。
同じものが出て、同じように動いてる。よって脳機能における特殊性は否定される。
特殊性があると思わせる(死と脳死を概念的に分割している)のは、ある種の価値観や文化だ。
だから、悲しみ等々をどう分類するか、というのは議論しても不毛だ。
脳死を存在せしめたのは科学技術だし、それを定義したのは法学だ。
(今のところ)文化ではないところに脳死は存在する。だから、制度の話をしたんだ。
現状を考えると、不自然な流れだが、制度を先に作って文化に後追いさせるのが最も良い、とオレは思うのでな。
>財産権の侵害のように復元可能なもの
だれが財産権を復元可能だと決めた? 思い出の家は復元可能か?
で、脳死は復元不可能だ、っていう医者の判断だろ? 少なくとも法的には。
>精神障害者を抹殺
驚きだな。精神障害者を殺すことが、公共の利益になるのか?
そういう考え方自体がナチだろ? まあ、オレはヒトラーその人は好きだが。
>ハイジャック犯
今話題になってるのに、テロリズム等への対処の基本も知らんようだな。
再犯防止のために、犯人の要求は一切受け入れてはいけない。
500人殺されても、それが「効率」、「公共の利益」だ。
少なくとも、対テロ対策先進国はその原則で動いてる。
脳死のドナー意志表示は、脳死になる寸前のもんだろ?
そんじゃ問題ないだろ。
そうだったに違いない、という家族の勝手な思いこみよりも、
少なくとも本人が提示した意志を尊重すべきだ。
まあ、オレは本人の意志に関係なく臓器移植はやるべきだろう、と思っているが。
そもそも、脳死の時点で意志はなくなっている、と考えているんだろうしな。
で、いちいちあげんでも良いだろ。
で、どうなんだ? 大阪在住。オレも大阪在住だが。前にも言った通り。
でも極めて近いながら、阪大は臭いので行かなかったひねくれ者だが。何か?
49です。
あなたの前提というのは、脳死と診断される患者が出たら、臓器を
提供するのが、公共の利益にかなう、ということだと思います。
しかし、あなたが引用していらっしゃる、無知のベールという概念を
説いたロールズという人は、
自由原理>公平な機会原理>格差原理という順でつねに優先される。
と考えているそうです。
その自由原理には、身体の自由が含まれています。
そうすると、自分のからだは自分のもので、脳死と診断された後の
処置についても、本人の考えが最優先されるのが本来だと思います。
それは公共の利益に先んじると思います。
本人の考えの次に優先されるのが、本人にとってたいせつな人々、
本人と深い精神的関係のあった人々で、その次が、公共の利益だと
思います。
だから、あなたのおっしゃるような、本人の意思に関係なく、臓器提供を
するべきという考え方は、無知のベールという概念から導き出されるものでは
なく、最大多数の最大幸福という概念を、少数者の利益が犠牲になっても
最優先するべきだという考え方、および、移植待機患者が社会の多数派で、
脳死と診断される患者が社会の少数派だから、多数派の利益が優先される、
という前提に立っていると思います。
無知のベールという考え方は、臓器を提供するかしないかという決定に
ついては、中立だと思います。
ただ、移植医療を成立させる前提として、無知のベールによって、
公平な臓器の配分をおこなう、ということだと思います。
ところで、いまのところ、どんな国でも、本人が生前に拒否しているのに、
脳死後の臓器提供をしてもよい、という国はありません。
そして、ほとんどの国で、法律上はどうあれ、実際には、家族の許可を
得るようにしています。
家族の許可をとるためには、ドナーコーディネーターが、家族の心情に
よりそわなくてはなりません。
しかし、脳死と診断されるということは、ドナー候補となる以前にまず、
どのような看取られ方をするか、という問題から考えるべきだと思います。
看取られ方の選択肢の一つとして、臓器提供もあるのだと思います。
脳死と診断されるような症状になる人は、どこの国でも、年間死亡者の1%か
それ以下だと聞いています。
たいていの人は、脳死と植物状態や昏睡状態とを混同するぐらい、あまり、
わかっていません。
実際に、家族が脳死と診断される状態を迎える人は、よくわからないうちに、
事実にぶつかって、とまどい、苦しむ場合のほうが、多い。
そのとき、まずは、臓器移植に関係なく、その家族の心情によりそって、
脳死という事態を受け止められるように支援する、
メディカルソーシャルワーカーが、必要だと思います。
ドナーコーディネーターが接触するのは、その後のほうがよいはずです。
しかしながら、はじめから、ドナーコーディネーターが接触する国もある
ようです。
また、日本では、まだ、メディカルソーシャルワーカーの数が少ないようです。
何度も言うように
「脳死による死別体験者の悲哀の受容過程には、
特殊性があるのか否か・・・
あるいは、なぜ日本人は、脳死が人の死であることを
認められないのか・・・などなど。」
と最初に書いてあったから
実際に家族の者はこう感じた、という書き込みをするのは
これからのこのスレの発展に有意義なことだと思って書いたのです。
特にこのスレの最初の方は、日本人独特の死生観や死体観とかあって
それと外国との比較とかあった。
心理学より民俗学の範囲なのか、
日本人にとって脳死とはどういうものかを話していたはずです。
だから、実際私はこう考えた、というのを書いたわけです。
そしたらあなたが「それがどーした。家族の気持ちなんて関係ねー。」とか言い出したんで
いつからここは臓器移植法の原案を作るスレに変わったのか、と思ったわけです。
>特殊性があると思わせる(死と脳死を概念的に分割している)のは、ある種の価値観や文化だ。
>だから、悲しみ等々をどう分類するか、というのは議論しても不毛だ。
最初はずっとにそういう論議をしていたのでしょうが。
脳死に特殊性をもたらしている日本人特有の価値観や文化について語っていたのでしょう。
現実論としてこうせよ、とは言ってるのではなく、ただの分析をやっていたのでしょう。
だから、分析の材料として私の経験を持ち出しただけです。
>脳死を存在せしめたのは科学技術だし、それを定義したのは法学だ。
>(今のところ)文化ではないところに脳死は存在する。
客観的に脳死を存在させているのは医学と法学で
それを残された者がどう感じるかについては文化の問題。
制度論の話ではなく、後者の問題を取り上げていたのではなかったのですか。
昨日の昼についに亡くなったので、これから通夜と葬儀でしばらくは書き込みできないでしょう。
この他のことはまたの機会に書きます。
>臓器移植は強制執行もやむなし
と言っている以上、遺族にとって脳死と言うのは素直に受け止められないものだ、
というのはそちらにとっても前提でしょう。みんな納得するなら強制執行なんて考えずに済む。
私はなぜ「遺族にとって脳死と言うのは素直に受け止められないもの」なのかを一貫して述べているつもりで
ですから私に向かって「家族の心情は関係ない」だの「第3者の立場から見ろ」だの
どうやったら「臓器移植をスムーズに行えるか」ということを言われても困るのです。
何度も言うように、今回は臓器移植とは無関係だったので。
>だれが財産権を復元可能だと決めた?
お言葉を返すようですがそれが法です。
そして、財産権は完全とは言わないまでも復元可能だから、
公共の福祉で制限されても良いが、身体・生命は公共の福祉でもっても
他人のために犠牲にされてはいけないのが、憲法理念です。
だから両者は根本的に違います。
意思表示ついても法の原理から意見を述べているのであって
個人の権利、特に身体・生命に関するものは、その時の意思によらなければ
侵害されないという法を貫く大原理をどうするか、
法の原理は一部とは言え例外は許されないです。
それにあなたは何の答えも用意していません。
あなたも臓器移植について、少なくとも法の観点からはまともに考えているとは言えません。