2003年11月2日(日曜日)につくば市で開かれた、脳死と臓器移植における倫理的問題に関する国際会議について、てるてるのレポートをお伝えします。
正式な報告は、後で主催者から日本語とEnglishと両方で、全文の記録が公開されます。
こちらは、やじうまでミーハーなレポートです。(途中、同時通訳が聞こえにくくなった部分をてるてるが意訳しています)
2003年11月2日(日曜日)午前9時〜午後7時 : つくば国際会議場
|
午前中は、USAの医療倫理学者のRobert M. Veatchさん、フランスの倫理学者で欧州評議会の臓器移植に関する議定書と覚書に参加したJudge C.Bykさん、ニュージーランドから来て既につくば市在住歴の長い倫理学者のDarryl Macerさん、そして、フィリピンの哲学者でユネスコの国際倫理員会の副議長を務めるLeonardo D. de Castroさんの講演がありました。
午後は、ドイツのボン大学で近代日本について研究しているChristian Steineckさん、トルコの医療倫理学者のDemirhan Erdemirさん、
韓国のカトリック大学の教授のチョンホーキムさん、岡山大学の粟屋剛さん、松本歯科大学の倉持武さん、大阪府立大学の森岡正博さん、そして、Brengardさんの講演がありました。、Brengardさんの講演の後は、講演者全員によるシンポジウムでした。シンポジウムの司会は、筑波大学臨床医学系神経内科の庄司進一先生でした。
Darryl Macerさんは、Eubios Jounarl の編集長です。森岡正博さんは共同編集者です。
今回の会議で、これまで参加してきたいろんな集会やシンポジウムと比べて、何が一番印象に残ったかというと、臓器売買の話が多かったことでした。
多くの国で、臓器売買を禁止しているにもかかわらず、世界的な臓器提供件数の減少も原因の一つでしょうか、いっこうに闇市場はなくなりません。
ヨーロッパでの臓器売買の闇市場の存在。
欧州評議会は、死者からの臓器提供を基本とし、促進すること、他に治療法がないときのみ、移植をすることなどを決定しました。しかし欧州のプロトコールでは、あえて死を定義せず、脳死の医学的判定に固執して文化的な側面をあまり見ないのは問題であるとし、人体の尊厳に敬意を払うべきである。生体臓器提供の場合は、謝礼ではなく、医療費などの正当な補償に留めるべきである。
これはJudge C.Bykさんが、お話しされました。
一方、アジアでの、臓器売買に関わる話は、de Castroさんが、「血は水よりも濃いか?」という題で、さまざまな実例を挙げました。
貧富の差のある親族間で、生体臓器を提供した後、長年、ドナー側が金銭的な援助を求めた例。
恩義のある人に、臓器を提供した例。
兄弟姉妹で、医学的に適合することがわかっているが、提供をためらっている例。
自分の息子からは臓器の提供を受けたくない、脳死・心臓死の人から提供を受けたい、と言った議員。
これらの例で、何が倫理的で、何が搾取で、何が強制か、いろいろな疑問を提示されました。
de Castroさんは、臓器不足解消のために、生体臓器提供に金銭的な報酬を認めてもいいと考えているようでした。
なかでも、後で議論になったのは、金持ちのお抱え運転手(chauffeur)が、雇い主の夫人が緊急に手術が必要になったときに、腎臓を提供してあげた例でした。
ドイツのChristian Steineckさんが、逆の例はありますか、金持ちから運転手に提供するような例は? と質問しました。 de Castroさんの回答は、「逆は無い」というものでした。
庄司進一さんが、生体臓器ドナーは、からだの具合が悪くなったり、臓器提供したことを後悔していると語ったりしている例が多いという統計が出ていますが、という質問をすると、de Castroさんは、それは、ドナーたちは、外国のプレスに言えば、助けてくれると思うから言うのである、ほんとうは、もっと報酬の金額をふやしてほしいと思っているのである、報酬は、ドナーに直接渡る金額よりも、仲介者、ブローカーに渡るほうが多いから、と答えました。
Judge C.Bykさんは、de Castroさんの発表に我慢がならないようでした。手に持ったボールペンを振り回して「生体ドナーにはリスクがある、ちゅうてんやろ、いつも運転手から金持ちへの提供で、逆はないやんけ!」と熱弁を振るいました。その姿は、まるで、「おんどりゃ喧嘩売っとんのか!」といっているかのようでした。
さらに会場から日本移植学会の深尾立先生が立って、怒りを籠めて発言されました。
「私は生きた人にメスを入れる生体移植は、本来、やってはならないことだと思います。脳死の患者からの臓器提供をやりにくくしようとする日本の臓器移植法はまちがっています!」
日本からは、粟屋剛さんが、なんども命が危ないほどの経験をして調査したという、インドの臓器売買や、中国の死刑囚からの臓器提供の話をしました。そのなかには、中国の話を、USAの議会で証言した、というものもありました。
粟屋剛さんのホームページでは、それらを全部読むことができます。
また、臓器売買だけでなく、USAの医療産業のことも述べた、著書『人体部品ビジネス』(講談社選書メチエ、1999年)は、人のからだが医療資源、産業資源として扱われる現代を知るための、重要書籍です。
粟屋剛さんは、日本で脳死・心臓死のドナーが少ないのは、移植反対派のせいでもないし、遺体に関する慣習のせいでもない、利他主義の欠如のためではないだろうか、なぜならば身内への生体ドナーは多いのだから、と述べました。
そして、イスラムのZAKATとか、仏教の慈悲とかの精神が必要ではないかと述べました。
ただ、重要な原則として、「臓器を提供する義務はない。臓器を貰う権利もない」と述べられました。
粟屋さんの講演は、とてもわかりやすくておもしろいスライドを使っていました。
jikochuを説明するスライドでは、電車の座席で隣にこどもを膝に乗せた人が窮屈そうに縮こまり、正面に足を広げてすわっているのは粟屋先生で、さらに指示棒で、この男性の前にはおばあさんが立っているのだ、と説明されました。
そして、最後の、コンビニエンスストアのドアを、次の人が入りやすいようにちょっと持っていてあげるようなこと、見ず知らずの人への親切から、始めてみよう、と述べられたとき、スライドの下には、眠らずに最後まで聴いてくれてありがとう、と書いてありました。
もう、ここまでで、私は、かなり粟屋さんのファンになりました。
しかし、さらに、おもしろい展開が、後で、待っていたのです。
韓国のチョンホーキムさんは、韓国の臓器移植法と現状の説明をされました。
プロテスタントが「愛の移植センター」を設立すると、非近親者への無償の利他的な生体臓器提供を申し出る人がたくさん登録したこと、続いて、カソリックも、仏教も、同じ主旨のセンターをつくり、やはり利他的な生体臓器提供志願者が登録したことを紹介しました。
それだけ生体ドナー希望者がいるのなら、脳死・心臓死後の臓器提供希望者もたくさん現れそうなものだ、と思っていたら、会場から日本移植学会の深尾立先生が、「脳死ドナーは増えているのですか、減っているのですか」と質問されました。
それに対する回答は、「脳死ドナーの登録も、カトリックセンターで、先月、30人(30%?)、ありました」とのことでした。
臓器売買と、無償の、利他主義・博愛主義による臓器提供の話から、ドナーの家族の気持ちの話へと、移ります。
ドイツのChristian Steineckさんは、脳死患者と家族のコミュニケーションについて講演しました。脳死の患者と家族とのコミュニケーションの例として、柳田邦男さんの『犠牲(サクリファイス)』をかなりくわしく紹介しました。そして、柳田邦男氏の提唱する、「二人称の死 Second person's view」という考え方に賛意を示しました。
(『犠牲(サクリファイス)』については、2001年5月5日の日本小児科学会主催の公開フォーラムに参加した人は、著者の柳田邦男さん自身の講演で、聴いています。
カエルのケロケロレポート2001年5月5日 小児科学会主催 公開フォーラム「小児の臓器移植はいかにあるべきか」)
『犠牲(サクリファイス)』を紹介した後、Steineckさんは、次のようにコメントしました。
脳死の患者の家族は、患者のからだにさわり、患者に話しかけて、患者の顔に表情が現れたと感じる。
脳死肯定論者は、それを幻覚であると言う。脳死を受け容れるのに時間がかかっても、知識を啓蒙すれば受け容れられるようになる、脳死の状態の維持には莫大な費用がかかる、と言う。
しかし、人のからだは「もの」ではない。脳死の患者にも、Life historyがあり、脳死は人間性のあらわれである。
森岡正博さんは、アラン=シューモン博士が報告した長期脳死の症例、生まれたときにおとなの脳死判定基準で脳死の条件を満たしていた 亀井陽菜さんの4年間の成長とその御両親の話、森岡・杉本案、そして、杉本健郎さんもまた、こどもが脳死になり、臓器提供をしたが、こどもに意思を聞かなかったことはよかったのかと、十数年、自らに問い続けていることを紹介しました。
森岡さんの講演の前は、スライドの表示にトラブルがあってしばらく待たなければなりませんでした。それでどうなることかと思いましたが、講演が終わると、大きな拍手が沸きました。
そこでUSAのRobert M. Veatchさんが、たいへん感動したと言ってから、さっそく、質問の矢を放ち始めました。
森岡さんが紹介した世論調査では、本人と家族の意思表示が必要というのが一番多く、次が本人の意思表示だけが必要、一番少ないのが家族の同意だけでよい、というものだった。しかし、こどもや、知的障害のあるおとななど、本人に自己決定能力がない場合に限ってならばどうなのか、家族が同意しても良いという質問事項がなかったではないか、というものです。
それに対しては、神戸大学法学部教授の丸山英二さんから横レスがありました。
2002年(平成14年)の内閣府の世論調査によると、15才未満の臓器提供について、
「本人の意思を尊重する 23.8%, 本人に自己決定能力がないから意思表示を認めるのは不適切であるので親の代諾がよい 32.4%, 本人に自己決定能力がないから意思表示を認めるのは不適切であるがだからといって親が代諾してよいというものではない 21.8%」
ということでした。 そして、丸山英二さんは、この調査も、「15歳未満を十把一絡げにしているのは問題である」とコメントしました。
森岡さんは、6歳未満のこどもからの臓器提供をどうするか、という問題は、今後も続く、と述べました。
Steineckさんと森岡さんとは、髪型も雰囲気も似ているし、仲が良いみたいで、他の人の講演のときは、並んで座っていました。
ドナーの話だけでなく、レシピエントの話もありました。
それは偶然からだったのでしょうか。
倉持武さんが、臓器移植法施行後の脳死患者からの臓器移植についての、日弁連の勧告を紹介しますと、(*参照)
移植医の深尾立さんと、もう一人のお医者さんから、厳しい異論が出ました。
深尾立さん「レシピエントの予後は移植学会で多数報告されている。移植を受けない患者もたくさんお金を使っているし、困っているのに、日弁連はそのことをちっとも言わないのは情けない!」
そして、北海道で、移植患者さんたちにリサーチしているという若い女性の方が、この方はレシピエントコーディネーターなのだろうかと思いましたが、きょう、レシピエントが一人来ている、彼はレシピエントの立場から教育関係のビデオを作りたいと思っている、といって紹介しました。
彼にも発言の場を、といって押し出された男性は、大柄で元気そうな、明るい、気のよさそうな男性でした。
「えーと、何から話せばよいのかわからないので、そちらから何か質問してください」
とのこと。
倉持武さんは、「お元気そうでなによりです」と御挨拶したのですが、突然のこととて、質問が続きませんでした。
この日の会議がすっかり終わった後になってから思ったことですが、ドイツでは柳田邦男さんの『犠牲(サクリファイス)』が翻訳出版されているのかどうか、Steineckさん質問すればよかったのに、惜しいことをしました。また、ドイツでは、日本の柳田邦男さんや杉本健郎さんや吉川隆三さんのように、ドナー家族が手記を発表することがあるのかどうかも、聞いてみたかったと思います。
これもすっかり後になってから思ったことですが、私は、先の日本移植学会総会の市民公開講座で、脳死移植のドナーの話を聴いていたので、あのときに聴いた話をもとに質問してみればよかったのに、惜しいことをしました。
市民公開講座に来ていたレシピエントは、元の職場に復帰したり、障害者雇用促進法で職業訓練を受けて就職したり、婚約者と結婚したり、移植者スポーツ大会で活躍したりと、元気になってうまくいった方々でした。
この会議に来ていたレシピエントも元気そうだったので、仕事か、何かの勉強か、スポーツをされているのか、きけばよかったと思いました。
また、市民公開講座では、ドナー家族の方も話をされたのですが、そのなかで、厚生労働省の指針で、ドナー側とレシピエント側とがお互いに相手の情報がわからないようにするとされているので、慎重に行動しているが、それぞれが自分の気持ちを発表していくことが移植医療への理解につながると述べられていました。
この会議のレシピエントの方に、私は、もし、ドナーが会いたいと言ったら、会ってみますか、と聞いてみたかったと思います。
ドナー側もレシピエント側も、移植後の予後が悪かったり、いいことばかりではない。
はあとネット兵庫の設立講演で阪大の松田暉先生がおっしゃったように、阪大で心臓移植を受けた少年は、重い障害が残っている。
そんな場合に、レシピエントやドナーの家族はお互いのことをどう思っているだろう。
だから慎重にしなければいけないけど、多くの国で移植医療で守られている匿名原則も、USAなどでは場合によっては破られている。ドナー家族とレシピエントが文通したり対面したりすることもある。
この会議に来られていたレシピエントの方は、ドナーと対面したり、手紙のやりとりをしたりすることについて、どう思われるだろうか。
聞いてみたかったなあ。
…………。
さて、最後のシンポジウムに、それは待っていました。
あの粟屋剛さんと、深尾立さんとの対立です。
まずその前哨戦。
会場から丸山英二さんの質問「非常に幼いこどもからの臓器摘出はできるのでしょうか?」
Robert M. Veatchさん「脳死になったら、もうそのこどものためにできることは何もない。だから親が利他的な決定をする」
粟屋剛さん「レシピエントになるかどうかの代諾を親がするのは、そのこどものためだからよい。しかし、ドナーの代諾を親がするのは、そのこどものためではない。それなのに、どうして、こどもがドナーになることを親が代諾できるのですか」
それぞれの立場から答えていく講演者たち。
粟屋剛さん「だがなぜ親がこどもの臓器提供をできるのですか。死んだ後とはいえ、こどもの利益にはならないのに」
そのとき、会場から立ち上がった、深尾立さん。きょう何度目かの、怒りを籠めた発言です。
「私は、人はうまれてきたからには人のために生きるものだと思っている。そのために人は生を受けるのである。だから、こどもの臓器を提供することにためらいはない」
粟屋剛さん「だがこどもの意思ではないのにどうして親の意思でこどもの臓器を提供できるのですか」
深尾立さん「心臓死後の移植ではそうやっているではないですか」
粟屋剛さん「法律はそうなっています。だが私は原理的にどうして親がこどもの代諾をできるのかときいているのです」
深尾立さん「本人の意思を尊重するというのなら、本人が臓器提供の意思表示をしていても家族が拒否したら提供しないことにしているではないですか。それはどうなんですか」
粟屋剛さん「それは私もおかしいと思っています。」
おお! これは、てるてる案と同じだ!!
本人が臓器提供の意思を事前に書面で表示しているのに、家族が拒否できるのはおかしい。
それがてるてる案を作るきっかけになった原点の疑問であります。
もう、これで完璧に、てるてるは、粟屋剛さんのファンになりました!!!
…………。
ここで司会の庄司進一さんが、次の話題へ、といって森岡正博さんに振ったら、森岡さんが、「むしかえしますけど、今の発言(深尾立さんの発言)は論理破綻しています。親の自己満足であってこどもの意思ではありません」と、早口で言いました。そのとおりです!
その後、シンポジウムは終わり、シンポジストたちは懇親会へ。
私は、かねてりんごさんと示し合わせてあったとおり、急いで東京へ立つために、その場を後にしました。
以上で、てるてるレポートは終わります。
なお、多角的記録のために離れた席にすわっていたりんごさんからも、レポートがあります。
*参照
|
*追加: 杉本健郎さんの掲示板「脳死と移植」より
http://web.kamogawa.ne.jp/~ichi/cre-k/sugibbs2/trees.cgi?log=&v=362&e=msg&lp=362&st=0
http://web.kamogawa.ne.jp/~ichi/cre-k/sugibbs2/trees.cgi?log=&v=364&e=res&lp=364&st=0
http://web.kamogawa.ne.jp/~ichi/cre-k/sugibbs2/trees.cgi?log=&v=365&e=res&lp=365&st=0