ぽんさんレポート「鞭熙(むちひろむ)先生(舞鶴市民病院小児科部長)の講演」

2003.10.28. by てるてる

03/10/26 於大阪、「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会主催

(ぽんさんより註―口頭のお話をメモし、それを文章に再現したものであり、正確に伝えていないところがあるかもしれませんので、ご注意ください。後に「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会」より、正式な報告があると思います。そちらもご参照ください。)


 脳死移植はすでにニュースソースとしては価値がなくなっている。臨床にいる者たちにとっては面倒、触れたくない。立前としては、医療の進歩であるから、情報を共有して、現場で取り組んでみる。問題点を挙げて議論を高める。しかし、現在のところ、脳死移植医療は小児科の外部で行われている。法律改正が近いと言われているのに、これは問題である。EBMの手法は―大きな母集団からのデータに拠って―脳死移植問題に適用できないところがある。というのも、人の「死」の問題を含むから。それにもかかわらず、小児脳死移植は容認され始めている。

諸改正案に関して。

 森岡・杉本案―子どもの権利条約に基づく、死の多元主義。本人の意思原則。しかし、子どもの権利条約は、子どもを守る条約、成人になるのを助ける条約であって、それがどう子どもの提供に関する自己決定につながるのか。死の多元主義といっても、死の曖昧さを招く。  そもそも、どんな検査でも脳のすべてが死んでいる保証はない。今後もない。脳の全ての解明は夢のまた夢。だから、脳死で死とする場合の死亡者提供はありえない。

 てるてる案―死とせずに提供可能としている点で森岡・杉本案に対立しているが、基本的には森岡・杉本案と同じ発想である。だが、提供条件が具体的に提案されており、臨床的には好ましい案である。しかし、これでは提供が出ないかもしれない。

 両案は、生きている人―つまり、無脳児や植物状態の人が臓器摘出対象者になる歯止めが不在である。消費税率が国会内の手続きだけでどんどん上がっていくように、今後そうならないか。まさかないだろうが原理的に問題はある。

 町野案―「われわれは臓器提供に自己決定している存在である」―とんでもない。こんなことは神しか言えない。あきれた。しかし、この点にYesを言えば、もっとも論理的で整合的な案である。だが、前提がまちがっている。「尊厳」を犯している。

 小児科学会の提言―医師の目から見ると、ほんとうは脳死移植にはかかわりたくないという気持が透けて見える。しかし、現代の先端医療にどうかかわるかに関して示しており、一定の評価はできる。小児科医は移植の必要な子どもも看るし、脳死になる子どもも看る。両方抱え込んでいる。学会としてはどうすればよいか。学会内部には両極端の立場があるが、学会としては脳死移植反対とは言えない。なぜか。欧米でやっている。また、国から研究費をもらっている。研究者として流れの外では研究ができない事情もある。だから、容認はする。マスコミでは「容認する」だけを強調。学会としては不本意である。子どもの脳死移植はたいへんシビアな問題であるが、提言はそのたたき台になる。町野案のようにすっきりはしていないけれども。

 臨床で実際に患者を看ている場合、脳死を人の死とするかはあまり問題ではない。たとえば、交通事故で患者が脳死になってしまった。われわれが考えるのは、患者、家族、重要な人物、あるいは加害者を前にして何をすればよいのか。脳死だからどうこうとは考えない。母親は管を抜いてくれと言う、父親は、何でもやってくれ、いつまでもやってくれと言う。加害者が泣き暮れていたりする。

 尊厳を守るかたちでどう対応すればよいのか。「尊厳」は流動的である。アランの定義に、「正義とは行動である」とある。行動で示さなければならない。では、「尊厳」の核になるのは何であるのか。医療に課されている意味では何か。人様々ではあるが、言葉の違いは横に置いても、患者と家族、重要な人物にどうかかわるのか、信頼関係を築いていくのが大切である。成熟していく必要がある。医学的知識、技術の問題だけではない。

 脳死は人の死である、なぜなら回復はないし、ほどなく心臓死を招く―このように矮小化されてはならない。「医学的に正しい」と言ったとしても、一般の人々にひっかからない。社会的には無意味である。「論」にならない。医療者も様々な分野があり、脳死に関して臨床的経験のない人も多い。知識すらない医療者もいる。

 では、心臓が停止すれば人の死なのか。人の死はそれだけではない。かといって、スピリチュアルなことを言うつもりはない。「ケア」とはまずからだをケアすることである、と中世の医学書は言っている。心だけを気にしてからだを看ないのはよくない。

 「死」とは、集合無意識による認識(記録者の記憶曖昧)であり、時間的経過の中で生じるもの。「土に帰る」、「お弔い」。ところで、脳死を人の死として臓器を摘出する場合、死を無駄にしない、死体を医療資源とみる発想がある。それは人体の商品化である。人体の商品化、「コマーシャル」の範疇にある。無償ではあるが、愛情が伴わなくてもよい。金銭の授受があると厄介なことになるので、ただで提供してもらっている。「無料サービス」のように商品化の一環である。「商品化」ではなく、これを別の言葉で言えないか。別の仕方で考えられないか。「超越性」という考えではどうだろうか。だが、宗教的なものではなく、哲学的と言えるのかわからないが。

 臨機応変、変幻自在が日本人の発想。ならば、脳死移植も、法律が通ったからそれに従いましょうではなく、議論を起こして、臨機応変、変幻自在に改良しておく。発想を作り直していく。

 「家族」の質的変化が今後進む。医療の決定の際にもそれが影響してくる。親が決めることの意味を考えるべきだ。

 子どもが脳死になったとする。その子が家族の中心になる。家族は死の認知はあっても受容はない。自分たちにはどうにもならない状況。医療はそこに存在する。その空間でどう対応し、家族の受容を助けるのかが医療の課題である。医療者は現状と自分はどう考えるかを家族に伝える。家族からの返答が来る。それを踏まえて、どう対応するのか伝える。その繰り返しを続ける。

 小児科医は「死」の教育に参加する必要がある、と最近気づき始めた。学校保健医は小児科医以外の開業医師がほとんどである。既得権益があったりするらしい。もっと、小児科医が教育の現場に入って、日常的な活動をすることが大切ではないだろうか。子どもの脳死移植にとっては回りくどい方法だが、信頼を築くという面からすれば近道である。

 綾戸智絵のコンサート、計算尽くされたなかで、計算尽くされないものが感動を呼ぶ。医療はどうか。小児科医は技術を売るだけではない。どう人生に影響を与えられるか、身体に即して実存に触れることができるか。

 レシピエント候補者の精神面の問題が指摘されている。移植でしか助からないと診断される場合のストレスの大きさ。医療者と患者、家族の関係の維持の重要さ。「ストーリー」(過去・現在・未来の出来事をプロットにまとめる)を語ることが重要になってくる。  ドナー候補者に関してはどうか。脳死という概念は導入されたが、問題はずっと残り続ける。「正しい知識」、「正しい方法」だけでは扱っていけない。ナラティブの要素が必要である。小児救急の現場に脳死移植が入り込んでくる。混乱して疲れ切ってしまう。何かに持続的に支えてもらわないといけない。その支えは、一般の人々を含んだ議論である。

 自己決定。子どもの自己決定は実際に可能なのか。「自己」がない。根付いていない。別のストーリーのほうが希望があるのではないか。日常に居て、医療現場に居て、子どもと一緒に考えられないか。自己決定―自己責任の完結型ではなく。「全体を囲む目に見えない糸」(アラン)このような糸でどのように人と人の関係を編んでいくのか。これが医療の課題である。

 具体的にどうするのかの議論の前に、情報がない、データが出てこない。プライヴァシーの保護という名目で隠蔽されている。移植を受けた子どもたちの追跡調査がなされていない。


質疑応答

―重篤な場合、家族が医療をやめてくれというケースが増えているようですが?  

 いえ、そんなことはないと思います。ただ、以前は医師側が専断で決定していましたが、最近はディスカッションに家族を入れます。その中で、治療をやめていくという結論になることもあります。

―子ども自身の意思はどうなのですか?

 慢性疾患の場合、ディスカッションに入れることもありますが、少ないです。親によっては、子どもをディスカッションに入れたくないと言われる人もいる。「整理がつかない」と言われる。

―脳死移植の事例の内まだ9例しか検証結果が公開されていません。生体肝移植の検証結果も出てきません。データをとって共有して活用する体制がありません。そうならない体質でもあるのでしょうか。

 そうです。小児科学会がどう働きかけるか、課題です。(記録者失念)

―私のところでは子どもの脳死判定を何例かしたことがあります。この人を助けたいのに、なぜ、臓器を取り出さないといけなくなるのか。子どもの場合、脳死判定をしたあとでも、からだが大きく動き出したりするのを見たことがあります。先生は、脳死の子も移植の必要な子も同じように看る、と言われますが、どういうことですか?

 「同じように」はたぶん無理です。もう救えないと思った時点で、脳死になった子どもの尊厳を踏まえながら、どうグリーフワークを助けるかを考えます。尊厳を守ることは、具体的にはケースバイケースです。臓器提供もあるかもしれません。

―提供意思を伝えるドナーカードが出てきたとたんに医師の対応が変わると聞きます。これは遺言だ、これを叶えなくては。そんな心理を越えて救命に専心できますか?25例目は、とことん治療すれば脳死判定などできないと言われていた唐澤先生の病院です。しかし、提供になった。提供の方向に流されているのではないですか?

 チームケアですから、一人の先生の意見が通るとはかぎりません。しかし、判定に至る場合は、とことん治療するか、しないか、ではないと思います。カードが出てくれば、そっちの方向に行くのは確かですが、私はむしろ、カードが出てきても、「本当にこれでいいのですか?」と家族に問いたいです。

 本にも書きましたが、子どもの意見を聞かないで臓器を摘出していいのかと、アメリカの医師に聞きましたが、彼もさすがに、「問題だ」と言っていました。「問題だ」を忘れないようにしたい。救急医はそもそも話せない患者ばかり看ています。患者の意思で方針を決めていないのです。そんな現場に提供を出すようにと圧力がかかれば、そっちに行くかもしれません。判定、提供を決める際に、その子を日常看ていた小児科医や家庭医が関わる必要があります。


てるてるレポート「第39回日本移植学会総会市民公開講座(20031026)」


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