「高耶さん!」
呼びかける声に、ドキリと心臓が撥ねた。
もしかして、思い出したのか?
捨てたはずの期待が、一瞬のうちに胸を満たして、
高耶は思わず足を止めて振り返った。
「良かった。また会えなくなるかと…」
わずかに息を弾ませて走ってきた男の眼差しは、
優しいけれども前とは違う。
苦さを噛みしめ、視線を逸らした。
待てと言われたからって、いつまでも同じ場所で居られるものか。
オレは仕事中なんだ。
あんたと話してる暇は無い。
そう言おうとして顔を上げたとたん、
正面に立った直江が、両手で包み込むようにして高耶の手を捉えた。
「探しましたよ。あなたに会いたかった。」
変わらぬ声と温もりに、息が止まった。
どうして…
なんで、おまえは…
記憶をなくしたおまえを、オレは忘れなきゃいけない。
そう思って、オレは…
苦しくて泣きたくなる。
この手を、この声を、おまえを!
オレは、どんなに…
ふいに空気がざわめいた。
気付くと、いつのまにか周りの注目を浴びている。
思えば、モデルか俳優と間違われそうな颯爽とした美男子が、
わけありな風情で、汗まみれの警備員を見つめているのだ。
人目を惹かないはずがなかった。
高耶は慌てて直江の手を引っ張り、手近な物陰に飛び込んだ。
柱の裏に廻ると、思った以上に狭い空間だったが、とりあえず二人が並べれば十分だ。
いらぬ注目から解き放たれて、ホッと息をつく。
壁に背を預けて脱力すると、横で直江が小さな笑みを漏らした。
「なんだよ。」
「いえ、なんでも。」
そう言いながら、なんだか楽しげに微笑んでいる。
誰のせいで、こんなところに隠れる羽目になったか、わかってんのかオマエ?
チラリと睨んでやると、直江は悪戯っぽく高耶の顔を覗き込み、
「なぜでしょうね、こうしていると、ずっと見つめていたくなる。」
甘い声で囁くように呟いて、繋いだままだった手を、しっかりと握り直した。
記憶が戻ったわけじゃないのは、明らかだ。
なのに、心臓がトクンと脈を打つ。
冗談めかした表情の中に、本気の想いを感じてしまう。
どうすればいい?
オレは…
遠くでクラクションが鳴った。
そうだ、仕事に戻るんだ。
直江の為にも、そうすると決めたはずだ。
迷うことなんて…
だが高耶は動けなかった。
真摯な目をした直江が、
「高耶さん…」
言いかけて口を噤む。
何度も、何度も。
きっと直江は、自分の中にあるはずの記憶を探っているのだ。
病院で倒れた姿が蘇って、高耶は思わず直江の両腕を掴んで揺さぶった。
「やめろ! やめるんだ直江! もういい、思い出そうとするんじゃない!」
綺麗な琥珀の瞳に、オレが映る。
これほど近くで見つめ合ったのは、あの日以来かもしれない。
バカみたいに些細なことで喧嘩をした、あの日。
じゃれあうように口づけを交わした時を、焦がれるように思った。
それでも。
高耶は心を殺して直江を見つめた。
目に渾身の力を込めて。
「オレのことは、思い出さなくていい。」
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