『月を射る』−6

 
 

学園から借りている高耶の家は、こじんまりしたワンルームマンションの一室だ。
部屋の隅に置かれたベッドと机の上が、少々散乱している以外は、思ったよりずっと片付いている。
「片付いてるじゃないですか。」
キッチンの椅子に座って、拍子抜けしたような感想を洩らすと、直江は高耶を見つめて微笑んだ。
「あんま見るなよ。まだ荷物も半分開きっぱなしだ。」
インスタントの珈琲を啜りながら、高耶が肩を竦める。
直江は高耶の顔から、自分のカップに視線を移した。

気を付けていないと、すぐに高耶を見てしまう。
瞳、唇、頬から顎のライン、指や手の動き…
見ているだけでドキドキする。
一緒に弓を引けたら、それでいいと思っていた気持ちが、いつのまにかそれだけでは足りなくなった。
触れたい…
抱きしめたい…
出来ないとわかっているのに、思いだけが膨らんでいく。
賭けを持ちかけた時は、こんな気持ちになるとは思っていなかった。
いや、もしかしたら、思っていたのかもしれない。
きっと、だからあんな賭けを持ちかけた…
あなたを俺のものにしたくて…
俺だけのものになって欲しくて…

あれから高耶が顧問を辞めたくなるように、時間を奪ったり誘惑させたり、思いつく限りの手を使ったけれど、辞めさせることは出来なかった。
そればかりか、高耶は弓道部を生まれ変わらせ、学園でもすっかり信頼を得てしまったのだ。
何よりも直江自身が、高耶が苦しむ姿を見ていられない。
誘惑させるなんて、もう考えただけで吐き気がする。
でも…

「直江? どうかしたのか?」
高耶の声に、ハッと顔を上げて、直江は微笑を浮かべて首を振った。
「それより、僕に話があったのでは?」
「ああ。…おまえの気持ちを聞きたいんだ。教えて欲しい。おまえの考えてることを」
直江は息を呑んで高耶を見つめた。
澄んだ漆黒の瞳が、じっと直江を見つめている。
「本当に?」
声が震えた。

言っていいのか?
好きだ。抱きしめたい。
そんな気持ちを、言ってしまえるなら…

「言ってくれ。おまえ自身のことだ。やっぱりおまえに聞かなきゃわからない。」
高耶の手が、直江の手に触れた。
思わず指を伸ばして、その手をキュッと握った。
言ってしまおう。
直江が口を開きかけた時、高耶が促すように言葉を継いだ。

「直江…教えてくれ。どうしておまえは、自分の力を隠すんだ?」
ピタリと直江の動きが止まった。
「おまえの弓は、まだまだ伸びる。こんなところで抑えちゃいけない。」
一生懸命に直江を見つめる高耶の瞳は、光を映して煌いている。

こんなに綺麗なのに、どうして好きだと言ってはいけないのだろう?
どうして抱きしめられないのだろう?
男だから? 顧問だから?
そうじゃない。
あなたが求めているのが、俺の弓だけだからだ。
弓だけ…だから…

「そんなに知りたい?」
ふいに直江の口調が変わった。
大人びた、どこか哀しそうな瞳が、高耶を見つめてフッと翳った。
胸がざわめく。
直江は高耶の指を弄びながら、
「俺はね、何代も続いた弓道家の息子なんですよ。小さい頃から兄と一緒に、父の稽古を受けました。
 父も兄も、大好きだった。尊敬していた。いつか兄が道場を継いだら、俺は師範として役に立ちたいと思ってました。」
「それが、どうしてこうなったんだ?」
直江の指が、くすぐったい。
けれど手を引っ込めたくても、なんだか直江を拒むようで躊躇われる。
落ちつかない様子を楽しむように、直江は高耶の手を自分の方に引き寄せた。

「中学の時、父が…俺に道場を継がせると言ったんです。兄は家を出てそれっきり。
父は兄を探そうともしないで、俺の試合ばかりを気にしていた。嫌になったんです。そんな父も、弓も…。」
直江は目を伏せて、高耶の手を掴んだまま、唇に手を押し当てた。
そうすると自動的に、直江が高耶の手にキスしたかたちになる。
戸惑う高耶を知らない振りで、直江はそのまま話を続けた。
「それでも弓は辞めたくなかった。試合には出たくない。部でも上位に入りたくない。でも弓は…」
話していることは、全部本当のことだ。
今まで誰にも言わなかった本音を、高耶になら言ってもいいと思った。

知りたいなら、教えてあげる。
あなたが知ろうとしていないことも。

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