『月を射る』抜粋−2

 
 

あの日から、数日が過ぎていた。
『また逢えるさ。』
そんな言葉を残して、行ってしまった彼は、どこの学生だったのか…
思いつく限りの高校や大学、弓道の大会写真を探し回ったが、見つからなかった。
せめて名前だけでも知っていれば…と思っても、教えてくれなかったのだからしかたがない。
今日も放課後の学園で、適当に選んだ女の子の膝に頭を乗せて、ぼんやり彼のことを考えていた直江は、彼女が口にした新任教師の話題に、ふと興味を惹かれて顔を上げた。

「仰木先生?知らないな…。 で、その先生が弓道部のことを?」
「そうなのよぉ。うちのクラス、弓道部の子がいるんだけど、先生ったら今日は絶対休むなよ!だって。
 地学の先生でね、黒ブチの眼鏡かけてんだけど、からかうとジロッて睨んでカワイイの〜♪
 あ、私は直江くんが一番よ! でね、今日これから…
 あん! 直江くん、どこに行くのよ〜」

女の子を振り向きもせず、立ち上がった直江は、弓道部の部室へと向かっていた。
今日は休むな? 何があるというんだ。
日頃から部員と呼べない活動ぶりでいながら、こういう時はさすがに気になる。
行ってみると、部室には誰もいなかった。
少し考えて、直江は胴着と袴に着替えてから、弓道場に行った。
たまには顔を出すのも悪くない。
軽い気持ちで足を踏み入れたとたん、聞きなれない怒声が飛んできた。
この声…まさか?

「やる気がねえなら、やめたっていい! けど、本当にそれでいいのか?
 自分の可能性を信じろ。やる前から諦めてんじゃねえ!」

あれほど探し回った人が、ヒイヒイ言いながら腕立て伏せをする部員たちの前で、ゲキを飛ばしている。
信じられない思いで、直江は目の前の背中を見つめた。
同じ歳か、せいぜい2、3歳の違いだろうと思っていた。
教師だったなんて… それじゃ若くても5歳は上だ。
並んで弓を引くことは、きっともう出来ない。
顧問と部員として一緒に弓を引いても、そこにあの感覚は生まれない…
あんなに自由な気持ちで、自分の力を出しきったことは無かった。
あれ以来、ひとりで弓を引くだけでは足りなくて、でも他の誰といても、もっと足りない気がする。

逢いたかった…
焦がれるほど求めていた…
だが…
こんな関係で逢いたかったんじゃない!

振り向いた彼は、あの日と同じ瞳を眼鏡の奥に秘め、初めて出会ったような顔をして言った。
「遅かったな。俺は仰木高耶。今日から弓道部の顧問を務める。よろしくな。」
「仰木…高耶…」
やっと知った名前を、口の中で呟いた。
高耶は胴着にチラリと目をやると、
「直江! 秋山の隣で腕立て100回。駆け足!」
有無を言わせず、空いた隅を指差し、号令をかける。
よく通る声が、道場に響いていた。

練習が終わって、みんなと一緒に学校を出た直江は、すぐに弓道場へ戻った。
一言だけでも、文句を言わずにいられなかったのだ。
勢いよく扉を開けて入っていくと、高耶は片付けた弓をひとつひとつ手にとって、慈しむような表情で眺めていた。
直江に気付いて顔を上げた高耶が、弓を置いて近づいてくる。
白のスポーツウェアに、ハーフロングのダウンジャケットを羽織った姿は、教師よりずっと生徒に近い。
こうして傍に立ってみれば、体の大きさも直江なら腕にスッポリ包み込めるほどなのに、それでもこの差は埋まらないのだと思うと、直江の心は更に行き場のない想いで、いっぱいになってしまった。

「部の顧問だなんて、なぜ教えてくれなかったんです! 知っていれば…」
「知ってたら、喜んで部活に出て来たってか?」
フッと笑って、高耶は詰る直江を見上げた。
違うだろう?と言う瞳に、言葉が出なくなる。
どうしてわかるんだ。
俺のことなんて何も知らないくせに!
どれほどあなたに会いたかったか…
探しても見つけられなくて、名前さえ知らないことが悲しくて…
なのに、わかると言うのか?
俺の心が…!
今の俺の気持ちを、あのとき既に知っていたと言うのか?
だったら、どうして俺と弓を引いた!
どうして…

裏切られた思いがした。
それなのに、その言葉が間違っていないことが、悔しくてならなかった。
知っていれば、弓を引いたりしなかった!
そうすれば、こんな気持ちを知ることも無かったのに…

ギュッと唇を噛み締めた直江の肩を、高耶はポンと叩いて踵をかえした。
「出て来いよ。おまえの弓を埋もれせたくない。」
去り際に、振り向いて微笑んだ顔は、あの日と少しも変わらない。

ああ……
もし今、あの時に戻ったなら、それでも俺は弓を引くだろう。

それほどに惹かれてしまった俺の心を、あなたは何も知らずに誘っている。
弓道部の顧問として…
ただそれだけで…

そう思った時、直江は高耶を追っていた。
腕を掴んで壁に押し付けると、驚く顔を間近に見つめた。
「あなたが出て来いと言うなら、出てもいい。その代わり僕と賭けをして下さい。」
「賭け?」
眼鏡を通しても、澄んだ瞳の美しさは変わらない。
その瞳が不思議そうに直江を見つめる。
直江の心に、突き刺すような痛みが走った。
それでも…

「ええ。この1ヶ月の間に、あなたが顧問を辞めたら僕の勝ち。 あなたには、僕の言うことを聞いてもらいます。」
「辞めなかったら?」
「どんなにキツイ練習でも、文句は言わない。黙ってあなたに従います。」
高耶の目が丸くなって、本当か?と疑うように細くなった。
「嘘は言いません。」
真剣な顔で頷いた直江に、高耶はニッと笑って大きく頷いた。

「よし!男に二言は無しだぜ。」
「ええ、勿論です。でもあなたが負けたら、ちゃんと言うことを聞いて下さいね。」
「は?あたりまえだ。馬鹿にすんじゃねえ!」

こんな賭けに負けるはずがない。
そう思っているに違いない高耶の顔を見つめて、
「さようなら、先生。また明日。」
直江は首筋に触れるほど近く唇を寄せ、低く抑えた声で耳にそっと囁いた。
くすぐったさに高耶がピクンと身を竦ませると、直江は少し笑って、あっさり手を振って帰っていった。

唖然として見送った後、高耶は弓道場に鍵を掛けて外に出た。
空には点々と、小さな星が瞬いている。
高耶は眼鏡を外して、うーんと伸びをしながら、その星々に目をやった。
やはりここでは、肉眼で見える星は少ない。
それでも東京に比べればずっと多くて、高耶はそのまましばらく空を眺めていた。

交通事故で入院した先輩に頼まれて、半年だけの約束でこの学園に来たのが2週間前。
ここであの人に出会うとは、思っても見なかった。
まさかここが、あの人の学園だったなんて…

もう一度やってみないかと言われ、一度だけのつもりで弓道場の鍵を借りた。
懐かしい弓の感触。
身を切るような明け方の空気に、心と体が研ぎ澄まされてゆく気がした。
そうして的に集中していると、それまでの不安も雑念も、いつのまにか頭から消えていた。
でもそれだけだ。
俺はもう、競技としての弓は引けない。
勝ちたいと思わない人間が、競技に出てどうするんだ?
時々でいい…こうして弓が引けたら、それだけで充分だと思った。

だけどあいつの弓は違う。
どこまでも伸びようとする、力強い矢の走り。
あれは刺激があれば、もっと伸びる。
一緒に弓を引いて、あんなに楽しかったのは初めてだった。

あの朝、おまえと弓を引かなかったら、俺は顧問になっていない。
そう告げていたら、あいつはどんな顔をしただろう?
高耶は直江の顔を思い出して、ふふっと笑った。

賭けだって?
カワイイじゃないか。
この俺が、部の顧問を1ヶ月で辞めるなんて有り得ない。
賭けの理由は、単なる自分への反発だと、この時の高耶は思っていたのだ。

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