『月を射る』−1


タン!と綺麗な音が聞こえた。
数呼吸の間を置いて、再びタン!と矢が的を射る音が響く。
早朝の弓道場は、いつもなら誰もいない。
それに、この音…
かなりの腕だ。
こんな奴がうちの部員にいたら、俺が知らないはずがない。
(誰だろう?)
直江信綱は、形の良い眉を顰めて、訝しげに小さく首を傾げた。

そっと入り口から中を覗くと、ちょうど次の矢をつがえた人影が、キリリと弓を引き絞り、的を見据えているところだった。
離れていても感じる気迫。
外に据えられた的は、まだ薄暗い闇の中で、ほんのりと白く浮かんで見えるものの、全体の輪郭さえハッキリしない。
けれどその人は、まるで獲物を狙うかのような瞳で、見えない的の中心を見つめていた。
タン!
矢が的に刺さった。
その音を聞きながら、直江は静かに息を吐いた彼の横顔を見つめたまま、目を離すことが出来なかった。

見惚れていたのは、ほんの数分。
もしかしたら数十秒だったかもしれない。
再び矢をつがえようとする動きに、誘われるように前に出た直江の足が、ギシリと床を軋ませた。
振り向いた彼と、目が合った。
黒い切れ長の瞳が、直江を見ている。
直江は言葉も呼吸も忘れて、心を射抜く漆黒の星を見つめた。
一拍遅れて動き出した心臓が、鼓膜の内側でドクンドクンと鳴り始める。
ふっと星が笑った。

「朝練か? 悪いな。ちょっと練習させてもらってたんだ。すぐ止めるから…」
屈託の無い笑顔で言ったあと、ほんの少し目を伏せて俯いた彼に、直江は思わず声を掛けていた。
「止めないで下さい! 僕は平気です。一緒にやりましょう!」
自分でも驚くほど、強く引き止めていた。
本当は、誰かと並んで打つなんて、大嫌いだった。
弓道部に席を置いていても、まともに部活に出ないどころか、試合にもほとんど出ない。
そんな直江にとって、唯一この時間だけが、存分に弓を引ける時間だった。
誰にも干渉されず、何に気を遣うこともない。
ただ無心に、的を目指して弓を引く。
それが一番の楽しみだった。
だから今日も、ひとりっきりで弓を引きたいと思って、ここに来たのだ。
なのに…

「いいのか?」
心配そうに尋ねる彼に、直江は大きく頷いた。
一緒に弓を引くというより、ただ彼が弓を引く姿を見ていたかった。
ピンと張り詰めた空気。
沈黙を切り裂いて飛ぶ一本の矢。
あのひとときを、共有してみたい。
「じゃあ、やるか。」
ニッと笑った彼の瞳が、直江の瞳を捉えた。
促されるままに、並んで弓を構えると、矢をつがえて同時に引く。
ビシュッ!
矢を放った瞬間、直江の中で新しい一番が生まれていた。

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