タイガースアイ『胎動』−3

 
直江は高耶のために、美味しくて趣味の良いレストランを予約していた。 気がねなくいられるようにと個室にしてもらった。にもかかわらず、高耶のひとことで予定は変わった。
「メシ? 蕎麦にしようぜ。ここに来たらやっぱ蕎麦だろう。」
「わかりました。」と言うしかない。直江は予約していたことも言えずに、
「ここがいい。」
と高耶が決めた店に入った。カウンターに座ると、当然ながら顔は見れない。
内心がっくりしていた直江だったが、蕎麦の味は抜群だった。
「美味しいですね!」
「だろ? ずっと前に食ったとき美味かったから、おまえに蕎麦食わせるならここしかないって思ったんだ。
 よかった。潰れてなくて。」
得意そうな高耶の顔が、息が触れそうな間近にあった。
思わず箸をとめた直江は、一呼吸おいて微笑んだ。
高耶の声が、笑顔が、胸に染みていく。
小さな店の蕎麦は、今まで食べたどんな蕎麦より美味しかった。

「ごちそうさま。」
きちんと手を合わせて席を立つと、高耶は店の表に出た。
勘定を済ませて出てきた直江に、ごちそうさん。とほんの少し首を傾げた。
くすっと直江が笑った。
「なんだよ?」
「いえ。あなたが頭を下げてくれたのは初めてだと思って。授業の時も、礼をしてなかったでしょう?
 気持ちいいものですねえ。癖になりそうだ。」
にっこり微笑んで見つめる瞳に、なぜかどきりとしてしまった。
「んなこと…俺だって、ちゃんと頭下げるときは下げんだよ。」
どきどきと落ちつかない胸に手をやって、高耶はぷいと顔をそむけた。

帰りの道は、急ぐこともないのでゆっくり走った。
「うちはこの先なんです。その辺の喫茶店よりおいしい珈琲を淹れてあげましょうか。」
自信たっぷりに言われると、もちろん試してみたくなる。
「ふうん…。じゃあ淹れてもらおうか、その美味い珈琲ってのを。」
直江の部屋は、マンションの最上階だった。
「へぇ〜。ここまで上だと夜景が綺麗に見えるな。」
ベランダに出たとたん、すっかりここが気に入ってしまった。静かだし景色もいい。
そのぶん家賃も高そうだが、自分の家じゃないから平気だ。
「風が冷たいでしょう? こっちで珈琲を飲みませんか。」
直江の声に、中に入って窓を閉めた。挽きたてのいい香りがする。
直江が淹れた珈琲は、本当においしかった。

豆がどうのってことなんか知らない。
この香りと、微かな苦味の加減がちょうどいい感じで、飲んでいると気持ちが落ち着く。
カップを口に運びかけてふと目を上げると、直江がコーヒーを飲もうとするところだった。
通った鼻筋。伏せられた目元に睫が影を落としている。なめらかな額にかかる柔らかい髪が、手の動きにつれてふわりと揺れた。
学校では見た事の無い直江を、今日はどれだけ見ただろう。ほんの数時間で、高耶は自分でも驚くほど、打ち解けた気持ちになっていた。
譲や千秋といるときとも、美弥といるときとも違う。
でも、こうして一緒にいることが、とても自然で心地いい。こんな気持ちは初めてだった。
そうしてあっと言う間に9時半になっていた。
「うわ。もうこんな時間! ここからだと1時間以上かかるよな?」
一応電話はしていたが、これほど遅くなるとは思ってなかった。
慌てて帰ろうとする高耶に、
「いっそ泊っていきませんか?」
と直江が言った。

 
  どうして泊ってしまったのか。
その答えは簡単だ。まだ帰りたくなかった。もっとあそこにいたかったんだ。
わからないのは、今の自分の気持ちだった。
家に帰ってから、ずっと直江のことばかり考えている。
どうしちまったんだ?
あいつの声が耳から離れない。
いつもと同じ土曜日なのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。
胸の奥でなにかが動き始めてる。
俺の知らない俺が、生まれてくる。
直江。
おまえの名を浮かべるだけで、胸が熱くなるのはなぜだ。
教えてくれ。直江。

 
「トゥルルル」
「はい。仰木です。」
「高耶さん。明日…いえ、これから会えませんか?」
「直江?今朝別れたばっかだろ?」
「ええ。…ですが…。」
会いたい。
堰を切ったように溢れだした思いがとまらない。
直江は、じっと目を閉じて、高耶の声に耳を澄ませた。

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