タイガースアイ『胎動』−2

 
ほんの少しのつもりが、いつのまにか遅くなってしまって、
「あんまり遅いと家の人が心配するでしょうから、いっそ泊っていきませんか?」
と直江が言った。それもそうか、と泊ってしまった。
なんでそんな気になったのか。それも不思議だ。あいつといると変になる。
「んっと調子狂っちまう。」
けど。楽しかった。譲を怒らせても後悔できないくらい、楽しかった。
「ごめん…譲。」
罪悪感をおぼえて、高耶はまた小さく呟いた。

金曜の夕方、直江の車が向かった先は美ヶ原だった。
「どうしても行きたいって、ここだったのか。」
「ええ。」
高耶の問いにたった一言。それ以上はもう言葉もなく、直江は目の前の風景をじっと眺めた。
その横顔を見つめて、視線の先を追うように、高耶も遥か遠くに見える空を眺めた。
なぜここに来たかったのか、なぜ俺なのか。訊きたいとは、もう思わなかった。
ここは遠足でも何度か来たことがある。松本に暮らすものにとっては、馴染みの場所だ。
高耶はこの風景が好きだった。何度来ても見るたびに好きだと思う。
でも最近は来てなかった。思い出しもしなかった。ここはこんなに美しいのに…。
慌しい日々も、様々な悩みも、冷たい風と一緒に空気に溶けていくような気がした。
夕陽の名残りが、雲の端にほんの少し残っている。
久しぶりに見る景色は、記憶の中よりもずっと美しかった。

「寒くないですか?」
問いかけた直江に、高耶は大丈夫。と頷いた。
直江が貸してくれたコートを着ているので、寒さも気にならない。
「おまえは?」
ええ、大丈夫です。と微笑んで、直江は戻りましょうと高耶を促がした。
直江が着ている少し薄手の白いコートが、薄暗くなってゆく風景の中で揺れた。
本当に寒くないんだろうか。俺が暖かいのを借りちまったから、我慢してんじゃないのか?
心配そうに見上げた高耶に、
「寒かったら、ここに入ってもいいんですよ。」
直江がコートの右側を大きく広げてみせた。
「だっ…誰がンなことするかよっ!」
冗談なのか本気なのかわからない。思わず赤くなって、高耶は慌てて歩きだした。
「本当は一緒に夕陽を見ようと思っていたんですが。なんとか残照には間に合いましたね。」
次に来る時はもう少し早く出ないと。とにっこり笑う直江に、そうだな。と答えた高耶は、その言葉に潜む意味に全く気付いていない。
高耶の横顔をそっと見ながら、直江は嬉しそうに微笑んだ。

「めちゃくちゃ飛ばしてたからな。ったくベンツでこんな飛ばすやつ見たことないぞ。」
「怖かったですか?」
「全然。すっげえ面白かった。」
楽しいドライブだった。隣にいる高耶を見ているだけで幸せだった。
笑ったり、ムッとしたり。彼の表情を全て目に焼き付けたかった。
しかし運転しなければならないので、顔ばかり見ているわけにいかない。
もうすぐだ。夕食になれば、向かいあっていられる。
だが、ウキウキしていた直江の期待は、見事に裏切られた。

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