「ちょ…っ!待てよッ!仰木!」
怒鳴る千秋の声が聞こえた。
「なんで逃げんだよ!」
なぜって…
ンなこと知るか!勝手に足が動いてたんだ。
「お前が追って来るからだろ!サッサと彼女ンとこに戻れよっ!」
間近に迫った声に、叩きつけるように言い放ち、高耶は狭い路地に駆け込んだ。
ハァハァと荒い息を整えて歩き出す。
追いついた千秋が、高耶の肩をガシッと掴むと、のし掛かるようにして顔を覗き込んだ。
「嘘じゃねえよ。…つか、去年の教育実習で来てた数学のセンセーだぜ。 マジで覚えてねぇの?」
あ、という顔になった高耶だが、瞳は言葉の続きを待つように千秋を見ている。
千秋はちょっと笑って、高耶と目を合わせた。
「…ったく、鈍いんだか、鋭いんだか…」
報われない恋をしている人だった。
ほんの一時、温もりを求め合っただけの、そんな二人の関係を、
高耶には言いたくなかった。
どちらにしても、もう過去の話だ。
不思議なのは…
眼鏡の奥で、千秋の瞳が切なく揺れる。
目を逸らしたのは、高耶だった。
千秋は、きっと言いたくないんだ…
それに気付いていながら、俺は無理に答えを求めてる。
俺の知らない千秋…
いつから?なぜ誤魔化すんだ?
おまえにとって俺は、本心を曝せる相手じゃなかったのか…
ギュッと唇を結び、高耶は地面に転がっている空き缶を、
空に向かって蹴り上げた。
飛んだ缶が電柱に当たって、カーンと乾いた音を立てる。
騒がしいはずの路地裏で、その音はなぜか余韻を残して響いた。
フゥッと息を吐いて、千秋を見上げた高耶の唇が、不意に優しく綻んだ。
「言わなくていい。もういいんだ。ここにいる千秋が千秋なんだから。そうだろ?
なんか俺、どうかしてる…ったく1日中おまえのことばっか見てたから、頭ン中が変だ。」
頭が変になりそうなのは、自分の方だと千秋は思った。
直江が聞いたら卒倒しそうな殺し文句に、心臓を直撃する不意打ちの笑顔…
これで本人は全くの無自覚なのだ。
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