「あれで逃がしたつもりか?」
追うのは簡単だと、鼻で笑った魔王の手が上がる。
瞬時に直江の杖が輝いた。
ふたつの魔法が、反発しあって火花を散らす。
「小癪な!」
怒りに燃えたノブナガは、一気に魔力を上げて直江を押し返すと、そのままダンッ!と床を蹴った。
飛竜も箒も無しで、ノブナガの体が宙に飛ぶ。
「殿!」
叫んだランマルの声が、突然ビョオオと吹き始めた風に消された。
千秋たちを追いかけようとしたノブナガを、風が巻き込んで引き戻す。
「どこ?どこにいるの?おまえが隠した…わたしの…」
キーンと頭に響く声。
あの女の声だ。
直江の足元が、いきなり真っ暗な闇に変わった。
魔法を使う暇も無く、落ちてゆく直江の体を、逃げずに残ったオパールが銜えて飛ぶ。
だが、今度は空まで行き着けなかった。
吹き荒れる風に、身動きがとれない。
「殿ぉ!お、お助け…」
逃げ惑う使用人たちが、助けを求める。
屋根が、壁が、階段が、壊された部分が増えるにつれ、支えきれなくなった箇所から、バラバラと崩れ始めていた。
風に動きを封じられ、自らが築いた境界を次々に消されて、ようやくノブナガは、正体不明の女に目を向けた。
ノブナガにとって、屋敷も使用人達も、強いて守るべきものではなかった。
この程度の事で自分の身も守れぬ者など、惜しくもない。
だが、意のままに風を操り、結界も境界も消してしまうとは…この女、捨て置けぬ。
よく見ると、女はどこかで見たような顔をしていた。
ゆったりドレープをとった薄衣を纏い、しかも裸足で宙に浮いている。
まるでギリシャ神話から抜け出た女神だ。
…女神…?
「ふふふ。そうか、これが秘宝『微睡む女神』…随分と凶暴な女神がいたものだ。」
ノブナガの言葉にランマルが、
「ええっ!これがあの名画?」
と驚いて女を見た。
『微睡む女神』は、やわらかな陽射しが降り注ぎ、花の咲き乱れる楽園で、幸せそうにまどろむ美しい女神を描いた絵画だ。
その絵から抜け出た女神が、この恐ろしい女?
「きさまの仕業か、ギルドのナオエ!
その絵は美術館に納められていたはず。
それを勝手に持ち出して、魔王の屋敷を壊したとわかったら、ギルドは何と言われるだろうね?
宝物の私物化。職権乱用。人間の魂を囮にした不法侵入…」
強い風の中、ランマルは箒に乗って、直江を追いながら叫んだ。
何もかもが腹立たしくてならなかった。
殿は何を考えているのだろう?
闇市の粋を集めた我らの城が、壊されようとしている時に、なぜ彼らを先に追いかける?
なぜ殿は…
考えれば考えるほど、知りたくない答えに行き着きそうで苦しくなる。
殿が求めているものを、あの者が持っているとしたら…
それが自分には無いとしたら…
「だから、わかっていないと言っている。」
オパールを止めた直江の声が響いた。
「あの秘宝は『天使の悪戯』と対で描かれたもの。
女神は我が子を探して目覚めただけだ。
『天使の悪戯』がここにある限り、彼女は全ての扉を開き結界を無効にする。
だが絵を盗まなければ、屋敷を壊されることもなかった。
ギルドを責めるのは筋違いだ。」
「なんだと!我らが絵を盗んだと言うのか?どこに証拠がある!」
カッとなって言い返したランマルに、下から吹き付けた風がヒュルルと絡みついた。
「知っているわ。ここにいるのよ。」
女神の声が、風の中に聞こえた。
風が歌う。
女神はノブナガとランマルを絡めとっては放り投げ、お手玉のように弄びながら歌った。
出ておいで
可愛い子供たち
いたずらっ子には、お仕置きを
お顔を出したら許してあげる
ほうら、おいで
出ておいで
「クッ…!この女…!」
ノブナガの電撃が、女神の周りで青い火花を散らす。
瞬間的に風の力が弱まった。
女神の注意がノブナガ達に向いている間に、なんとか空へ出たオパールは、直江を乗せて全力で銀青を追った。
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