光のかけら−38

直江は、バックミラーを見るふりをしながら、そっと助手席に目をやった。
ほんの少し、手を伸ばすだけで届く距離。
ベンチシートの運転席と助手席を、隔てるものなど何もない。
なのに指一本動かすことさえ出来ずにいるのは、相手が高耶だからだ。
欲しくもない女には、何の躊躇いも無く出来たことが、本当に欲しい人には出来ない。
慌てて着込まれたシャツが、高耶からの牽制のように思えて、直江の胸は重く塞がれていた。

ひととき心が触れ合えたなら、それでいいと思っていた。
松本に誘うと決めた時には、本当にそれだけで充分だったのだ。
それなのに、今はもうそれでは足りなくなっている。

触れたい…
隣にいるだけで、こんなにも触れたくなる。
柔らかな唇の感触が、吐息の甘さが、抱きしめた体のしなやかさが、五感に蘇って離れない。
今すぐ抱きしめて、くちづけて、このまま帰さないと言えたらどんなにいいだろう。

だが、それを望んでいるのは、自分だけだ。
男が男を抱くなんて、考えてもいなかったのだ、この人は。
求めてくれていたのは、優しい温もりだけで、その先など想像もしていなかっただろうに、
あんなかたちで自分の欲望を曝け出してしまった。

追いかけた事を怒ったのも、傷を舐めてくれたのも、俺を心配してくれたからだ。
わかっていたのに、抑えられなかった。
抱いてしまいそうで…抱いてしまいたくて…
閉じた襟元からは、あのペンダントがあるかどうかさえわからない。
警戒されている…
自分を呪いたい気持ちで、直江は高耶から視線を外した。

「悪かったな、こんな遅くまで引っ張り回しちまって。疲れたろ?」
気遣う声に、直江はハッとして微笑を浮かべた。
「大丈夫ですよ。高耶さんこそ、ゆっくり出来なかったでしょう?」
と言って顔を向けると、高耶が少し寂しそうに目を伏せた。

「いいんだ。あれ以上いたら親父が帰ってくる。」
「…会いたくない…ですか?」
いつもなら、こんな質問はしない。人には立ち入られたくないことがあるからだ。
けれど伏せた瞳に、高耶のやるせなさが滲んで見えて、直江はわざと心に踏み込んだ。

苦しいことは口にしたほうが楽になる。
答えたくなければそれでもいい。
ただ、高耶が誰にも言えずに苦しいなら、掻き出してでも吐かせてやりたい。
他の誰でもない、自分の手で。
これは優しさなどではない。紛れも無い独占欲だと、直江は自覚していた。

直江の問いに、高耶はスッと目を上げた。
寄せた眉が険しくなって、フロントガラスを睨む瞳は、遠い何かを見つめている。
しばらくしてふっと瞳を和らげると、高耶はホウッと息を吐き出した。
「そうだな。会いたくないんだ、俺は…。俺はまだ、あの人を許せてない。
美弥みたいに、大人になれない。女って、どうしてあんな大人になれるんだろうな。」

だから離れて暮らすのが一番だと思った。
目を合わすと平静でいられない。責めたくないと思っても、俺の瞳は嘘をつけない。
あの人は、俺がいない方が楽なのだ、と気づいてしまった時に、一緒に暮らせなくなった。
美弥と二人なら、あの人は父親でいてくれる。
自分を慕ってくれる美弥に、俺が力を貰っていたように…

「今は結構いい父親してんのにな。俺もホント心が狭いよな。」
そう言って、初めて高耶は直江を見た。
瞳の奥に隠した悲しみの深さが、胸を貫く。
堪えきれなくなって、直江は高耶の肩を抱きしめた。

体だけが欲しいんじゃない。
心も、思いも、過去も未来も、この人の何もかもが欲しい。
全てをこの手に抱きしめたい。

抱きしめた肩が、じっと息を詰めているのを感じながら、直江はそっと体を寄せた。

 

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