旧制第一高等学校寮歌解説

白陽に映ゆる

大正13年第34回紀念祭 

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1923年震災の煉獄苦の記念(かたみ)
1、白陽(しらび)に映ゆる櫻花    散るや渚の潮の()
  酌む驕宴に耽る世の   天照る陽なる若人は
  花の香をこそ名に負ひて 久遠の意氣(こころ)史に著るし

2、藝術(たくみ)の塔に生命(いのち)失せ   神に(たま)なき偶像(あだすがた)
  流轉の運命(さだめ)その儘に   恣なる人心
  闇と濁りに(しづ)む世に    永遠(とは)(すがた)はなどか見ん

5、あゝ青春の歡喜(よろこび)に     (たぎ)希望(のぞみ)の血潮盛る
  自治の灯影に杯を     挙ぐる男兒(をのこ)に誇あり
  生命の限り三勝の     榮光を祝はん三十四            

掲題の「煉獄苦」の煉獄とは、カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所をいう。従って、「煉獄苦」は、関東大震災の火災で焼死した人たちの苦しみをいう。
6段2小節2音は大正14年寮歌集・昭和3年寮歌集ともに印刷ミスで空白、昭和50年寮歌集添付の原譜に拠りソとした。
ハ長調・8分の6拍子は変わらないが、昭和10年寮歌集で一部変更があった。下記の1・2の変更は恐らく印刷ミスの訂正であろう。

1、「ふけるよの」の「の」(3段4小節) 1オクターブ低いソに変更。
2、「こころ」(6段2小節)  ソーファミーーに変更。
3、音符下歌詞の「-」5箇所にスラーを付した。

 「しらびにはーゆる」とやや早いリズムの出だし、2段は「ちるやなぎさのしほのほに」にとゆったりと受ける。第2大楽節の3.4段もこれを踏襲(1段・3段はメロディーも同じ)、5段は一高寮歌得意の「はなのか」を弱起にするために「は」を前小節に繰り上げ(「春爛漫」の「とりはさえずり」の歌い崩しと同じ手法)、1・3段とは逆に1・2小節がゆったりと、3・4小節でリズムをはやめ、6段の締めに導いている。歌曲としてはいいのだが、やはり寮生はタータタータの伝統的リズムか、短調の哀調の響きがないと好まれないようだ。特に、この寮歌の歌詞は、宗教色が強い。


語句の説明・解釈

大正12年9月1日の関東大震災の「煉獄苦の記念に」と題する寮歌である。
 「殺気は慘澹として六合に満ち、行人は騒擾として去就をしらず。其の状を見るもの誰か筆を擱かざらん。瓦は飛び、柱は折れ、家は倒れて叫喚の声巷に満つ。9月1日午前11時18分、伊豆大島附近を震源地とする大地震は、突如として東都を襲へり。忽ちにして帝都は阿鼻叫喚の修羅場と化し、黒煙濛々として天を蔽ふ。」(「向陵誌」大正12年)

 大正12年9月1日、関東大震災発生。学校・寮とも建物はすべて倒壊と出火を免れ、死傷者もなかったが、損傷多大、特に本館は亀裂が甚だしく使用に絶えず、校外では生徒2名遭難し死亡した。水泳部の合宿所詠歸寮は倒壊、墨田川の端艇部艇庫は奇跡的に類焼を免れた。学校は臨時休校としたが、10月22日から開校した。10月9日、地震で傾いた一高のシンボル・本館時計台が爆破された(建築後30年)。
 「10月4日から工兵隊の手で準備が進められ、9日、ついに爆破が行なわれた。轟音天を衝く爆音とともに、30年来、一高のシンボルであった本館時計台は、瞬時にして消滅したのである」(「一高自治寮60年史」)

語句 箇所 説明・解釈
白陽(しらび)に映ゆる櫻花  散るや渚の潮の()に 酌む驕宴に耽る世の 天照る陽なる若人は 花の香をこそ名に負ひて 久遠の意氣(こころ)史に著るし 1番歌詞 昼の強い陽射しに桜の花が色美しく映え、渚に打ち寄せる波の穂に散っている。酒を汲み交わして快楽に耽っている世の中に、大空に照る太陽のように光輝く一高生は、関東大震災で率先救援活動を行った。一高生の名に相応しい崇高な活躍は、世間に高く評価され、その意気は永久に歴史に記されることであろう。

「白陽に映ゆる櫻花 散るや渚の潮の秀に」
 「白陽」は、白々と明ける夜明けの太陽の光か、白昼の太陽か。後の句の「天照る陽」から陽射しの強い昼の太陽と解す。「秀」は、稲の穂や山の峰などのように突き出たもの、抜群に秀でているの意だが、ここは波の穂。一高生を暗喩するか。
 「『白陽』は、あまり聞かない言葉。白熱の太陽の意か」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「しろがね遠くまどろみの 希望の峰にまたゝけば 幻あはく曙の野に」(大正14年「しろがね遠く」1番)

「酌む驕宴に耽る世の 天照る陽なる若人は」
 「饗宴」は、もてなしの酒盛り。「天照る陽」は、天に輝く太陽。「若人」は、一高生。
 「治安の夢に耽りたる 榮華の巷低く見て」(明治35年「嗚呼玉杯に」1番)

「花の香こそ名に負ひて 久遠の意氣史に著るし」
 「花の香」は、高い評価。「名に負ふ」は、一高生の名にふさわしい。大正12年9月1日の関東大震災に際しては、直ちに「一高震災救護団」を組織し、帝大救護班等に協力して救護活動を行なった。

藝術(たくみ)の塔に生命(いのち)失せ 神に(たま)なき偶像(あだすがた) 流轉の運命(さだめ)その儘に 恣なる人心 闇と濁りに(しづ)む世に 永遠(とは)(すがた)はなどか見ん 2番歌詞 いかに人が巧みに作って信仰の対象とした神社仏閣でも倒壊すれば、ただの瓦礫にしか過ぎず、流轉の運命のままに、魂が抜けたただの偶像と果てた。得手勝手に振る舞う人が多く、正義の通らない濁って頽廃した世の中に、永遠に姿を変えないものなど見ることが出来ようか。

「藝術の塔に生命失せ 神に靈なき偶像 流轉の運命その儘に」
 「藝術」は、人が作った造形物の意。「塔」は、一高・時計台はじめ大正12年の関東大震災で倒壊したり潰滅的被害を受けた建物。特に神社仏閣をいう。8階部分で折れた浅草の20階建ての凌雲閣、日本最初のカトリック教会といわれた横浜の横浜天主堂、神田にあった神田諸聖徒教会(現東京諸聖徒教会)、上野・精養軒横にあった上野大仏など多くの神社仏閣が倒壊した。「神に靈なき」は、信仰の対象の霊のない。魂の抜けた。「偶像」は、信仰の対象とされる像。「流轉の運命」は、世の中は無常、変転極まりなく、姿あるものは必ず消え去るという運命。
 
 「9日遂に第一回の爆破を行ふ。轟然天を衝く爆音に、30年來榮の歴史は一時に消失せしかと覺えて、感慨無量轉た去るに忍びざりき。嗚呼斯くして時計臺は遂に滅びたるか」(「向陵誌」大正12年)
 「藝術も宗教もまったく力を失ってしまうほどの大震災の被害。第三節にも『藝術の塔や神の宮殿・・・・敢えなく壊れ崩れ果て』とある。いわゆる藝術至上主義も宗教的儀礼も、地震に対する人の心を救済できない。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)」

「恣なる人心 闇と濁りに淪む世に 永遠の相はなどかみん」
 「恣なる人心」は、他人のことなど構うことなく自分勝手に振る舞う心。「闇と濁りに淪む世に」は、正義の通らない、濁って頽廃した世の中に。「永遠の相」は、永遠に姿を変えないもの。不滅の真理をいう。
「などか」は疑問の意を示し、どうして、なにゆえか。「みん」の「ん(む)」は一人称の場合、話し手の意志や希望を表す。
審判(さばき)の日には瞬間(たまゆら)に 藝術(たくみ)の塔や神の宮殿(みや) 况して空骸(むくろ)の人の身は 敢へなく(やぶ)れ崩れ果て 今懲罰(こらしめ)の劫火には 灰燼(はひ)の冷えたる(あと)空し 3番歌詞 神の裁きの日、すなわち大震災の日には、あっという間に、人の最高の技術で建設した塔や神の住まう神社、況や死体となった人の体は、あえなく破壊され崩れてしまった。神の懲らしめか、この世の終わりかと思わせるような大火は、ようやく収まったが、全てが冷たく灰燼と化した。その跡の、なんと空しいことよ。

「審判の日には瞬間に 藝術の塔や神の宮殿 况して空骸の人の身は 敢へなく壞れ崩れ果て」
 「審判」は、キリストで神がこの世を裁くこと。「空骸」は、死んだ人のからだ。

「今懲罰の劫火には 灰燼の冷えたる趾空し」
 「劫火」は、全世界を焼き尽くすという大火。ここでは関東大震災の大火。

(そら)に禱らむ聖光(ひかり)消え 地に宿るべき蔭なくも 生命の力人類の 歳幾千に貫ける 我れ不死鳥(フエニクス)身を灼きて 犠牲(にへ)(かな)しき榮光(はえ)享けん 4番歌詞 天に祈るべき神やその愛がなくとも、地に宿るべき住まいがなくとも、震災の哀しくて尊い犠牲を無駄にしないために、我々は不死鳥の如く蘇って、身を粉にして復興に力を尽くさなくてはならない。

「天に禱らむ聖光消え 地に宿るべき蔭なくも」
 「聖光」は、キリスト教における神や愛を示す。

「我れ不死鳥身を灼きて 犠牲の哀しき榮光享けん」
 「不死鳥」は、エジプトの伝説的な霊鳥で不死永世の象徴。アラビアの沙漠に住み、5百年生きると、その巣に火をつけて焼け死んだ後、生まれ変るという。
 「此の時神戸貧民窟より單身を捧げて此の前古未曽有の大震火災に惱める東京市民の爲に特に貧しき本所深川の兄弟の爲に飛込める賀川豊彦氏あり。我が青年會も氏の事業を援けんために進んで申込む者あり。・・・11月16日賀川豊彦氏『鳳凰は灰燼より甦る』とて苦難に對する力を慰めと救ひとを教へ給ひぬ。」(「向陵誌」基督教青年會記事大正12年)
あゝ青春の歡喜(よろこび)に (たぎ)希望(のぞみ)の血潮盛る 自治の灯影に杯を 挙ぐる男兒(をのこ)に誇あり 生命の限り三勝の 榮光を祝はん三十四  5番歌詞 陸上運動部、野球部は、対三高戦で三勝という覇業を達成した。自治燈の下で歡喜に躍る一高生の、溢れる希望に血を滾らせて乾杯する姿には誇りが満ちている。幾久しく三勝の覇業が続くように祝う第34回紀念祭である。

「自治の灯影に杯を 生命の限り三勝の」
 「自治の灯影」は、自治燈の灯影。第34回紀念祭をいうが、大正12年7月22日夜、京都四条八百政で行った陸上運動部の三勝祝勝会、特に大正12年8月28日夜、小石川植物園で開かれた対三高野球部三勝の祝勝会を重ねる。「生命の限り」は、これから後もずっと。永遠に。
「三勝」は、対三高戦で陸運、野球部が大正10年から3連勝したこと。対三高戦のボートは大正13年6月から、庭球は同年8月から始まった。当時は、まだ4部対校戦は行なわれていなかった。
 「6月15日、食堂に於て第一學期全寮晩餐會を開き、對三高野球部、陸上運動部の選手を激励す。越えて7月下旬、對三高陸上競技を京都市外植物園トラックで行ふ。彼三高は二年連敗の恨凝りて復讐の意氣物凄きものありしも、勝利の榮冠は遂に三度我に歸し、滔々たる加茂の清流を掬んで三勝を祝せり。越えて8月26日對三高野球戰を我が校庭に於て行ふ。之亦三高は二年連敗の恨深し。この度こそは勝たずんば何の顔あって京洛の地に歸らんと彼等は悲壯なる決心をなし、物凄き意氣を以て我が本營に迫れり。此の日驟雨の爲ドロンゲームとなり、28日再び之を行ひしが、三高軍の奮闘も空しく、我が軍の猛襲鋭くして克く不朽の覇業を確立せり。白旗は悠々と蒼穹に翻り、寮友は三勝の歡喜に躍る。此の夜植物園に於て盛大なる祝勝會を開けり。」(「向陵誌」大正12年)
                        

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