旧制第一高等学校寮歌解説

紫烟る丘の上

大正11年第32回紀念祭寮歌 

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  註 本来ハ伴奏ヲ附セル二重唱ナルモコゝニハMelodyノミヲ揚ゲツ
1、紫烟る丘の上      ほのかに浮ぶ明けの星
  狭霧音なく溶け行けば 假寝に淡き夢さめて
  高原に立つ若人の   旅愁そヾろに見返りぬ

2、曠茫千里辿り來て    路まだ遠く雲に入る
  地の(きはみ)より涯まで   久遠の旅を行けよてふ
  運命(さだめ)は悲し相よりて   荒野にむせぶ人の群

3、草笛あはれ流れ來て  流離に迷ふ子羊よ
  秋深けれどさみどりの  柏の森の道知るべ
  歩め遂には着きなんと  (かな)しく永遠(とは)に指しぬるを
上の原譜の音符下歌詞の漢字「高原」「旅愁」はそのまま。強調の意であろう。原譜のMIDI演奏では最後の「にみかえりぬ」のみ伴奏をいれた。

調・拍子は変更はないが、メロディーその他、昭和10年寮歌集で次のとおり変更があった。
1、リズムの変更
 タータ(付点8分音符・16分音符)のリズムは、「さぎりおとなく」(3段1小節)の「おと」、「かりねにあはき」(3段3小節)の「かり」を除き、すべてタタ(連続8分音符)に変更された。
2、音の変更
1)「むらさきけむる」(1段1小節)の「む」   ミに変更。
2)「さぎりおとなく」(3段1小節)  レファミレソーに変更。
3)「わーかうー」(5段1小節)の「わー」  ラーーシに変更。
3、スラーの変更
 「わー かうーー」のスラーを「わー こーー」と変更(下線はスラー部分)。
4、その他「高ーー原にたーつ」(4段)   
 「こ|ーーげんに|たーつ」は、「こ|ーーげん|にたつ」と「に」を2小節から3小節にずらした。「げーーん」と伸ばして、「にーたーつー」と歌う。
 合唱曲としては、明治45年樂友會「荒潮の」以来の寮歌であるが、私は,この寮歌が二重唱で歌われるのを聞いたことがない。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
紫烟る丘の上 ほのかに浮ぶ明けの星 狭霧音なく溶け行けば 假寝に淡き夢さめて 高原に立つ若人の 旅愁そヾろに見返りぬ 1番歌詞 紫色の霧が立ち込める向ヶ丘、夜は白々と明けて行き、東の空には、やがて光を失う明の明星が、まだかすかに輝いている。やがて太陽が昇り、立ち込めていた霧が静かに消えて、寮室に光が射しこむと、一高生は安らかな眠りから醒める。人生の旅の途中、向ヶ丘に立ち寄った一高生が、もの悲しさのあまり、ふと来た道を振返るのである。

「紫烟る丘の上 ほのかに浮ぶ明けの星」
 「紫烟る丘の上」は、紫色の霧がたちこめる向ヶ丘。「紫」は、後の句の「さ霧」、4番の「朝霧」と同じ霧。まだ朝が明けきっていない、まだ暗いうちの霧を紫と表現した。「ほのかに浮ぶ明けの星」は、しらじらと夜が明けて行くに従い、光が弱くなっていく明の明星をいう。 

「狭霧音なく溶け行けば 仮寝に淡き夢さめて」
 「狭霧音なく溶け行けば」は、朝日の光が射し出すと、霧が霧散して大気の中に消えていくこと。「仮寝に淡き夢さめて」は、一高生が寄宿寮の床で目覚めること。「仮寝」は、人生の旅の途中、向ヶ丘に三年間、仮寝するの意。

「高原に立つ若人の 旅愁そゞろに見返りぬ」
 「高原」は、向ヶ丘。「旅愁」は、旅行中に感じるもの悲しさ。前述のように、一高生は故郷を離れ、人生の旅の途中である。「そゞろに」は、わけもなく。これというはっきりした理由がないこと。
曠茫千里辿り來て 路まだ遠く雲に入る 地の(きはみ)より涯まで 久遠の旅を行けよてふ 運命(さだめ)は悲し相よりて 荒野にむせぶ人の群 2番歌詞 広々として何もない所を延々と旅を続けてきたのに、道はまだまだ遠く雲の向こうまで続いている。地の果てから果てまで、終わりのない旅を一生続けよという人の運命(さだめ)は悲しいものである。真理探究の途上、一高生は風荒ぶ荒野に身を寄せあって群となり、真理探究の悲しみに咽び泣くのである。

「曠茫千里辿り來て 路まだ遠く雲に入る」
 「曠茫」は、曠も茫も遠くて何もないさま。「路まだ遠く雲に入る」は、真理探究の道は、果てしなく続く。

「地の涯より涯まで 久遠の旅に行けよてふ 運命は悲し相よりて」
 「久遠の旅」は、終わることのない一生の旅。「運命」は、一高生の真理探究の運命(さだめ)だけでなく、「久遠の旅に行けよてふ」の一生旅する運命。
 「久遠の旅にいでし子が しばし憩ひし橄欖の」(大正9年「一夜の雨を」3番)
 芭蕉『奥の細道』 「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」

「荒野にむせぶ人の群れ」
 「荒野」は、真理探究のフィールド(フィクション)。上の解釈では「風荒ぶ」と補った。「人の群れ」は、一高生の群れ。」

 「第一節で舞台をほのかに寮に置きつつ、第二節に於て寮を超えて人間一般の悲しい宿命をうたった」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
草笛あはれ流れ來て  流離に迷ふ子羊よ 秋深けれどさみどりの 柏の森の道知るべ 歩め遂には着きなんと  (かな)しく永遠(とは)に指しぬるを 3番歌詞 どちらに向っていいか分からず迷っている一高生を哀れに思って、笛の音が聞こえてきて、一高生に「秋深く紅葉し落葉した向ヶ丘の森の中で、瑞々しい綠色の柏葉の木を捜して進め、いつかは真理に辿りつく」と、綠の柏を道しるべとするようにと、いつまでも悲しそうに指し示しているが、真理には辿りつくことはない。

「草笛あはれ流れ來て 流離に迷ふ子羊よ」
 「草笛」は、一高生に真理探究を促し、真理に辿る道を示唆する笛。「流離」は流浪。真理を求めてさ迷うこと。「子羊」は、さ迷える一高生。
 「生命を愛づる子羊の ちひさき涙人知るや」(大正2年「ありともわかぬ」2番)
 「まこと生命の詩人と 運命を荷ふ子羊よ 牧場を亘る角笛の」(大正4年「無言に憩ふ」4番)
 「単に一高生を『旅人』に、向陵三年間を『旅路』に喩えるだけでなく、人間の生涯、人間の運命そのものを『流離に迷う子羊』に喩えていると見るべきであろう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「第三節では、それ(人間一般の悲しい宿命)を乗り超えるものを人間の意志の力としつつ、舞台を再び『柏の森』即ち向陵に移し、その伝統を踏んで出発すれば、道自ら通ずることをうたい、第四節でその出発を祝っている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

「秋深けれどさみどりの 柏の森の道しるべ」
 「秋深けれどさみどりの」は、柏はブナ科コナラ属(東大駒場・本館裏のカシワの木の説明)の落葉高木であるが、柏の葉は秋に枯れた葉が春に新芽がつくまで落葉しないことから、寮歌では常緑樹の如く詠うことが多い。「さみどり」は、若草や若葉の綠色をいう。瑞々しい綠色したの意。「柏の森」は、向ヶ丘。「道しるべ」は、紅葉し落葉したの森の中では、緑の木の柏が目立つので、道しるべになる。

「愛しく永遠に指しぬるを」
 果てることのない旅であるから、道しるべも終わりなく、いつまでも道を指し示すことになる。「ぬる」は、完了存続の助動詞「ぬ」の連体形。「を」は接続助詞。活用後の連体形を承ける。順接にも逆接にも使われるが、ここでは逆接に訳した。従って、「指しぬるを」は、指し示しているけれどもの意。
朝霧今やあとなくて ()は麗らかに輝きぬ 眉まだ若き旅人の  落葉を踏みて出發ち行けば 橄欖の野にこだまして 鐘はるけくも響くかな 4番歌詞 朝霧の跡は今や全くなく、太陽は、空に晴れやかに輝いている。紅顔の若い一高生がカソコソと足音を響かせながら柏の森の落葉を踏んで真理の旅に出発すると、遙か遠くで真理の鐘が鳴って、橄欖の野にこだまする。

朝霧今やあとなくて」
 「紫烟る」(1番)霧は、夜明けとともに「音なく溶け」(1番)ていったので、今や朝霧のあとはない。

「眉まだ若き旅人の」
 「眉まだ若き」は、紅顔の若々しい。年をとれば眉は疎らとなり、白毛が混じる。「旅人」は、真理のの旅を行く一高生。

「落葉を踏みて出發ち行けば 橄欖の野にこだまして 鐘はるけくも響くかな」
 「落葉を踏みて」は、一高生が高下駄の音を立てながら落葉を踏んで。聖地(真理の座す場所)に導く鈴の音に、落葉を踏む足音を喩えたか。「橄欖の野」は、向ヶ丘。「橄欖」は一高の文の象徴。「こだま」は、遙か遠くに鳴る鐘の音のこだま。「鐘」は、真理の場所を告げる鐘。落葉を踏む足音、すなわち巡礼の鈴の音に応えて、鐘は、聖地(真理)へと導くが、遙か遠くで、鐘の音は微かである。向ヶ丘で文武両道に励みながら、真理を探究し、人間修養に励む道は果てしなく淋しいものであるが、一高生は、その淋しさに耐え力強く今日も真理探究の旅を続けるの意。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 (作曲者のこと)は当時を回顧し『何よりも独創的ということを志し、わざと放歌高吟に適しないような曲をつくったのは若気の至り』といわれる。 「一高寮歌私観」から


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