旧制第一高等学校寮歌解説

ああ新緑の向陵に

大正4年第25回紀念祭 廿五年祭の歌

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1、ああ新綠の向陵に    清新の氣の溢れつゝ
  自治の灯赤う照り栄えて 葉末の露にきらめけば
  梢の星の嘆ずらく     「過ぎたるものは美しや」
*「ああ」は、昭和50年寮歌集で「あゝ」に変更。
*「きらめけば」の「ら」は初出の大正14年寮歌集では脱字。


3、ましてわれらが先人の  愛寮の血の物語
  義憤の涙いまもなほ   讀まば懦夫さへ立たすべき
  覇者の歴史の五々の巻 光榮しるき四綱領

4、浮世をへだつひと筋の  枳穀(きこく)の垣はうすけれど
  道義の(ちかひ)かたければ 俗塵遠き六寮に
  汚れを知らず生ひ立ちし 一千の子が意氣を見よ
大正7年寮歌集、同10年寮歌集にもこの歌の掲載はない。関東大震災後の復刊寮歌集(大正13年11月1日発行、その増刷版の大正14年寮歌集を所持)で、「廿五年祭の歌」として初めて掲載された。昭和10年寮歌集で「第二十五回紀念祭寮歌」、昭和50年寮歌集で「二十五年祭の歌」と表示が変更されたが、譜・歌詞に全く変更はない。


語句の説明・解釈

 寮歌は大正7年までは各寮単位で、大正8年以降は全寮単位で募集されたが、それとは別に記念すべき年には特別に紀念祭歌が作られた。開寮30周年を記念して作られた30年祭紀念歌「のどかに春の」は、特に有名である。また、音楽隊ないし楽友会が募集寮歌とは別に紀念祭歌を作って発表していたようである。今は、明治36年第13回寮歌として寮歌集に載っている「春の日背を」は、明治37年初版寮歌集では、音楽隊作紀念祭歌である。この「あゝ新緑の向陵に」も、開寮25周年に際し、特別に募集ないし依頼し作られたものと推測される。ただし、「のどかに春の」と違って、関東大震災復刊以前の大正時代の寮歌集(私藏の7年および10年)には掲載されていない。

語句 箇所 説明・解釈
ああ新綠の向陵に 清新の氣の(あふ)れつゝ 自治の灯赤う照り()えて 葉末の露にきらめけば 梢の星の嘆ずらく  「過ぎたるものは美しや」 1番歌詞 新緑の向ヶ丘には、清新の気が溢れている。自治の礎は固く、自治燈の灯は赤く燃え、柏葉に結ぶ露毎にきらめいている。その露の光を見て、梢にこぼれる星の感嘆する事には、「一高寄宿寮25年の歴史のなんと素晴らしいことか」と。

「ああ新緑の向陵に」
 「ああ」は、昭和50年寮歌集で「あゝ」に変更された。

「自治の火赤う照り榮えて」
 一高寄宿寮の自治の礎は固く、盛んなさまをいう。

「葉末の露にきらめけば」
 「葉末」は、葉の先。訳では一高の武の象徴である柏葉の葉先とした。
 西行 「あさぢ原葉ずゑのつゆの玉ごとに 光つらぬく秋の夜の月」

「梢の星の嘆ずらく」
 「梢の星」は、梢からもれる星。「嘆ずらく」は、感嘆することは。「らく」は接尾語で、「ク語法」。奈良時代に活発に行なわれていた造語法で、現在でも、「いわく」、「恐らく」、「惜しむらく」などという。
 「黙示聞けとて星屑は 梢こぼれて瞬きぬ」(明治36年「綠もぞ濃き」1番)

「 過ぎたるものは美しや」
 「過ぎたるもの」は、一高寄宿寮25年の歴史である。
 「シェイクスピアの語か」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「シェークスピアの戯曲『ヘンリー四世第二部』の第1幕第3場に『過去と未来は美し見え、現在はもっとも醜いと思うのだ』(小田島雄志訳)とある。解説はこれを指すか。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
若き愁ひのむすぼれて 解けて亂れて花と散り 凝りてくだけて火と燃ゆる 三年(みとせ)の夢のしじなれば 今かへり見る越し方の 五彩まばゆき思ひかな 2番歌詞 向ヶ丘では、繊細で多感な若者が、若きがゆえに苦しみ悶えながら、魂と魂をぶっつけ合った付き合いの中で、共喜共憂の真の友を見つけて友情の花を咲かせ、また人生意気に感じては、火と燃える情熱を傾けて、文武の道に青春絵巻を繰り広げてきた。向ヶ丘三年間は、夢のように楽しく、実り多いものであるので、今、過ぎ去った日々を振返って見ても、その思い出は、色鮮やかな五彩の陶磁器のように麗しく輝いている。

「若き愁ひのむすぼれて 解けて亂れて花と散り 凝りてくだけて火と燃ゆる」
 3年間の寄宿寮生活で繊細多感な青年が、若きが故に悩み苦しみながら共喜共憂する真の友を見つけて友情の花を咲かせ、また自治の運営で侃々諤々の議論を戦わせつつ、対外試合ではひたすら勝利のみを求めて寮生一丸となって血の滲むような猛練習に励み試合に臨んだ。このように向ヶ丘で繰り広げられた青春絵巻を説明したものであろう。
 「あわき憂の身にしみて 旅の疲れに辿りゆく」(明治44年「光まばゆき」1番)
 「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ 人生意氣に感じては たぎる血汐の火と燃えて」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)
 「友よ矛とれ戰はむ 覇権を譲る事なかれ われ等一千こゝにあり 覇権を讓る事なかれ」(明治43年「柏の旗の」4番)

「三年の夢のしゞなれば」
 向ヶ丘の三年間は夢のように楽しく充実した三年間であるので。「しじ」は物の、目がつんでいて、隙間のないさま。ぎっしりつまって密生しているさま。

「五彩まばゆき思ひかな」
 「五彩」は、陶磁器に赤・青・黄・紫・緑などの透明性の上絵釉で絵や文様を現したもの。わが国では錦手という。
 「嗚呼紅の陵の上 其の香其の色永劫に」(大正3年「黎明の靄」2番)」
ましてわれらが先人の 愛寮の血の物語 義憤の涙いまもなほ 讀まば懦夫さへ立たすべき 覇者の歴史の五々の巻 光榮しるき四綱領 3番歌詞 「大津の浦にものゝふが  夢破りけん語草」と寮歌に歌われた明治30年の南北寮分割事件にみる如く、先輩たちが、この自治寮を守るために、どれほど努力してきたか、後輩たる我々は、胆に銘ずるべきである。気の弱い臆病者をさえ、こんなことがあっていいものかと憤慨させるほどの、涙なくしては、今も語れない愛寮の物語である。これら栄光の寄宿寮25年の歴史を綴った「向陵誌」が大正2年6月に刊行された。自治の(しるべ)の四綱領が向陵史上に燦然と光り輝いている。

「愛寮の血の物語」
 自治寮を守るために先輩たちが努力してきた物語。特に、明治30年7月の南北寮分割事件をいう。高等師範の臨時教員養成所新設のため、老朽化した校外借用の南・北寮を解約し、東・西寮に寮生を集約収容させる学校の計画を着工寸前に知った寮生たちが、自治維持の根幹にかかわる問題として、これに強く反対、阻止に奔走した。当時の久原校長も寮生の赤誠にうたれ、計画を白紙にもどした。この南北寮事件は、やがて新しい南北寮と中寮の建設となり、「嗚呼玉杯に」にも出てくる東・西・南・北・中の五寮が完成して皆寄宿制が実現した。

 「隅田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲 大津の浦にものゝふが  夢破りけん語草 かへりみすれば幾年の 歴史は榮を語るかな」(明治36年「彌生が岡に地を占めて」2番)

「義憤の涙いまもなほ」
 「義憤」は、正義・人道の行われないことを憤ること。

「讀まば懦夫さへ立たすべき 」
 「懦夫」は、気の弱い男。いくじなし。臆病者。

「覇者の歴史の五々の巻」
 大正2年6月16日、栄光の向ヶ丘の歴史を綴った「向陵誌」の初版が刊行された。「五々」は25年のこと。大正2年は、明治22年3月22日に一ツ橋から本郷に校舎を移してから、25年目に当る。作詞の阿部龍夫は、同じ年の第25回紀念祭寮歌「見よ鞦韆」にでも、「あゝ青春の五々の春」(6番)と「五々」を使っているが、この方は開寮25周年の意味である。

「光榮しるき四綱領」
 「四綱領」とは、寮開設にともない木下校長が寮生活において守るべき精神として示した四つの項目のことで、次のとおり。
          第一  自重の念を起して廉恥の心を養成する事
          第二  親愛の情を起して公共の心を養成する事
          第三  辞譲の心を起して静粛の習慣を養成する事
          第四  摂生に注意して清潔の習慣を養成する事
 「しるき」は著しい。
浮世をへだつひと筋の枳穀(きこく)の垣はうすけれど 道義の(ちかひ)かたければ 俗塵遠き六寮に 汚れを知らず生ひ立ちし  一千の子が意氣を見よ 4番歌詞 俗塵が向ヶ丘に侵入しないように、俗界と隔てるために周囲に廻らした枳殻の防止垣は、幅が狭く疎らで完全なものではないが、一高生は四綱領に則り自治を守ると固く誓っているので、俗塵は向ヶ丘に近づけない。俗塵に侵されることなく向ヶ丘に籠城して清く正しく修養している一高健児一千の高い意気を見よ。

「浮世をへだつひと筋の 枳殻の垣はうすけれど」
 一高生は、俗塵を断つため、全員三年間、向ヶ丘の自治寮に入寮し籠城した。「枳殻」は、カラタチの漢名。棘があることから外敵防止の生け垣に用いられた。
 芭蕉 「うき人を 枳殻垣より くぐらせむ」  
 「明治23年5月27日に起こった『インプリー事件』を含意していると考えられる。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 明治23年5月17日 「インプリー事件」起きる。校庭での対明治学院野球戦応援に同学院教授インプリーが垣根をまたいで駆けつけたことで揉め、投石負傷させた。
 「一高寮生の一部にはこの事件を、神聖な城の垣根を越えて闖入した洋漢を膺懲した英雄的エピソードとして伝え、やがて定着してゆく正門主義の発露として語りつぐ者もいたようであるが、そうした説明は当を得たものとは言えまい。」(「一高自治寮60年史」)    

「道義の盟かたければ」
 「道義の盟」は、四綱領に則り自治を堅持していくという誓。

「俗塵遠き六寮に」
 東・西・南・北・中・朶の六棟の寄宿寮に健兒一千名が籠城し、俗塵を絶った。
いま諒闇の雲散りて 大正維新第四年 過ぎ來し方の追憶の 清きに添へて行く末も 自治の柏木いや繁く 繁れと祈るこころかな 5番歌詞 大正4年4月、昭憲皇太后の諒闇が明けて、名実ともに大正の世となった。これからの寄宿寮が、、過去25年の歴史がそうであったように俗塵に侵されることなく清いものであるとともに、自治の礎が強固となり、かつ自治がますます盛んになるようにと祈るものである。

「いま諒闇の雲散りて 大正維新第四年」
 「いま諒闇の雲散りて」は、昭憲皇太后の諒闇明けのこと。 諒闇は、「まことに暗し」の意で、天子が父母の喪に服する期間。その期間は1年と定められ、国民も服喪した。昭憲皇太后は明治天皇の崩御に続き、跡を追うように大正3年4月9日に崩御され、伏見桃山東陵に葬られた。この年の3月1日の紀念祭は、皇太后の諒闇中のため、嚶鳴堂で儀式のみが行われた。紀念祭の行事は、諒闇明けを待って、4月20日に行われた。
 「大正維新第四年」は、大正4年。「維新」は、政権の交替に伴い、政治上の諸制度がすべて改革されること。諒闇が明けて、名実ともに大正時代が始まるの意である。一高寮歌で年を表示するのは極めて珍しい。
 「大正3年彌生のはじめ」(大正3年「柏の濃綠」3番)

「清きに添へて」
 「清き」は、寄宿寮が俗塵に侵されることがないことをいう。

「自治の柏木いや繁く 繁れと祈るこころかな」
 「柏木」は、一高の武の象徴であある柏葉の柏の木。皇居守衛の任に当たる兵衛及び衛門の異称である。ここでは一高自治を象徴。「繁れ」とは、自治のますますの彌栄をいう。
                        


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