旧制第一高等学校寮歌解説

彌生ヶ丘に洩れ出づる

大正10年第31回紀念祭寮歌 

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彌生ヶ丘に  洩れ出づる 祝の聲は 若人の
(トモシビ)
かゝげ  (ウタ)ふらむ 三十一の 紀念祭

             晨
黎明(シノノメ)近き   丘の上  (アシタ)の星の (キラ)めけば
心の小琴   高張りて 人知れずこそ 響きけれ

             夕
双手(モロテ)擧げつゝ 高樓(タカドノ)に  落ちゆく夕日 見送れば
友の瞳の   輝きぬ  夕の星の  瞬きぬ
*「双手」は昭和50年寮歌集で「雙手」に変更

             歎
歎けど時の  老いゆくを (トヾ)め止めん すべもがな
(シタ)へど友の  去りゆくを 何日(イツカ)相見ん よしもがな

             宴
灯影搖らゝぐ  自治燈に せめて三年の 逝く春を
語る涙に     思出の 盡くとしもなき 宴かな
  
 大正7年に作曲者を部屋・寮生という形で一部楽譜の隅っこに表示したことがあったが、大正10年の入選三作は、作詞者・作曲者が記載された。文二,二、の表示は、寮部屋でなく、クラスである。「弘田龍太郎氏」と氏をつけたのは、樂友會顧問の氏に敬意を表したのであろう。また、「一」はこの年の寮歌第1作の意である。
 
 昭和10年寮歌集、平成16年寮歌集で、次のように変更された。下線はスラー。
1、調・拍子
  変更なし。
2、音
1)「ともしび」(3段1小節)   ミーファソーーラに変更(平成16年)。
2)「うたふら」(3段3小節)   レーレミーーソに変更(平成16年)。
3)「いちの」(4段2小節)   ドードドーレーに変更(昭和10年)、さらにドードドーーレ(平成16年)

 「三十一のー」と単純に伸ばしていたが、これを「三十一のーオ」と少し上げて、次の「紀念祭」の高音部に続けた。寮生の歌い継ぎの知恵である。同じ弘田龍太郎作曲の前例としては、大正4年京大寄贈歌「散りし櫻を」の「しのびてはーア」があった。他高でも四高「南下軍」の歌唱指導で、かって河合良成が、雄鶏の鳴声のように「啻に血を盛る 甕ならばーア」と髙い声が出るように指導したという。髙い所に昇るのに階段があった方が昇りやすいのと同じである。


語句の説明・解釈

 大正10年から学年開始が4月、大学入試が3月と学制改革があったために、3月1日の紀念祭の開催が不可能となった。そのため、大正10年は、1月30日に紀念祭が行なわれた。ちなみに大正11年は1月29日(日)、大正12年からは曜日に関係なく、2月1日となった。

 大正10年寮歌集の歌詞は七・五調にあわせ、小刻みに表示されている。作曲は、全てこの七語・五語毎にきっちりと2小節(モチーフ)に収めている。楽友会会員として、自らも楽曲に詳しい渡邊 諒は、日頃から指導を受けている楽友会顧問弘田龍太郎に作曲を依頼するにあたって、2大楽節からなる二部形式16小節にピッタリあうように、かつ七語・五語の各句がモチーフとして作曲し易いように、相当に語句を推敲して作詞したものと推察する。文法的な間違いを何箇所か指摘する向きもあるが、寮歌としては最高の言葉使いである。(文法的に正しいということと、琴線に響き感動をよぶ歌詞とは必ずしも一致しない)。同窓生が年老いた今、この寮歌は、通夜の席で友を送る葬送の歌として歌われることが多い。

語句 箇所 説明・解釈
彌生ヶ丘に 洩れ出づる 祝の聲は 若人の(トモシビ)かゝげ (ウタ)ふらむ 三十一の 紀念祭   序
1番歌詞
彌生が丘からもれてくる祝いの声は、若い一高生が灯をかかげ、第31回紀念祭を祝い、寮歌を歌っている声であろう。

「彌生ヶ丘に洩れ出づる」
 向ヶ丘から漏れてくる。本郷一高は、本郷区向ヶ岡彌生町にあった。一高のことを(場所も含め)、彌が岡とも向ヶ丘ともいう。
黎明(シノノメ)近き 丘の上 (アシタ)の星の (キラ)めけば 心の小琴 高張りて 人知れずこそ 響きけれ   晨
2番歌詞
明け方近い向ヶ丘の上、明の明星が東の空にきらめくと、明けの明星の黙示を感じ、人知れず胸が高鳴るのである。

「黎明近き丘の上 晨の星の燦けば」
 「黎明」は、明け方。「晨の星」は、明の明星。明け方東の空に見える明星。寮歌では、黙示を与える星とされることが多い。
 「遙かに見ゆる明星の 光に行手を定むなり」(明治34年「春爛漫の」5番)

「心の小琴高張りて 人知れずこそ響きけれ」
 「心の小琴」は感動し共鳴する微妙な心情を琴に喩える。心琴。「響きけれ」は明の明星の黙示を感じ胸が高鳴ることをいうか。
 「『さめよ』と鳴れば我胸の 緒琴は奇しう響けるを」(大正4年「無言に憩ふ」4番)
 「胸の小琴をひきしめて」(明治45年「荒潮の」2番)
双手(モロテ)擧げつゝ 高樓(タカドノ)に 落ちゆく夕日 見送れば 友の瞳の 輝きぬ 夕の星の 瞬きぬ   夕
3番歌詞
両手を挙げて、時計台に落ちて行く夕日を見送ると、友の瞳が光っている。夕日が落ちた西の空には宵の明星が、早や瞬いている。

「双手擧げつゝ高樓に」
 「双手」は、昭和50年寮歌集で「雙手」に変更された。人を見送る時に片手でも見送るが、万歳する時は両手を挙げるように、感極まった時は、人間、両手を挙げる。 
 「高樓」は、寄宿寮から見て日没方向ということになれば、高樓は時計台か。寄宿寮は、一高敷地の北側一帯、本館時計台は南西に位置していた。正門(位置は現東大農学部正門にほぼ同じ)を入ってすぐが本館時計台、左に分館を越えて、北側一帯に八寮が建っていた。)

「友の瞳の輝きぬ 夕の星の瞬きぬ」
 「夕の星」は宵の明星。「友の瞳の輝きぬ」は、宵の明星の黙示を感じ輝いたのだろう。また、友との熱い友情が感じられる。「ぬ」は、完了存続の助動詞。真っ赤な夕日を見て感動したのだろうか、あるいは宵の明星の黙示を感じているのだろうか。
歎けど時の 老いゆくを (トヾ)め止めん すべもがな 慕(シタ)へど友の 去りゆくを 何日(イツカ)相見ん よしもがな   歎
4番歌詞
歎いても時は過ぎていく。なんとか時を止める方法手段がないものであろうか。もっと友と一緒に居たいと思うのに友は去っていく。いつか再会する機会がないものであろうか。

「歎けど時の老いゆくを 止め止めんすべもがな」
 歎いても時は過ぎていく。なんとか時を止める方法手段がないものであろうか。「もがも」は願望の終助詞。高校の修業年限は三年である。三年の春は、あっという間に過ぎてしまうと嘆いている。

「慕へど友の去りゆくを 何日相見んよしもがな」
 もっと友と一緒に居たいと思うのに友は去っていく、いつか再会する機会がないものであろうか。「よし」は手段、方法、縁。
 向ヶ丘の三年が終われば、せっかく友の契りを交わした寮友とも寄宿寮とも別れなければならない。
 「三年の春は過ぎ易し 花くれなゐの顔も いま別れてはいつか見む この世の旅は長けれど 橄欖の花散る下に 再び語ることやある。」(明治44年「光まばゆき」4番)
 「三年の春のうつろひに 悲しきさだめありとても あゝ感激に生くる子の 友情の花しぼまんや」(大正9年「のどかに春の」3番)
灯影搖らゝぐ 自治燈に せめて三年の 逝く春を 語る涙に 思出の 盡くとしもなき 宴かな   宴
5番歌詞
行く春の日を、灯影が揺れる自治燈の下で、せめて向ヶ丘の三年間の思い出だけでも友と語りあおうと思うが、涙が溢れて、思い出の尽きることなどない紀念祭の宴である。

「せめて三年の行く春を」
 行く春を、せめて向ヶ丘の三年間の(思い出だけでも)。「三年」は高校生活、すなわち向ヶ丘の三年間

「語る涙に思出の 盡くとしもなき宴かな」
 (向ヶ丘三年間の)思い出を涙ながらに語っても、尽きることのない紀念祭の宴である。「盡くとしもなき」は、「盡く」+格助詞「と」+強意の副助詞「しも」+「無き」と解し、尽きることなどない。
   
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩  各節毎に『晨』 『夕』 『宴』等の『題』をつけることもこの寮歌に始まった。それよりも、この作詞のつよみは、作詞者が語句の選択、音韻、声調に、鋭い感覚を働かせている点であろう。詩としては、一見思想性にやや乏しいようだが、一たび之をうたったとき、その旋律と抑揚とにより、表面の意味以上に深い意味を生じ、思想性の振幅をひろげる。即ち第二節『心の小琴高張りて 人知れずこそ響きけれ』 第三節の『友の瞳の輝きぬ 夕べの星の瞬きぬ』も、之をうたうとき、詩(ことば)として読む時に幾倍するふかい意味内容を放射してくる。第四節など(『歎』の章)清明高朗な曲なのに、無限の哀韻を曳き、昭和後期の同窓諸賢などは、同期生の告別式にこの歌のこの節だけを斉唱するということをきき、寮歌もさまざまな使い方があるものと思った。 「一高寮歌私観」から
園部達郎先輩 『解説』(一高同窓会)は『寮生』の心情の吐露として、これほど簡潔、適切にして情感に溢れた表現は他になし」と激賞している。寮生活をしていないと真情は分からぬぞと言っているようで、井上司郎さんも、もと思想性の欠如ありとして余り誉められなかった。「そんなことはないでしょう。」私共の気持ちはそうだった。紀念祭。明け方と夕べ、去り行く友、三年の思い出、我々の心に永く止めるものを持っている。山住克己さんの処で南方の寮友集って歌っている時、山住さんがふと「寮歌とは多彩なもんだ。お葬式の歌まであるそうだね。」 我々は爆笑したが、考えてみると、山住さんは大正8年卆、大正10年のこの歌はご存じなかったので、我々はこの先輩に寮歌の特訓をした思い出がある。 「寮歌こぼればなし」から


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