旧制第一高等学校寮歌解説

一夜の雨を

大正9年第30回紀念祭寮歌 

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1、一夜(ひとよ)の雨をさきだてて この世の春はめぐりきぬ
  靑綠路(せいりょくみち)(はさ)みては   花陰(くわいん)に鳥のこゑすなり
  萬顆(ばんくわ)の星のきらめけば 牕紗(そうしゃ)(よる)()は赤し
  友よ酒くみことほがん  三十年の起伏(おきふし)
*「だてて」は、昭和50年寮歌集で「だてゝ」に変更。

3、久遠(くおん)(たび)にいでし子が しばし(いこ)ひし橄欖の
  丘にたヾずみこの(ゆふ)べ 輪廻(りんね)の月を仰ぎては
  空ゆく雲のあとたちて  ふるき歴史の星のあと
  思へば遠くきつるかな  忍べ故山の自治の歌
この原譜は、現譜とまったく同じで変更はない。ただし、第2段1小節4音のドは1オクターブ高く訂正した。

 伝統的寮歌のリズムであるタータタータ(付点8分音符と16分音符の繰り返し)の中に、各段(小楽節)3小節のみタータータのリズムを配する。作曲矢野一郎の処女寮歌「紫霧ふ」(大正7年北寮)と同じ構成である。同じ高さの音を上手く使って、主メロディー ドードドーミ ソーラソーミをよく活かすとともに、5・6段「ばんかのほしのきらめきて そうしゃによるのひはあかし」とクライマックスで盛り上げ、8段「さんじゅうねんのおきふしを」と高音から徐々に低音に落ち着かせ、余韻を持って締めている。処女作「紫霧ふ」にあった単純繰り返しによる倦怠感を見事に雪辱した秀作である。


 語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
一夜(ひとよ)の雨をさきだてて この世の春はめぐりきぬ 靑綠路(せいりょくみち)(はさ)みては 花陰(くわいん)に鳥のこゑすなり 萬顆(ばんくわ)の星のきらめけば 牕紗(そうしゃ)(よる)()は赤し 友よ酒くみことほがん 三十年の起伏(おきふし) 1番歌詞 一夜、雨が降った後に、この世に春がめぐってきた。すなわち、欧州では悲惨な戦いが終わり、世界に平和が訪れた。道の向うでは草木は青々と茂り、桜の花の蔭に鳥の声がする。夜空に満天の星が輝き出すと、寄宿寮をつつむ夜霧を赤く染めて寮窓に灯がともる。友よ、酒を酌み交して一高寄宿寮30年の歴史を言祝ごう。

「一夜の雨をさきだてて この世の春はめぐるきぬ」
 一夜、雨が降った後に、この世の春がめぐってきた。雨降って地固まる。「さきだてて」は、昭和50年寮歌集で「さきだてゝ」に変更された。
 第一次世界大戦が終わって、大正8年1月18日からパリで講和会議が始まったことを踏まえる。ちなみに、ヴェルサイユ条約が調印されたのは、同年6月28日のことである。

「青綠路を挟みては」
 道の向うには草木が青々と茂り。

「萬顆の星のきらめけば」
 夜空に満天の星が輝いて。「萬顆」とは、多くの粒のこと。

「牕紗に夜の灯は赤し」
 夜の帷が降り、寮の窓には赤い灯がともった。「牕紗」は、まどかけに用いる薄絹。「牕」は「窓」と同字。「紗」はうすぎぬ。今風にいえばカーテン。本郷・一高の寮にはカーテンはなかった(先輩の話)。先輩の間でよく話題に上る現実のカーテンではなく、夜の帷と解す。夜の帳が下りて、寮窓に赤い灯がともっている。具体的に「帷」を夜霧として、寄宿寮をつつむ夜霧を赤く染めて寮窓に灯がともると解すれば、ロマンティックな情景となる。夜の帳が下りて、寮窓に赤い灯がともっている。
 「窓の薄ぎぬの幕を通して、夜の灯が赤く見える。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「友よ酒くみことほがん 三十年の起伏を」
 「ことほぐ」は、祝いの言葉を述べて、長命や安泰を祈ること。「三十年の起伏」は、寄宿寮30年の歴史。4番歌詞の「三十年の船路」、5番歌詞の「來し路」と同じ。
南枝(なんし)蕾を破りては 春信來る梅花より  かくてこの世の萬象(ものみな)は 強き生命に甦る かゝるあしたを綠こく かゝる夕べを綠こく ををしく立ちし向陵に 見ずやとこ世の橄欖樹 2番歌詞 南枝の梅の蕾が開いたという(はな)便りで、春が来たのだと知る。春になると、この世の萬象(ものみな)は、新しい強い命に甦る。向ヶ丘の一高本館前に雄々しく立つ橄欖樹を見ないか。春毎に新しい命を得て、朝に緑濃く、夕にも綠濃く、濃い綠色は一年中、常に衰えることはない。

「南枝蕾を破りては 春信來る梅花より」
 南に差し出た梅の枝の蕾が開花したことで、春の来たのを知る。「南枝春信」は南画・文人画等で梅を描いた絵の画題。
 「寒梅一枝春早み」(明治45年「あゝ平安の」3番)

「強き生命に甦る」
 「蘇る」は、「黄泉かへる」で、死んだ人、死にかけた人が命をとりもどすのが原義。

「ををしく立ちし向陵に 見ずやとこ世の橄欖樹」
 本郷一高の本館前には、常緑の大きな橄欖の木(すだ椎(スダジー))が植栽されていた。「橄欖」は、一高の文の象徴である。今も東大農学部正門の入ってすぐのところに聳え立つ。「ををしく」は、昭和50年寮歌集で「をゝしく」に変更された。
久遠(くおん)(たび)にいでし子が しばし(いこ)ひし橄欖の 丘にたヾずみこの(ゆふ)べ 輪廻(りんね)の月を仰ぎては 空ゆく雲のあとたちて ふるき歴史の星のあと 思へば遠くきつるかな 忍べ故山の自治の歌 3番歌詞 果てしない人生の旅に出かけた若者が、旅の途中に少しの間、向ヶ丘に立ち寄った。丘に佇んで満ち欠けを繰り返す月を眺めて、世の無常をつくづくと思った。かって星のように輝いた伝統ある旧寮も、いつまでも同じ姿でいられなかった。古い星の輝いた跡には、雲が立って昔の面影はない。思えば遠くまで旅してきたものだ。寮歌を歌って故郷を偲ぼう。すなわち、寄宿寮の歴史も早や30年となった。自治の歴史を語らいながら、今宵は紀念祭を祝おう。

「久遠の旅にいでし子が しばし憩ひし橄欖の 丘にたゝずみこの夕」
 一高生。人生を旅と見て、若き3年間を向ヶ丘の一高寄宿寮で過ごす。3年を終えた後は、また別の旅に出て行く。人生の旅に終わりはない。「久遠の旅」は、果てしない人生の旅。「橄欖」は、一高の文の象徴で、「橄欖の丘」は向ヶ丘。

「輪廻の月を仰ぎては」
 満ち欠けを繰り返しては、いつも同じ姿にない夜空の月を仰いでは。「輪廻」とは、仏教用語で、車輪が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。同じことを繰り返すことだが、ここでは、無常をいう。

「空ゆく雲のあとたちて ふるき歴史の星のあと」
 かって星のように輝いた伝統ある旧寮も、いつまでも同じ姿でいられなかった。古い星の輝いた跡には、雲が立って昔の面影はない。「ふるき歴史の星」は、建て替えになった舊寮(東・西寮)をいう。「あとたちて」は、「跡絶ちて」であれば、雲が星を隠すの意。「跡立ちて」であれば、雲が立つの意となる。栄光盛衰は自然の理で、雲のせいではないから、後者と解す。

「思へば遠くきつるかな  忍べ故山の自治の歌」
 思えば遠くまで旅してきたものだ。故郷の寮歌を歌って越し方を偲ぼう。すなわち、寄宿寮の歴史も早や30年となった。自治の歴史を語らいながら、今宵は紀念祭を祝おう。「遠くきつる」は、時間的、年月的に遠く来たの意で、開寮以来、30年が経ったこと。「故山の自治の歌」は、故郷向ヶ丘の寮歌のことだが、ここでは、30年の自治の歴史の意であろう。
呉越の(くが)の遠ければ 路に迷ふか海鳥(うみどり)の はばたき急ぐ両翼(もろつばさ)  見よ九天は雲を巻き  暗濤狂ふ北海を 舵燈かゝげ我が船は 三十年の船路をば 進み行くなり永久(とことは) 4番歌詞 中国大陸は日本から遠く離れているので、行先に迷ってしまったのか、海鳥は、両翼をあわててバタバタと羽ばたいている。見よ、中国全土の空に暗雲がたちこめ、北の海・渤海には怒濤が逆巻いている。すなわち、日本政府は、無理に山東省のドイツ権益の継承を図ったので、中国全土に反日愛国の五・四運動が広まり、対策に慌てている。しかし、海鳥が行先に迷うとも、我が乗る船は、舳先に自治の灯をかかげているので、迷うことなく30年歩んできた自治の船路を永久に進んいく。

「呉越の陸の遠ければ」
 中国大陸は日本から遠く離れた国であるので。「呉越」は、現在の江蘇省と浙江省の辺り、春秋時代互いに覇を競い合った国である。「呉越同舟」の言葉を今に残す。「呉越」は、清朝没落後も、中国では各地に軍閥が跋扈し、内乱状態にあることを喩えた。

「路に迷ふか海鳥の はばたき急ぐ両翼」
 暗に日本政府の対中国政策を批判しているかのようである。「海鳥」は日本政府、ないしその大陸政策を喩える。第一次大戦で、実戦に投入された飛行機をイメージするものであろう。

「見よ九天は雲を巻き 暗濤狂ふ北海を」
 見よ、中国全土の空に暗雲がたちこめ、北の海・渤海には怒濤が逆巻く。具体的には、中国の全土に広がった反日愛国運動の五・四運動をいう。「九天」は中国で天を九方位に分かった称。「北海」とは、北方の海。渤海の一名。
 「五・四運動」
 第一次世界大戦で日本軍は膠州湾を攻略、その後も対華21ヶ条要求などで中国を強要してドイツの山東権益を継承拡大していった。大正8年4月30日、パリの講和会議で、山東省のドイツ権益に関する日本の要求が承認された。これに対し、5月4日、北京の学生が山東奪還などを求めデモした。この反日デモは中国全土に広がった。日本でも、大正8年5月7日、中国人留学生2000人が東京で国恥記念デモを行った。ちなみに、日本の山東権益は、中国に対するアメリカの後押しもあり、大正11年のワシントン会議の結果、中国に返還された。
 
「舵燈かゝげ我が船は 三十年の船路をば 進み行くなり永久に」
 日本政府は大陸政策で路を迷うとも、我々は、30年の歴史ある自治の灯を舳先にかかげて進むので、永久に迷うことはない。
 「舵燈」は、昭和10年寮歌集で「舳燈」と改訂された。舵燈であれば船尾の燈であるが、「舳燈」となると、「舳」は「とも」と読んで船尾、「へさき」と読んで船首である。舵から舳と字を変えたのは、「我が船は船首に自治の燈をかかげ」をはっきりさせるためであろう。
 「我のる船は常へに 理想の自治に進むなり」(明治35年「嗚呼玉杯に」4番)
 
いつか天晴れ濤は凪ぎ 高し南山(なざん)の春の月 麥針(ばくしん)遠くつらなりて 長江水の(ぬる)むとき 彼岸の國の丘の()に 建てし理想の旗の色 ()()遙けく眺むれば (ひろ)し健兒の胸の波 5番歌詞 いつの日か、中国全土を蔽っていた暗雲が晴れ、北海の波はおさまって静かになろう。その時には、昔、詩文に詠われたように、情趣深い南山の上高く春の月が照り、麦の穂波がどこまでも続くのどかな中国の田園風景はもどり、揚子江の水が温む春を楽しむことができる。はるか海の彼方、理想的な自治を実現した一高寄宿寮が向ヶ丘に聳え立つ。寄宿寮の三十年の船路を遙かに振返って、一高健児は、感動して大きく胸を振るわせるのである。

「高し南山の春の月」
 「南山」は、特定し難いが、詩人王維が隠棲し、五月人形の鐘馗が住んだことでも知られる、長安の南の方約30kmにある名山・終南山のことであろう。終南山は、後の句の「長江」とともに、「九天雲を巻き、暗濤狂ふ」北海と対比して、広く知られた山、地、川の落ち着いた情景を持ち出すことにより、中国の平和な状況を表現しようとするものであろう。
 陸游『秋波媚』 「多情は誰に似る南山の月、特地(わざわざ)に暮雲開かす」
 王維『終南山』 「馬を下りて君に酒を飲ましむ 君に問う 何にか之く所ぞ 君は言う 意を得ず 帰り臥す南山の陲 但だ去れ 復た問う莫れ 白雲は尽きる時無し」
 李白『終南山を下りて斛期山人の宿に過るに酒を置かる』 「暮れて碧山より下れば 山月人に隨いて帰る」

「麥針遠くつらなりて 長江水の温むとき」
 麦畑の穂波が遠くまでつらなって、揚子江の水が温むとき。詩趣は異なるが軍歌「麥と兵隊」の「往けど進めど麦また麦の 波の深さよ夜の寒さ」が目に浮ぶ。ただし、中国の反日運動・政治的混乱・内乱は収まっていない。

「彼岸の國の丘の上に 建てし理想の旗の色」
 4番歌詞で、「北海を舵燈かゝげ我が船は」とあるを承けて、「彼岸の國の丘の上に」は、(中国の渤海から見て)海の向こうの日本の向ヶ丘には。「建てし理想の旗の色」は、一高寄宿寮の自治の旗の色。向ヶ丘に聳え立つ自治寮。
 他に井上司朗大先輩によれば、国際連盟創立説、孫文の広東政府樹立説があるが、前後の脈絡が繋がらない。
 「前年9月、孫文による広東政府の樹立や、この年始めの国際連盟の成立なども含めて指すのだろう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」、これを一高同窓会「一高寮解説書」も、そのまま引用する。)
 1.国際連盟設立説  
 国際連盟は、ウィルソン米大統領の提唱により、大正9年1月10日に発足した。史上初の世界的な集団安全保障を中心とする平和維持・国際協力機構で、本部をジュネーブに置いた。時期的には問題ないが、五・四運動や南山・長江などの歌詞内容と関連性が乏しく、そぐわない。
 2.孫文広東政府樹立説
  孫文が広東政府を樹立したのは大正6年(第一次護法運動)のことで、井上大先輩のいうように大正8年9月のことではない(第二次護法運動で大総統に選出されたのは大正10年で紀念祭の後のこと)。紀念祭の時には、孫文は広州を追われ上海に逃れていた。反日愛国の五・四運動以降、毛沢東始め中国の青年の間に急速に共産主義運動が広がっていった。孫文にも影響を与え、孫文は中華革命党を大正8年10月中国国民党に改称し、新三民主義「連ソ・容共・労農扶助」へと運動の方針を転換していった。これを「建てし理想の旗の色」と一高寮歌でいうか、疑問。

「來し路遙けく眺むれば 濶し健兒の胸の波」
 「來し路」は、三十年の船路(4番歌詞)。開寮以来の寄宿寮30年の歴史。「濶し」は、大きい。盛んの意。「胸の波」は、感動。「濶し健兒の胸の波」は、感動に大きく胸振るわせるのである。
                        


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