旧制第一高等学校寮歌解説

一搏翺翔

大正8年第29回紀念祭寮歌 

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1、一博翺翔(かうしょう)三萬里      猛鷲されど地に落ちて
  平和の光輝けば      見よ、人の子は世を擧げて
   只享樂の影を追ひ     儚き夢に醉はんとす
*「一博」は昭和10年寮歌集で「一搏」に変更。

2、平和の光輝けど      平和は暫時(しばし)夢枕
  聞けや太平洋の音     絶えず狂ひて轟きて
  我等の夢を醒ますなり   我等の醉を醒ますなり

4、十年の臥薪空ならず    戸塚原頭勝軍
  品海の空鬨の聲      東亞覇権の杖つきて
  朔北の地に血(すゝ)りし    意氣を祖國に灑がなん
*「欹」は昭和10年寮歌集で「合欠」(一字)、昭和50年寮歌集で「歃」に訂正。
6段3小節3音は付点16分音符だったのを付点8分音符に改めた。
 大正14年寮歌集、昭和10年寮歌集で、各段(小楽節)メロディーの整合性をはかるとともに、「筑紫の富士」原譜変更と同じように最後を弱起に変更した。力強いリズムの中に、最後を余韻を残して終わる、寮生にこの寮歌が好まれる所以であろう。

1、調・拍子
  ホ長調・8分4拍子の表示を昭和10年寮歌集で、ホ長調・4分2拍子に改めた(実質変更なし)。
2、音の変更
1)「いちぱく」(1段1小節)  ソーソソーミ(大正14年)に、さらにソーソドード(昭和10年)に変更。
2)「こーしょう」(1段2小節)  レーレミー(昭和10年)に変更。
3)「もーしゅー」(2段1小節)  ドードラーソ(昭和10年)に変更。
4)「ちにおちて」(2段3・4小節)  ミーレドーラ ラーー(昭和10年)に変更。
5)「へいわの」(3段1小節)  ソーソラーソ(昭和10年)に変更。
6)「かがやけ」(3段3小節)  ミーレドーラ(昭和10年)に変更。
7)「ただけう」(5段1小節)  ドードラーソ(昭和10年)に変更。
8)「かげをお」(5段3小節)  ミーレドーラ(昭和10年)に変更。これにより、2・3・5段各3・4小節のメロディーは統一され、2段と5段のメロディーは完全一致、3段のメロディーもほぼ同じとなった。1段と4段のメロディーもほぼ同じで、聞いていて整合性がとれ、違和感が少なくなったばかりでなく、これにより6段のサビメロディーが一層際立つようになった。
9)「ゆめによはんと」(6段2・3小節) ドーレミーレ ソーレーミ(大正14年)に、さらに「よ」のレをミに改め、その前にブレス記号を置いた(昭和10年)。これは「よーんとす」と弱起にするための措置であり、明治45年「筑紫の富士」の最後「しのぶかな」を大正14年寮歌集で弱起に変更した手法と同じである。大正2年「春繚爛の」では原譜から、きらめく星の「消ーるまで」でと弱起に作曲されていたが、大正3年「黎明の靄」では、同じように大正14年寮歌集で、「もーいする」と弱起に改めている。この方が曲の締めとして力が入れやすく、かつ余韻を残して終わるので寮生に好まれたのだろう。 この寮歌の作曲者は矢野一郎。原譜の修正にはきわめてうるさかったが、よく応じた(あるいは看過した)ものだと感心する。あるいは、自分で修正したか。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
一博翺翔(かうしょう)三萬里 猛鷲されど地に落ちて 平和の光輝けば 見よ、人の子は世を擧げて 只享樂の影を追ひ 儚き夢に醉はんとす 1番歌詞 一飛び三万里を飛ぶという大鳥のようにヨーロッパ全土はもとより地中海、アフリカと世界中を飛び廻り、また獰猛な鷲のように残虐の限りを尽くして暴れまくっていた大国ドイツが、戦争開始当初の勢いは何処へやら、終に英仏米等の連合国に降伏し、第一次大戦は終わった。パリでは、今、講和会議が開かれて、平和が訪れた。しかし、世の人を見よ。人は挙って、戦争が終わったことで安心し、はかない快楽に耽り、太平の夢に浮かれようとしている。

「一搏翺翔三萬里 猛襲されど地に落ちて」
 第一次大戦で、ドイツが英仏米等連合国に降伏したこと。「一搏翺翔」は、一飛び三万里を飛ぶという大鳥が南の海に行くという大業を企て南に向かって飛んでいったという中国の伝説を踏まえる。一飛び三万里を飛ぶという大鳥のように、ドイツ軍がヨーロッパ全土はもとより地中海、アフリカと世界中に戦線を拡大して戦ったこと。「猛襲」は、国際協約を破り中立国ベルギーに侵攻したり、非人道的な毒ガス作戦や無制限潜水艦攻撃作戦を展開して、残虐の限りを尽くして暴れまくったドイツ軍を猛襲に喩える。
 「一博」は昭和10年寮歌集で「一搏」に変更された。誤植であろうと思われるので、歌詞原詞以外の説明では「搏」の字を用いた。
 「一度搏てば三千里 み空を翔く大鵬も」(明治32年「一度搏てば」1番)
 「圖南の翼千萬里 高粱實る満洲の」(大正6年「圖南の翼」1番)
 荘子『逍遥遊』 「齊諧は怪を志る者なり。諧の言に曰く、鵬の南冥に徙るや、水を撃すること三千里、扶搖に搏ちて上ること九萬里、去るに六月の息を以てする者なりと。野馬や塵埃や、生物の息を以て相ひ吹くなり、天の蒼蒼たるは其れ正色か、其れ遠くして至極する所無きか。其の下を視るや亦た是のごとくならんのみ。」

「平和の光輝けば」
 大正7年11月3日 オーストリアが連合国と休戦、次いで11日 ドイツが休戦協定に調印し第一次世界大戦は終わった。大正8年1月18日にはパリ講和会議が始まった。
 「平和の芽生君見ずや」(大正8年「まどろみ深き」1番)

「只享楽の影を追ひ 儚き夢に醉はんとす」
 戦争が終わったことで安心し、快楽に耽り浮かれようとしている。
平和の光輝けど 平和は暫時(しばし)夢枕 聞けや太平洋の音 絶えず狂ひて轟きて 我等の夢を醒ますなり 我等の醉を醒ますなり 2番歌詞 戦争が終わって平和が訪れたと人はいうが、平和などというものは、しばしの夢に過ぎない。既に太平洋の向うの国・アメリカは、日本政府に対して日本のシベリア出兵数、シベリア鉄道独占に抗議の大声をあげている。その怒濤狂う轟音のような抗議に、かって、米提督ペリー率いるたった4隻の黒船に日本国中が目を醒まされたように、我らの平和の夢は醒まされ、平和に酔う心は醒まされた。

「聞けや太平洋の音」
 「太平洋の音」は、アメリカが大正7年11月16日、日本政府にシベリア出兵数、シベリア鉄道独占などにつき抗議したことをいう。と同時に今後、日本にとって対米関係が重要性を増すことを警告する。1853年6月、日本の開国を求め、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航した、所謂「黒船の来航」を思い出す。
 「当時、海軍作家が『日米もし戦わば』などと宣伝していた日米決戦への備えを歌う。米国は日露戦争終了後、直ちに対日戦争の研究開始」(井下一高先輩「一高寮歌メモ」)
 「フィリピンの独立の動きと、それに対するアメリカの動きなどを含め、対米問題が今後の日本の運命を左右することを予想してこう歌ったのであろう」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
玉殿の春我知らず 朝日に匂ふ山櫻 綾羅の誇我知らず 玲瓏映ゆる芙蓉峰 ただ蒼生を救はむと 七城の下腕鍛ふ 3番歌詞 豪華な宮殿に住んだり、上等な絹の衣服をまとうような、贅沢な生活はしたことがないし、男子が誇るべきこととは思わない。朝日に色美しく映える山桜や八面うるわしく照り輝いて聳え立つ富士山のように、一高生は、独り超然として志操は堅固である。一高生が思うことは一つ、濁れる海に漂う国民を救うこと、それだけだ。そのために一高生は、一高寄宿寮で日夜、修業に励んでいるのである。

「『玉殿の春』 『綾羅の誇』」
 「玉殿」は玉で飾った美しい宮殿。「綾羅」は綾絹と薄絹、上等な衣服。ともに奢侈贅沢なものの例として挙げる。今風にいえば、億ションの豪華マンションに住んだこともなければ、アルマーニの背広など着たこともない。そんなものは誇るべきものではない。

「『朝日に匂ふ山櫻』 『玲瓏映ゆる芙蓉峰』」
 一高生の志操堅固、孤高の精神をいう。「匂ふ」は色美しく輝く。「玲瓏」はうるわしく輝くさま。八面玲瓏たる富士の山」などという。
 「花は櫻木人は武士」「富士の高峰に比ふべき 節操義烈勇ましく」(明治23年「端艇部部歌」)
 本居宣長 「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」

「ただ蒼生を救はんと 七城の下腕鍛ふ」
 「蒼生」は国民。「七城」は七棟の一高寄宿寮。大正8年1月21日、旧東寮に代わって新寮二寮が完成し、東寮・和寮と命名された。これで、一高自治寮は六寮から七寮となった。
 「三とせは岡に佇みて 煙る下界を眺めやり 濁れる波を清むべき 深き想に培はん」(大正5年「朧に霞む」5番)
十年の臥薪空ならず 戸塚原頭勝軍 品海の空鬨の聲 東亞覇権の杖つきて 朔北の地に血(すゝ)りし 意氣を祖國に灑がなん 4番歌詞 野球部が覇権奪還のために臥薪嘗胆して雌伏した十年余は無駄ではなかった。内村投手の好投で、戸塚球場では早稲田野球部に、三田・慶応グラウアンドでは慶應野球部に、ともに敵を零点に抑えて快勝した。多年の悲願がかない、ついに一高野球部は、天下の覇権を奪還したのだ。それは同時に東亜の覇権を握ったことになる。一高野球部は東亜の覇者の旗を掲げて、満洲に遠征した。満洲での試合で培った意気を、祖国日本に帰って見せてくれるであろう。

「十年の臥薪空ならず」
 野球部が覇権奪還のために臥薪嘗胆して雌伏した十年余は無駄ではなかった。三国干渉に臥薪嘗胆して日露戦争に勝利した日本に、早慶野球部から覇権を奪還した一高野球部を重ねる。

「戸塚原頭勝軍 品海の空鬨の聲」
 大正7年5月4日の対早大野球戦(戸塚球場)を7-0で快勝、18日の慶應戦(三田・慶応グラウンド)では内村投手がいよいよ冴え、三振17を奪う好投により4A-0で降した。15年ぶりに天下の覇権を奪還した。ただし、残念なことに、翌8年には再び早慶に破れ、覇権は1年で向陵を去った。
 その喜びが如何に大きかったかは、5月26日恵比寿ビール庭園で開かれた野球部戦勝祝賀会に先輩・生徒が1000名も参加したことでも分かる。

「3月 雪景色の中に記念祭も樂しく過ぎて野球部征西の軍を送り續いて柔道部選手團北征の行を盛にす。向陵花深うして時漸く多事ならんとす。
4月 北征の師時非にして敗れたれ共西下の軍意氣大いに擧り茲に積年の怨を晴らす。越えて5月、斯界の重鎮たる早慶両大學チームを零敗せしめて天下の覇権を握る。」(「向陵誌」ー大正7年)
 「ついに慶應をも撃破した一高應援團一千は、隊伍を整え、三田の球場から寮歌を高唱しつつ球場前広場に向かった。宮城前で両陛下の万歳を三唱して解散し、午後9時から向島のサッポロビール庭園で大祝賀会を開いた。集まる者三百余。祝賀の演説と寮歌と凱歌と、そして乱舞が続いて12時閉会。先輩青木得三は、『白旗と太鼓の力で勝ったのではないことを百六十万市民の前に絶叫せねばならぬ』と演説した。
 散会するや、深更の浅草から上野まで街頭ストームに踊り狂った。この夜、委員は強硬な電灯係・須藤伝次郎教授と折衝を重ね、ようやく午前3時までの点灯延長を許可してもらった。向陵には払暁まで祝勝ストームが吹き荒れたことはいうまでもない。」(「一高應援團史」)

「東亞覇権の杖つきて 朔北の地に血りし」
 野球部は全勝(名投手内村祐之の好投)の勢いを駆りOBとともにチームを結成、中野老鉄山の拠金により満洲遠征を行ない、今後も覇者を堅持すると誓い合った。「杖つきて」は、鎧の受筒に東亜の覇権者と書いた小旗を挿して。今風にいえば、チャンピオン・フラグを引っさげての意。「朔北」とは、北方の地、特に中国の北方にある辺土。「地欹りし」は「地歃りし」(昭和50年寮歌集)が正しい。「歃血」は、昔、諸侯の間で約束を結ぶ時、犠牲(いけにえ)を殺し、互いにその血をすすりあって(一説に口のまわりに塗って)違背しないことを誓ったこと。満州の地で覇者の地位を今後も堅持すると誓い合ったの意であろう。「欹」は昭和10年寮歌集で「合欠」(一字)、昭和50年寮歌集で「歃」に変更された。
經綸胸に溢れては 人生誰れか立たざらむ 清き千餘の義人等は 英雄の覇圖慕ひつゝ 扶桑に高き武香陵 決然起てり雄々しくも 5番歌詞 一高生の胸には、治国済民の策がいくらでもあるのだから、一生の間に、誰か立たないということがあろうか。否、きっと立つ者がいる。清い心を持ち正義に燃える千余の一高生は、古今東西の英雄の遺業を慕いながら、日本に名高い自治の城によって、意を決して雄々しく起ったのである。

「經綸胸に溢れては」
 「經綸」とは、国家を治めととのえること。治国済民の方策。
 「經世の策胸にあり 降魔の劔腰に鳴る」(明治37年「都の空」7番)
 
「清き千餘の義人等は 英雄の覇圖慕ひつゝ」
 「義人」は、堅く正義を守る人、一高生。「英雄」は、覇権を奪還した野球部ではなく、日本武尊、アレクサンドロス大王、カエサル、ナポレオンといった伝説上、歴史上の英雄をいうものであろう。明治の20年代に日本に紹介され、土井晩翠の訳もあるトーマス・カーライルの「英雄崇拝論」は、内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄などに大きな影響を与えたという。プルタークの「英雄対比伝」(後に明治39年卒の鶴見祐輔が「英雄伝」として翻訳)も含め多くの一高生は読み、英雄に憬れていたと思われる。「覇圖」は、覇者のはかりごと。偉業。

「扶桑に高き武香陵」
 「扶桑」は、中国の東方にあるという国。日本の異称。「武香陵」は向ヶ丘の漢語的美称。

「決然起てり雄々しくも」
 「決然」は、意を決して。「起てり」の「り」は、完了存続の助動詞。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 前年11月欧州大戦が終り、この年2月に、ベルサイユに平和会議がひらかれたが、世界の人々は、それを喜んで享楽主義一辺倒になっていることを慨嘆し同時に、そのような平和は全く仮のもので、日本にとっては太平洋を挟んで、アメリカのとの関係が今後国難的重圧をもって迫ってくることを警告している点に意味がある。 
 *パリ講和会議の開催は大正8年1月18日から、調印は6月28日である。         
「一高寮歌私観」から


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