旧制第一高等学校寮歌解説
暗雲西に |
大正7年第28回紀念祭寄贈歌 九大
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1、暗雲西にはびこりて 荒鷲ひとり羽を打つ 扶蓉の峰は高くして 陽炎の色若やきぬ 世を海原のはやてさへ 波ゆるがせじ *「扶蓉」は昭和10年寮歌集で「芙蓉」に変更。 3、菅公逝きて千餘年 わびしくかほる飛び梅の 宰府の宮をたづね來て ミネルバの神の育に 喜び集ふ一百人 どよむ瞳に光あり *「かほる」は昭和10年寮歌集で「かをる」に変更。 |
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福岡大學は九州帝國大學の間違いである。各段4小節の付点2分音符は原譜では2分音符であったものを修正した(大正14年以降寮歌集と同じ)。 昭和50年寮歌集で、ハ長調の譜に♯記号が一つ付きト長調となった。F(ファ)の音は一つもなく、メロディーは全く同じである。ハ長調とすれば最後の音が属音(ソ)で終わっていたが、ト長調と変更すれば主音で終わる。ただ、それだけの理由か。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
暗雲西にはびこりて 荒鷲ひとり羽を打つ 扶蓉の峰は高くして 陽炎の色若やきぬ 世を海原のはやてさへ 波ゆるがせじ |
1番歌詞 | ヨーロッパの大戦は、和平の動きがあるものの、いまだ終結せず、ドイツは、無制限潜水艦作戦を宣言するなど、なお頑迷にアメリカを含む連合国側に抵抗している。富士山の峰は高く白雪列島に輝きを放って、日本は明治から大正に御代が若返った。海に急に激しく起こる突風でさえ、新しい御代に波ひとつ起すことが出来ない。万世一系の天皇が治める日本国は盤石で、戦雲立ちこめるヨーロッパとは違い平和である。 「暗雲西にはびこりて」 第一次世界大戦のこと。大正6年4月6日 アメリカがドイツに宣戦布告し、膠着した戦線は連合軍優位に展開した。ロシア革命によるソビエト政権の成立とその波紋と考えることもできる。「はびこる」は広がる。大正5年12月12日に、ドイツが連合国側に講和を提議したり、同月18日、米大統領ウィルソンが和平を提議するなど和平の動きが出ていたが、大正6年2月1日、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言するに至り、同年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告し、大戦に参加した。アメリカの大戦参加により、戦線は連合国側が有利となった。紀念祭前の大正7年1月8日、米大統領ウィルソンは、ロシア革命に対抗する立場から、国際連盟の設立を含む平和構想の原則14ヶ条を提唱した。 「荒鷲ひとり羽を打つ」 「荒鷲」はロシア、またはドイツ。ロシア革命からシベリア出兵の流れを重視すればロシアとなるが、第一次世界大戦全般を考えてドイツとする。なお、検討の余地を残す。 大正6年3月12日、ロシア2月革命。15日、ニコライ2世退位。11月7日、ロシア10月革命、ペトログラードでトロッキーらが武装蜂起し臨時政府を倒してボリシェヴィキ政権を樹立した。 日本は大正6年3月27日、閣議決定で、ロシア仮政府を承認を決定するも、翌7年1月12日には、居留民保護を理由にウラジオストクに軍艦2隻を派遣、4月5日には英軍と共に上陸開始、さらに8月2日には米の提案に基づきソビエト政権打倒のためシベリアに出兵した。 この句は、明治37年寮歌「都の空に」の2番歌詞「猛鷲獨り羽を搏つ」および「征露歌」の歌詞を踏まえてのもので、その意味からいえば「荒鷲」はロシアのことだが、翌年の大正8年の寮歌「一搏翺翔三萬里」1番歌詞の「猛鷲」はドイツを指す。 「暗雲」を第一次世界大戦全般と考えて、敵国ドイツを指すと解す。 「芙蓉の峰は高くして 陽炎の色若やきぬ」 「扶蓉の峰」は富士山の雅称である。、昭和10年寮歌集で「芙蓉の峰」に変更された。「陽炎の色若やぎぬ世」は、明治天皇の崩御により、大正4年に大正天皇の即位式、5年に裕仁親王の立太子礼を行い、日本の御世が若返ったことをいうと解す。「陽炎」は、野に立つ陽炎ではなく、蜻蛉で、後の句に出てくる「秋津島」、すなわち日本のことである。「若やぎぬ」は、明治から大正に御代が若返ったこと。 「世を海原のはやてさへ 波ゆるがせじ秋津洲」 「はやて」は、疾風。急に激しく吹き起る風。テは風のこと。暗にロシア革命をいうのかもしれない。前述のとおり、大正7年1月12日に居留民保護を理由にウラジオストックに軍艦二隻を派遣、8月にはソヴィエト政権打倒のためシベリアに出兵した。「秋津洲」は日本の異称。前の句の「若やぎぬ」の「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形であるが、意味的には連体形の「若やぎぬる」として、「世」にかかるとして訳した。 「『世を海原のはやてさへ』は、『世を憂み』に掛けるか、未詳。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |
遠き昔のつわものゝ 矢叫たけく火にもえし 多々良濱邊の捨小船 渚に寄する漣の さやけき歌の調にも 御世太平の兆あり | 2番歌詞 | 文永・弘安の遠い昔、多々良浜辺を舞台に蒙古軍と鎌倉武士との間で、矢叫びの声も逞しく激しい戦いがあった。鎌倉武士の勇ましい防戦により蒙古軍を撃退することが出来た。打ち捨てられた蒙古軍の上陸用小舟は多々良浜で数多く燃やされたという。多々良浜には、昔の戦いなど無かったかのように静かに小波が浜辺に打ち寄せている。浜辺に立ち、静かな波音を聞いていると、大正の御代が、これからも平和に栄えていくと、小さな声ながらはっきりと囁いているようである。 「矢叫たけく火にもえし 多々良濱邊の捨小舟」 1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)の二度にわたる元寇を踏まえる。 「矢叫び」とは、戦の始めに両軍が遠矢を射合う時、互いに高く発する声。「捨小舟」は暴風雨で沈んだ蒙古の軍船、捨てられた上陸用の小舟。最近、海底から引き揚げられ話題となった。「多々良濱邊」は、福岡の東辺を流れ多々良川が博多湾に注ぐ辺り一帯の浜辺。元寇の古戦場。また1336年の京都から敗走してきた足利尊氏と九州南朝の菊池武敏の軍が激突した多々良濱の戦の舞台でもある。その他、戦国時代の大友氏と毛利氏の戦いなど多くの合戦が古来より多々良浜を舞台に繰り返されたが、「捨小舟」の語から、元寇の役の戦いとする。「御世太平の兆あり」は、大正の御代が平和に栄えて行くことと、第一次大戦の終結の動きを併せていうものであろう。「さやけき」は、はっきりとしていること。 「太平」は、南北朝の争乱を描いた軍記物語「太平記」の太平でもある。 「えみしの艦を玄海の 底の藻屑と碎きけむ」(明治42年「をぐろき雲は」1番) |
菅公逝きて千餘年 わびしくかほる飛び梅の 宰府の宮をたづね來て ミネルバの神の育に 喜び集ふ一百人 どよむ瞳に光あり | 3番歌詞 | 菅原道真公が没してから、今年で1015年となる。太宰府天満宮を訪ねると、ひとり残った飛梅が本殿前にさびしく、いい匂いを漂わせて咲いていた。向ヶ丘の倫理講堂に学問の神様として掲げられていた菅原道真公を祀った福岡の地で、公の暖かい育みをを感じながら、学問の出来る我々は、幸せ者である。大宰府天満宮に100人の同胞が集い、辺りに響き渡る歓声をあげる我等の瞳には、感激のあまり涙が光っていた。 「菅公逝きて千餘年 わびしくかをる飛び梅の」 「菅公」とは菅原道真。大宰府天満宮は菅原道真を祀る。「飛び梅」は大宰府天満宮正面向って右に植栽された梅のこと。菅原道真が大宰府に左遷されて家を出る時、庭の梅に別れを惜しみ、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだが、その梅が後に道真を慕って大宰府まで飛んで行ったという。 なお菅原道真が没したのは903年のことで、大正7年(1918年)は、没後1015年にあたる。 「わびしくかほる飛梅の」 「かほる」は、昭和10年寮歌集で「かをる」に変更された。 「宰府の宮をたづね來て」 宰府の宮」は大宰府天満宮。 「ミネルバの神の育みに」 ミネルバの神=学問の神「菅原道真」、この神を祀った福岡の地で、道真公の暖かい育みを感じながら学問に励んでいること。 柏葉と橄欖は、ギリシャ神話の文武を代表するミネルバとマルス(ともに名前はローマ神話名)の象徴であり、本郷一高の倫理講堂には文を代表する菅原道真と武を代表する坂上田村麻呂の肖像画が正面に掲げられていた。 「マルスの神は矛執りて ミネルバの神楯握り 我等を常に守るなり」(明治35年「混濁の浪」4番) |
夢より出づる橄欖の 異香くんずる春の夜を そよぐ柏の下蔭に 衣かたしきまとゐして 共喜共憂三年こそ わが若人の命なれ | 4番歌詞 | 夢の中で嗅いだことのあるような橄欖の馥郁とした不思議な香りが漂う春の夜を柏の葉がそよぐ木下蔭で、衣の片袖を下に敷いて語り合いながら、友情を深めていく。こうして、「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ」心の友を得ることの出来た向ヶ丘の三年こそ、我ら一高生の掛け替えのない大切な思い出である。 「夢より出づる橄欖の 異香くんずる春の夜を」 夢の中で嗅いだことのあるような橄欖の馥郁とした不思議な香りが漂う春の夜を。橄欖は一高の文の象徴。 「夢より出づる」は、夢の中で嗅いだことがあるような。「異香」は、馥郁たる不思議な香り。 「そよぐ柏の下蔭に」 柏の葉がそよぐ木下蔭で。一高の寄宿寮で。柏の葉は、一高の武の象徴。 「衣かたしきまとゐして」 衣の片袖を下に敷いて語り合いながら友情を深めていく。「衣かたしきまとゐして」は、衣の片袖を床に敷いて。同じ寮室の床に寝起きしての意。「まとゐ」は、「まどゐ」で、親しい者が集まって楽しく過ごすこと。語り合いながら友情を深めてと訳した。 新古今518 藤原良経 「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとり寝かも」 「共喜共憂三年こそ わが若人の命なれ」 「共喜共憂三年」は、「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)ということ。 「わが若人の命なれ」 我ら一高生の掛け替えのない大切な思い出である。 「同じ柏の下露を くみて三年の起き伏しに 深きおもひのなからめや」(明治40年「仇浪騒ぐ」2番) |
荒津の山の紅葉ばの 積りてことし二十八 ゆめゆるぎなき礎の 髙く輝く自治燈を 東はるか望み見て 今宵の宴祝はなん | 5番歌詞 | 荒津の山の紅葉の葉が散り重なっていくように、一高寄宿寮は、年を重ねて今年開寮28周年を迎えた。自治の礎は決してゆるぐことなく固まった。高く輝く自治燈を東の方遙かに望み見ながら、今宵の紀念祭を祝おう。 「荒津の山」 荒津の山は、万葉の時代からの景勝地、現在の福岡市西公園。桜の名所でもある。明治18年に桜・モミジを植栽とある。西公園上には黒田如水・長政親子を祀る光雲神社がある。 「紅葉ばの 積りてことし二十八」 荒津の山の紅葉の葉が落ちて積み重なっていくように、一高寄宿寮は、年を重ねて、今年開寮28周年年を迎えた。 「ゆめゆるぎなき礎の」 「ゆめ」は「努」で副詞。決して。 「髙く輝く自治燈を 東はるか望み見て」 高く輝く自治燈を、東の方遙かに望み見て。自由の女神のような自治燈があるわけではない。「自治燈」は、仏教の法灯になぞらえたもの。ここに法灯とは、仏の正法が世の闇を照らすのを灯に喩えていう言葉。仏前の灯のように、寄宿寮内に自治の灯をともしているわけではない。観念的なものである。一高寄宿寮の自治の礎がゆるぎなく固まったことを喜び、同時に今後、さらに強固なものに栄えていくように、向ヶ丘の方向である東の方を遙かに望みながらの意。 |