旧制第一高等学校寮歌解説

若紫に

大正6年第27回紀念祭寮歌 南寮

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1、若紫に夜は溶けて    夢に漂ふ暁の
  丘の小草の靑ばみに  春の光のかげろへば
  (アメ)(クシビ)の響きあり    (ツチ)に和樂のとよみあり

2、花散る床のまどろみや  枕に通ふ明の鐘
  醒よと強く私語(サゝヤ)けば    夢より出でて又夢の
  歡樂の野に辿り入る   祝へや一日紀念祭
*「醒よ」は大砲14年寮歌集で「醒めよ」と変更。

3、草より草に沈み行く    片われ月の武蔵野に
  み星の涙滴りて      亂るゝ花の潤へば
  筑波の峰に星冱えて   玉笛ゆるうすゝり泣く

4、あゝ當年の若武者が   駒の蹄を忍ばせて
  行方も知らず迷ひけむ  丘の夕もありにしか
  廣野を靉く白銀の     (スゝキ)の影の淋しさに

5、丘は變らぬ丘の上に   自然の姿うつろひて
  聳えてゆかし六つの城  散り行く花の下蔭に
  夕さり來れば若人が    紅き血潮の(タギ)るかな

6、思出多き武香陵      六寮建てて二十七
  春年毎にめぐれども    三年の春に限りあり
  盃あげてさらば君      ともに壽げ花筵 
*「建てて」は昭和50年寮歌集で「建てゝ」に変更された。
*「盃」は昭和50年寮歌集で「杯」に変更。
寮歌には珍しく節の途中で、ト長調から平行調のホ短調に転調する。3拍子であるが、曲頭に「快活ニ」とある寮歌であり、比較的テンポも速く力強く歌う。寮歌祭などでは、大声で、時に2拍子で、力強く、文字通り快活に歌うが、それでいて情感溢れる歌声となる。その意味では、不思議な寮歌である。全体に哀愁が漂うのは、節の途中で平行調のホ短調に転調させているからである。「寮歌には『新墾』のように(せつ)によって長調と短調を使い分けている例はあるが、『若紫』のように節の内部で長調から短調に転調するのは、おそらくこの曲だけではないか」(音楽家の戸口幸策一高先輩)。第3・4段あたり(「おかのおぐさの」以下)、ややテンポを落とし、一人で高唱すれば、この寮歌の素晴らしさが実感できるだろう。3拍子の寮歌、途中に短調の挿入転調と、曲の上からも当時の寮歌の最高峰をゆくものであろう。

 昭和10年寮歌集で、2段2小節1音ドをドーレと2音に変更し、1・2小節にまたがっていた「ただよふ」を2小節にもってきて、「た」を強拍とした。その結果、同段1小節の歌詞は、1字づつずれ、「ゆーウめーにー」と歌い易くなった。また、4段3小節「かげろへば」の前2音「ソーソ」を「ラーラ」に変えることにより、さらに哀愁をました。

 平成16年寮歌集では、4段1・2小節「はるのひかりの」のところ、「ミーミミーミ ファーファファーファ」」から「ミーミファーミ ミーミファーミ」と同じメロディーを繰り返し、盛り上げている。また、11箇所のタイ(昭和10年寮歌集で1箇所第2段1小節追加)を全て止めることにより、歯切れがよくなった。

 「ミーミファーミ」ないし「ミーミミーミ」のメロディーは、曲の途中に6回も多用されていながらまたかと、決して飽きることはない。このメロディーが出てくるたびにどこか歡樂の世界に思わず引き込まれた気分になる。「一高寮歌には珍しい女性的な情緒をなんとなく感じさせる」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)歌詞にぴったりの曲である。


語句の説明・解釈

 大正10年2月4日、5日、樂友會第15回演奏會(管弦楽指揮は弘田龍太郎氏、合唱指揮は水野康髙氏)が本郷追分の帝大基督教青年會館に於て催された。「右のプログラムに於て『若き日の思出』と題する圓舞曲は箕作秋吉氏が一高在學中作曲せられし寮歌『若紫に夜は溶けて』の旋律を主題として自ら管弦樂用圓舞曲に編曲して我一高樂友會に寄せられたものであって、この寮歌は他の多くの寮歌とは少しく曲調を異にしてゐるので一部の人には歌われなかったのであるが、この演奏以來一時にこの寮歌が流行したとの事である。」(「向陵誌」-樂友會記事)

語句 箇所 説明・解釈
若紫に夜は溶けて 夢に漂ふ曉の 丘の小草の靑ばみに 春の光のかげろへば (アメ)(クシビ)の響きあり (ツチ)に和樂のとよみあり。 1番歌詞 夜の闇が薄紫色に溶けて行って夜が明けようとする時、一高生は、床の中でまだ夢を見ながら眠っている。やがて春のやわらかい光が向ヶ丘の若草にほのめくと、天に霊妙な響きが、地に心地よい響きが鳴り渡る。すなわち天に日の光が射し始め、地に草木や動物などが眠りから醒めて、一日が始まる。

「若紫に夜は溶けて」
 暗黒から薄紫色に夜が明けていく様子をいう。「若紫」は、薄紫色。
 「若紫に夜は明けて ああ暁天の雲の色」(明治41年第六高等学校「若紫に」1番)

「夢に漂ふ曉の」
 「曉」は、夜が明けようとして、まだ暗いうち。一高生は、まだ寮床で、夢を見ている。

「丘の小草の青ばみに 春の光のかげろへば」
 「かげろふ」は、ひかりがほのめく。かげがうつる。
 「春の光のゆらめきて 緑にけぶる野に充てば」(大正3年「春の光の」1番)

「乾に靈の響あり 坤に和樂のとよみあり」
 天に霊妙なな響きがあり、地に心地よい響きがある。夜が明け光が射し、草木や動物が活動を開始する、天地の始動をいう。「和樂」は、やわらぎ楽しむこと。「とよみ」は、鳴り響くこと。
 「『和樂」は、みごとに調和したなごやかな音楽。『鼓シテ、和樂シテマシメン』(『詩経』小雅・鹿鳴))。「琴瑟和楽」は本来音楽のことであるが、男女の和合に喩えていう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「第二節の『枕に通ふ明の鐘』と関連させて考えれば『解説』の指摘するように『男女』の和合のさまを表現したものと解したほうがわかりやすい。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
花散る床のまどろみや  枕に通ふ明の鐘 醒よと強く私語(サゝヤ)けば 夢より出でて又夢の 歡樂の野に辿り入る 祝へや一日紀念祭。 2番歌詞 夢うつつで、うとうととしている枕元に、明の鐘の音が目を醒ませと喧しく響くので、夢から目を醒ますが、今度は紀念祭の夢みるような楽しさに蕩けて行く。今日一日、紀念祭を祝おう。

「花散る床のまどろみや」
 「花散る」は、気持ちよいほどの意か。「まどろみ」は、マは目、トロミは緊張のゆるむ意で、うとうとすること。
 「夕べ敷寝の花の床」(明治36年「綠もぞ濃き」1番)

「枕に通ふ明の鐘」
 明の鐘は、明け六つの鐘で卯の刻、おおよそ午前6時の鐘。鐘は上野寛永寺の鐘か、浅草浅草寺の鐘であろうか?それとも本郷界隈の寺の鐘か。「枕に通う」とは、枕元に鐘の音が聞こえてくること。
 芭蕉 「花の雲鐘は上野か浅草か」
 「櫓に通ふ明けの鐘」(大正4年「無言に憩ふ」5番)
 「長唄の『明けの鐘』のように、男を待つ女心や別れを惜しむ気持ちの表現として使われることが多い。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「夢より出でて又夢の歡樂の野に辿り入る」
 夢から目を醒まして、今度は夢の紀念祭の楽しみに蕩けて行く。

「醒よと強く私語けば」
 「醒よ」は大正14年寮歌集で「醒めよ」と変更された。
草より草に沈み行く 片われ月の武蔵野に み星の涙滴りて 亂るゝ花の潤へば 筑波の峰に星冱えて 玉笛ゆるうすゝり泣く。 3番歌詞 上弦の月が広大な武蔵野の薄の上から出て、薄の上に沈んでいく。半分欠けた月の痛ましい姿を見て、可愛そうだと星は涙を流す。その涙が雫となって空から滴り落ち、武蔵野に咲き乱れる花を潤す。筑波の峰に星の光が冷たく澄んで、何処からともなく、ゆるくすすり泣くような笛の音が聞こえてくる。

「草より草に沈み行く」
 広大な武蔵野の薄の上から出て、薄の上に沈んでいく。
 「草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時むかしの月をいひけん」(幸田露伴「水の東京」)
 「草より出でて草に入る 月をも見けん武蔵野の」(明治35年「この芽も春の」5番)
 「『草』はススキ(雄花)をさす。なお、武蔵野が雑木林に変ってゆくのは江戸中期以降である。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「片われ月の武蔵野」
 「片われ月」とは、半月。弦月。弓張月のこと。上弦の月は月の上旬、夕方から深夜に、下弦の月は月の下旬,、深夜過ぎから未明に見える。身の半分が欠けてしまった月を痛ましいと感じる。
 「寒鴉素木に血を吐きて 片破れ月の悽慘と」(大正5年「黄昏時の」4番) 
 「旗薄野邊に靡きて 片割れの夕月落ちぬ」(昭和12年「新墾の」追憶1番)
 「片破れ月の凄慘と 時計の臺に懸る時」(大正5年「黄昏時の」4番)

「み星の涙滴りて 亂るゝ花の潤へば」
 半分欠けた月の痛ましい姿を見て、可愛そうだと星が流した涙が雫となって空から武蔵野に滴り落ちて、百花繚爛の花を潤す。「涙」は、星の光であろう。「亂るゝ花」の乱は百花繚乱の乱。

「筑波の峰に星冴えて」
 筑波山は「西の富士 東の筑波」と称され、古来の歌枕。筑波の峰に星の光が冷たく澄んで。「冴える」は光や音が冷たく澄むこと。

「玉笛ゆるうすゝり泣く」
 「玉笛」の玉は美称。寮生の吹く草笛か。草笛の音は「すゝり泣く」ように聞こえる。「玉笛」は、最近では「ぎょくてき」と歌うが、依然として「たまぶえ」と歌う先輩も少なくない。和文調の歌詞なのに、漢文調に「ぎょくてき」はおかしいとの理由である。
あゝ當年の若武者が 駒の蹄を忍ばせて 行方も知らず迷ひけむ 丘の夕もありにしか 廣野を靉く白銀の (スゝキ)の影の淋しさに。 4番歌詞 荒涼として暮れて行く武蔵野に、薄が一面生い茂って、穂波が淋しく白く光って波打つ姿を見ていると、若くて多感な一高生は、もの悲しくなって、涙が溢れてくる。一人足音を忍ばせて、人生の意義・真理を探究しては思い悩み、あてもなく向ヶ丘をさ迷った夕もあったことだなあ。

「あゝ当年の若武者が 駒の蹄を忍ばせて」
 「当年の若武者」は今を盛りの若武者。一高生。
 「一人前になったばかりの若武者(若者を喩える)」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「緋縅着けし若武者は 鎧に花の香をのせて」(明治42年「緋縅着けし」1番
 「緋縅しるき若武者の そびらの梅に風ぞ吹く」(明治38年「王師の金鼓」5番)

 「駒の蹄を忍ばせて」
 足音を忍ばせて。 
 「恋しい人にひそかに逢いに行くことを喩えている。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「行方も知らず迷ひけむ 丘の夕もありしかな」
 人生の意義・真理を追求して迷い悩みながらひとり淋しく丘を彷徨った日もあった。
 「『行方も知らず』は、これから先どうなっていくのかと心細く思う気持ちを現すが、恋の行末に悩む状況に使われることが多い。」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「廣野を靉く白銀の 薄の影の淋しさに」
 人生の意義・真理を探し求めて彷徨うが、決して見つけることが出来ない哀しさを武蔵野に靉く薄の影に託して表現。
 「廣野」は、武蔵野。「白銀の薄」は、銀のように白く光る薄。「薄」は、3番歌詞「草より草に沈み行く」の草である。「靉く」の「靉」は、びっしりと茂っているさま。一面と訳した。「なびく」は、薄の穂が風に横に揺れること。「淋しく」は、涙しながらと訳した。
 「穂に出るすすき白銀の 野分になびく廣野原 鐙の露の玉散らし 虫の音止めし秋の夕」(明治42年「緋縅着けし」4番))
丘は變らぬ丘の上に 自然の姿うつろひて 聳えてゆかし六つの城 散り行く花の下蔭に 夕さり來れば若人が 紅き血潮の(タギ)るかな。 5番歌詞 花咲き花散る四季折々の自然の移ろいの中で、ひとり向ヶ丘は変ることなく六寮は超然と丘に聳え立つ。散り行く桜の花の下蔭に、夕方ともなれば一高生が集まって、紀念祭の宴を前に、赤き血潮を滾らせるのである。

「聳えてゆかし六つの城」
 向ヶ丘に超然と聳え立つ一高寄宿寮の六棟。「ゆかし」は行キの形容詞形で、よいことが期待されるところへ行きたいの意。ここでは超然と訳した。「六つの城」は、一高の東・西・南・北・中・朶の六棟の寄宿寮。
「向ヶ岡にそゝりたつ 五寮の健兒意氣高し」(明治35年「嗚呼玉杯」1番)

「夕さり來れば若人が」
 「夕さり來れば」は、夕方になると。
 柿本人麻呂 「玉蜻の夕さり来れば猟人の 弓月が岳に霞たなびく」

「紅き血潮の滾るかな」
 真っ赤に燃える夕陽に頬を輝かせて、一高生の意気が上るの意。「紀念祭の宴を前に」と補った。
思出多き武香陵 六寮建てて二十七 春年毎にめぐれども 三年の春に限りあり 盃あげてさらば君 ともに壽げ花筵  6番歌詞 一高寄宿寮は、多くの伝説と光栄に輝いて、今年、開寮27周年を迎える。春は毎年巡ってくるが、高校生活三年の間に、春は3回しか廻って来ない。そうであるから、限りある春を惜しんで、乾杯して、ともに紀念祭を祝おう。

「思出多き武香陵」
 「思出」は、伝説。「武香陵」は、向ヶ丘の漢語的美称。
 「傳説繫き古城に 貴き生命惜しみつゝ」(大正5年「黄昏時の」1番)
 「ましてわれらが先人の 愛寮の血の物語」(あゝ新緑の」3番
 「隅田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲 大津の浦にものゝふが  夢破りけん語草 かへりみすれば幾年の 歴史は榮を語るかな」(明治36年「彌生が岡に地を占めて」2番)

「六寮建てて二十七」
 正確には開寮二十七周年。最も古い東・西寮に入寮の許可がおりたのは明治23年3月1日で27年経つが、、最も新しい朶寮が落成し六寮体制となったのは明治37年9月のことであるから、この年まで12年6か月である。「建てて」は、昭和50年寮歌集で「建てゝ」に変更された。

「春年毎にめぐれども 三年の春に限りあり」
 春は毎年巡ってくるが、高校生活は三年間であるので春は三回しか来ない。

「盃あげてさらば君 ともに壽げ花筵」
 「筵」は宴席で、紀念祭のこと。一緒に紀念祭を祝おうの意。「盃」は、昭和50年寮歌集で「杯」に変更された。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 歌詞第一節は向陵の味爽から朝に至る微妙な光りと色と音の推移をよく捉えつつその音の世界を、末尾の「乾に霊の響あり 坤に和楽のとよみあり」という表現によって内面化している。第二節も、第二行は矢崎美盛氏の寮歌(大正四年北)の第五節第二行の「櫓」を「枕」とかえただけだが、四行目の「夢よりいでて又夢の」という秀れた捉え方以下で独自なものにしている。第三節の「み星の涙滴りて」とか「玉笛ゆるうすすり泣く」は女学生趣味であり、第四節は、明治四十二年朶寮寮歌(作詞佐野秀之助)の第一節第四節から発想されたものだが、(「若武者」と「白銀のすすき」が共通、「丘の夕」対「秋の夕」、「駒の蹄」対「鎧の露」) それをのりこえて作詞者独自の世界を手際よく纏めている。だがこの歌が、寮歌の中で最もひろくうたいつがれた所以のものは、一つにかかって鬼才箕作氏の作曲である。 「一高寮歌私観」から
園部達郎大先輩 各節各々自立して美しい丘の思いを与えてくれる。昭和11年の紀念祭に初めて駒場を訪れた時、時計台の前の広場で吹奏楽団が、高らかに『若紫」を演奏していた。多くの寮歌の中から特にこれを取り上げていたらしい。そして、その旋律は新墾の明るさに合っているように思った。 「寮歌こぼればなし」から
井下登喜男先輩 「『若紫に』は、大正6年に発表された後の数年間はあまり歌われなかったが、大正10年2月4,5日に行なわれた楽友会演奏会において、この歌のメロディーを主題とした作曲者自身が作曲した円舞曲「若き日の思い出」が演奏され、以後、寮生の愛唱するところとなった。 「一高寮歌メモ」から
森下達朗東大先輩 第一節から第四節までは、『解説』の説くような抽象的な表現方法による詩的情感として、叙情的・女性的な情緒を何なく感じるというだけでなく、むしろ意図的に男女の情愛を裏のテーマとして、ダブル・ミーニングの寮歌と解することも可能ではないかと考える。 「一高寮歌解説書の落穂拾い」から


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