旧制第一高等学校寮歌解説

橄欖のかげ

大正5年第26回紀念祭寄贈歌 東大

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1、橄欖のかげ柏木(かしはぎ)の   花のほのかにかほる春
  友と手を取り丘の()に 語れどつきじ若き胸
*「かほる」は昭和10年寮歌集で「かをる」に変更。

2、外征(そとで)のいくさ勝ちをえて 戰士を抱き歸る時
  くまなくてらす月かげに  歌ひて涙あふれけり

3、み空に星のさゆる夜も 粉雪(こゆき)の窓にふる朝も
  學びの路にいそしみし 三年の夢は清かりき

4、かへりみすれば六寮(りくりょう)に 今日しも自治の灯はともる
  あゝ思ひ出のわくまゝに かたみに祝ふ紀念祭
音符下歌詞(2段3・4小節)「かーほるかな」は「かーほるはる」の間違いである。2段3小節1音と4段3小節1音は、ともに4分音符であったが、これらの小節を完全小節とするために付点を付けた。

譜に変更はなく原譜のままである。ただし、曲頭の曲想文字「徐々に」は昭和10年寮歌集で削除されたが、昭和50年寮歌集で「徐ろに」と復活した。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
橄欖のかげ柏木(かしはぎ)の 花のほのかにかほる春 友と手を取り丘の()に 語れどつきじ若き胸 1番歌詞 橄欖の木陰に、柏の花の香がほのかに香る春、友と一緒に若い胸を弾ませて向ヶ丘に上った。すなわち一高に入学した。その感激喜びは、いくら語っても尽きない。

「橄欖のかげ柏木の 花のほのかにかほる春」
 橄欖は文の、柏の葉は武の一高の象徴。
 「かほる」は、昭和10年寮歌集で「かをる」に変更された。「かをる」(香)は、臭覚的ないい匂いにも視覚的な美しさにもいう。「花」は、柏の花とすれば、どちらか? どちらにしても、憧れの一高に入学した喜びの春を形容。
 柏の花は、4から5月頃、新芽とともに黄褐色の花を開く。本館前の橄欖(実はすだ椎(スダジー))は5から6月頃、香りの強い黄白色の小花を雌雄別々の穂状花序につける。寮歌では植物学上の花の色・形状・香りをいっているわけでなく、あくまでも一高の象徴としての橄欖・柏の木を抽象化して詠う。
外征(そとで)のいくさ勝ちをえて 戰士を抱き歸る時 くまなくてらす月かげに  歌ひて涙あふれけり 2番歌詞 対校試合に勝ち、選手をわっしょいわっしょいと担ぎ上げて帰る時、行く手を隈なく照らす月の光に、みんなで凱歌を歌えば、感激に涙がこぼれてくる。

「外征のいくさ勝ちをえて 戰士を抱き歸るとき」
 対校試合に勝ち、選手をわっしょいわっしょいと担ぎ上げて帰る時。
 「外征のいくさ」とは対校試合、また「戰士」とは選手のことで、第一次世界大戦のことではない。  大正4年の運動部は、まことに好調であった。
 大正4年 4月 5日 野球部好調。この日の対三高戦(一高校庭 6-0)を
              皮切りに、対学習院、慶應戦に連勝、対早大戦には敗
              れる。慶應を下したのは明治36年以来12年ぶりであった。
       10月30日 帝大運動会。1、2着を占め優勝。
       11月 7日 駒場運動会。1、3着で優勝。夜、吾妻橋サッポロビール
               庭園で祝勝会を催す。
 「戰士を抱き歸る時」
 例えば、陸上運動部の駒場運動会の優勝では、駒場から渋谷駅まで選手を担いで帰るのが例であった。
 「競技が終わると応援団は選手を担いでわっしょいわっしょい校門を出て、あの道玄坂の坂を駈け下り渋谷駅まで着くのが例であった。」(「一高応援団史」に転載の昭和34年10月「向陵駒場」)

 「くまなくてらす月かげに  歌ひて涙あふれけり」
 行く手を隈なく照らす月の光に、みんなで凱歌を歌えば、感激に涙がこぼれてくる。
み空に星のさゆる夜も 粉雪(こゆき)の窓にふる朝も 學びの路にいそしみし 三年の夢は清かりき 3番歌詞 空の星が澄んだ光を放ってきれいに輝く夜も、粉雪が窓に降る朝も、一高生は学びの道に励んできた。向ヶ丘3年の思い出は、清くて美しいものであった。

「三年の夢は清かりき」
 向ヶ丘3年の思い出は、清くて美しいものであった。
 
かへりみすれば六寮(りくりよう)に 今日しも自治の灯はともる あゝ思ひ出のわくまゝに かたみに祝ふ紀念祭 4番歌詞 振返って見ると、今日3月1日は、一高寄宿寮に自治の灯がともった記念すべき日である。思い出の湧くままに、26年にわたる一高寄宿寮の歴史を語り合って、お互いに紀念祭を祝おう。

「かへりみすれば六寮に 今日しも自治の灯はともる」
 「六寮」は、東・西・南・北・中・朶六棟の一高寄宿寮だが、明治23年3月1日に開寮したのは、東・西寮の2寮。他の寮は後に増寮された。
 明治23年3月1日 東西寮に入寮許可、開寮紀念茶話会を開催。
    24年3月1日 第1回紀念祭、この日を寄宿寮の紀念日と定める。

「かたみに祝ふ紀念祭」
 「かたみに」は、互いに。かわるがわる。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩  一高の伝統では、選手と寮生とは、文字通り不二一体だった。選手の喜びは吾々の喜びであり、選手の悲涙は吾々の悲涙であった。そこに選手のあらゆるものを犠牲にする部への献身があり、選手のみの戦ではなく、寮生全体の戦いという一体観(そのまま)があった。批判はどうでもできる。しかし、この火と燃える一体観ー選手と一体となって燃えきるいのちがなかったら、吾々の青春とは、何と索漠たる意味なきものだろう。 「一高寮歌私観」から
井下登喜男先輩
この曲はマーラーの歌曲集「さすらう若人の歌」の第2曲 ”この朝、野原を通ったときに”に似ている。
「一高寮歌メモ」から


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