旧制第一高等学校寮歌解説

橄欖の森

大正4年第25回紀念祭寮歌 朶寮

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1、橄欖の森春たけて     今や迎ふる紀念祭
  過去を綾とる柏葉の    緑に映ゆる自治燈に
  二十五年の歌筵(うたむしろ)      いざや祝ん若人よ。
*「祝ん」は大正14年寮歌集で「祝はん」に変更。

6、立て立て健兒時は來ぬ  島帝國の夢破れ
  東亞の天地狭ければ   茫々廣き八(こう)
  柏葉の歌勇ましく      雄圖の(もやひ)今解かん



*2番を除く各番歌詞末の句読点「。」は大正14年寮歌集で削除。
調は「調ロ變」とあったが、「変ロ調」の誤植。

1、大正14年寮歌集の変更
1)調の変更
 変ロ長調からハ長調に移調した。
2)音の変更
①「るはくよーのー」(3段1小節)   ミーレーミーミー
(ブレスは削除)に変更。
②「ろいざやー」(5段1小節)の「やー」 1オクターブ下げ、ドーーに変更。
③「いははんー」(5段2小節)の「はんー」   ソーーーに変更(実質的には同じ)。

2、昭和10年寮歌集の変更
①タタ(連続8分音符)のリズムをタータ(付点8分音符・16分音符)に全て変更した。
②「かんらんのもり」(1段1小節)の「かん」「らん」、および「るはくよーのー」(2段1小節)の「はく」「よー」   
 各4分音符を付点8分音符と16分音符に分割、1音1字に割り当てた。
③3箇所にスラーを付けた。

伝統的寮歌(タータタタがリズムの基本)とは異なるリズムの寮歌が大正2年の諒闇の歌あたりから多く出てきた。大正3年「彌生が岡にまかれにし」もそうだが、この年の寮歌は「廣野をわたる」、「紫の暁」、「橄欖の森」、「晴るゝおもひに」と特に多い。新しい寮歌のメロディー、リズムを目指し、実験を繰り返しているかようである。それにしても伝統的寮歌のリズムに馴れた私などには、この寮歌は歌いづらい。


語句の説明・解釈

1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦を念頭においた寮歌である。

           大正3年 8月 7日 イギリス、日本の対独戦参戦を要請
                    23日 ドイツに宣戦布告(第一次大戦に参戦)
                  9月 2日 日本軍、山東省竜口に上陸開始
                  9月14日 日本海軍、赤道以北のドイツ領南洋諸島占領
                 11月 7日 日本軍、青島占領
              4年 1月 7日 中国、山東省より日本軍の撤退要求
                  1月18日 駐華大使日置益、中国大総統袁世凱に対華21ヶ条の要求を提出
                  2月11日 東京の中国留学生24人、21ヶ条要求に抗議して大会を開催

語句 箇所 説明・解釈
橄欖の森春たけて 今や迎ふる紀念祭 過去を綾とる柏葉の 綠に映ゆる自治燈に 二十五年の歌筵(うたむしろ)  いざや祝ん若人よ。 1番歌詞 向ヶ丘は春たけなわ、今日、寄宿寮の誕生を祝う紀念祭の日を迎えた。先人から連綿として伝えられた自治は、礎も固く隆盛で、赤々と燃える自治燈の灯は、柏葉の緑に映えて美しい。その自治燈の下で、25年の寄宿寮の歴史を偲びながら寮歌を歌って、一高生よ、寄宿寮の誕生を祝おう。

「橄欖の森春たけて」
 一高キャンパス、向ヶ丘。橄欖は一高の文の象徴。
 「この年、昭憲皇太后の崩御(前年4月9日)のため、紀念祭は式のみとし、諒闇明けをまって4月20日に祝賀行事を行ったので、こう表現したのである。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「過去を綾とる柏葉の」
 柏葉は一高の武の象徴。「彩とる」は、女子の遊び綾取(綾糸を指先にかけて作った形を、相手が取っては次々に別の形に変えていく)を踏まえる。
 「『綾とる』は『あやど(彩)る』の意か」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「綠に映える自治燈」
 「綠」は、柏葉の綠。自治が隆盛であることをいう。

「二十五年の歌筵」
 開寮25周年紀念祭。「歌筵」は、歌う宴会。寮歌祭。

「いざや祝ん若人よ」
 「祝ん」は、大正14年寮歌集で「祝はん」に変更された。
西山東の一角に 籠りし敵は今何處 南に荒れし魍魎(もうりょう)も 神風一過名殘無く 吹き拂はれて紺青の 空に囀る初雲雀 2番歌詞 山東半島の青島要塞に立て籠もって、我軍に刃向った独軍は今、跡形もない。南の島を恣に荒してきた化け物も、神風に吹き飛ばされ、その名残すらない。浄められ澄みきった紺碧の南の空には、雲雀が初声を放って囀っている。すなわち日本は占領した南洋諸島に軍政をしいて統治を始めた。

「西山東の一角に籠りし敵は今何處」
 「敵」は、大正3年11月7日、日本の山東出兵で青島要塞を占領されたドイツのこと。 大正3年11月10日には、一高は青島陥落を祝し臨時休校、祝賀式を挙行した。青島の戦いで捕虜となったドイツ軍将兵約4000名は、徳島県の板東捕虜収容所など日本各地の収容所に移送された。

「南に荒れし魍魎も神風一過名殘無く」
 「魍魎」は山や川の精、木石の怪だが、ここでは、大正3年11月14日、赤道以北の南洋諸島を日本に占領されたドイツのこと。

「空に囀る初雲雀」
 占領した日本軍のことを喩えたのであろう。「雲雀」は留鳥または漂鳥であるが、俳句では春の季語。日本は、マリアナ、カロリン、マーシャル群島の占領地を南洋諸島と名付けて、軍政をしいた。その後、大正10年、日本は国際連盟により、占領地の委任統治を受任し、大正11年、軍政を廃止して南洋庁を置いた。
嗚呼大正の大御代に 王師一度動くとき 逆巻く波も凪果てゝ 東洋の空月清し されども健兒ふりさけて 見よ歐州の乾坤を。 3番歌詞 大正天皇の御代に、帝国陸海軍がひとたび動くとき、黄海の逆巻く波も鎮まり返って、東洋の空に月は清々しく照る。すなわち、東洋は、東亜の盟主日本のお蔭で、平和である。しかし、一高生よ、見よ。第一次大戦中のヨーロッパの情勢を。

「王師一度動くとき 逆巻く波も凪果てゝ」
 「王師」は、皇軍。帝国陸海軍。
 「王師の金鼓地を搖れば 敵軍の旗野に亂る」(明治38年「王師の金鼓」1番)

「見よ歐州の乾坤を」
 見よヨーロッパの天下の情勢を。第1次世界大戦のこと。乾坤は天下、天と地。
大正3年6月28日、オーストリア皇太子がサラエヴォで暗殺されたのを契機に、同年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦は勃発した。
文化の花に戯れつ 平和の神の袖に依り 南柯の(ねむり)深くして 歌舞燕樂の只中に バルカン山の夏の夜半 烽火は高く天を指す。 4番歌詞 ヨーロッパ諸国の統治者は、音楽や絵画などの芸術文化に夢中になって、平和にうつつを抜かして夢を貪っていた。宮廷で舞踏会に夢中になっている最中に、夏の夜半、ヨーロッパの火薬庫バルカンに火がつき爆発し、炎は天高く燃え上がっている。

「文化の花に戯れつ」
 「文化の花」は、音楽や絵画などの藝術。「花」は花のパリの花であろう。後句の「歌舞燕樂の只中」と同意。

「平和の神の袖に依り」
 平和にうつつを抜かし、日頃の備えを怠って。

「歌舞燕樂の只中に」
 普通は歌舞音曲というが、饗宴の楽という意味で、燕樂といったのだろう。燕樂は、中国の古代・中世の俗楽。雅楽に対し饗宴の楽をいう。

「南柯の(ねむり)深くして」
 「南柯の睡」は、「南柯の夢」のこと。唐の惇于棼(じゅんうふん)(えんじゅ)の木の南柯(枝)の下に寝て、夢に槐安国(かいあんこく)に至り、大いに出世して栄華をきわめたが、夢がさめてから、その国が蟻の穴(巣)であることを知ったという故事。夢のこと、また、はかないことのたとえにいう。

「バルカン山の夏の夜半 烽火は高く天を指す」
 「バルカン山」は、ヨーロッパの火薬庫。特定の山を指すものではない。大正3年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルナンデス夫妻が、訪問中のボスニアの首都サラエボでセルビア系の青年に暗殺された事件を契機に、ヨーロッパに第一次世界大戦が勃発した。
天柱碎け地維は裂け 幽冥の火は蔽ひ來て マースの(ながれ)血に濁り ピスチュラ河の波荒れて カルパシャンの山の端に 照る天日も光り無し。 5番歌詞 砲火は轟き、天が揺れ、地が割れんばかりである。バルカンに発した戦火は、たちまちにしてヨーロッパ各地に広がっていった。ドイツ軍は、中立国ベルギー・オランダを侵犯して、一気にフランスに迫った。しかし大正3年9月、マルヌの会戦で、フランス軍の猛攻にあい、南下を阻止され、以後、西部戦線は膠着し泥沼の塹壕戦へと入っていった。東部戦線では、大正3年8月、ドイツ軍は、タンネンベルグの戦いでロシア軍を全滅させたが、ここでも戦線は膠着し、消耗戦となった。ロシア軍がビスワ川(ビスチュラ河)の流れるワルシャワを放棄したのは、紀念祭の後の大正4年8月5日のことである。東欧戦線(南東ヨーロッパ地域の戦い)では、オーストリア軍は、大正3年8月から12月に3回に亘るドリナ川渡河作戦を実施し、セルビアに侵攻を試みたが、失敗した。オーストリア軍は、対ロシア・セルビアの2正面作戦を強いられた。
 このように激戦が繰り広げられているヨーローパでは、黒煙が空を蔽って太陽を遮り、昼なお暗くなっている。カルパティアの山に、朝日の昇る日は何時のことか。

「天柱砕け地維は裂け」
 「天柱」は、天を支えているという柱。地維は大地を維持すると考えられた(つな)、転じて大地。

「幽冥の火は蔽ひ來て」
 「幽冥の火」は、冥土の火、すなわち人を殺戮する戦火。「幽冥」は、かすかで暗いこと。冥土。黄泉。大正3年6月28日、セルビア訪問中のオーストリア皇太子夫妻がセルビア系の青年に暗殺されたのを契機に、7月23日オーストリアはセルビアに宣戦布告。29日これにロシアが部分動員令をもって応えると、ドイツは8月1日ロシアに、8月3日フランスに宣戦布告した。翌4日、中立国ベルギーに侵入した。ドイツの中立国侵犯を理由に、イギリスがドイツに宣戦布告した。23日には日英同盟を名目に日本も参戦した。このようにバルカンに発した戦火は、たちまちにしてヨーロッパ各地に広がっていった。

「マースの流」、「ビスチュラ河」、「カルパシャン」は、第一次世界大戦の代表的な戦場をいう。
「マースの流れ血に濁り」
 西部戦線、マルヌの戦い等、独仏間の戦いを踏まえる。
 マースの流れは、フランスを水源とし、ベルギー南部を通って、オランダのロッテルダムでライン川と合流し、北海に注ぐ。ドイツはシュリーフェン・プランにのっとり兵力を西部戦線に集中、ベルギー・オランダの中立を侵犯して、一気にフランス軍の壊滅を図ろうとした。しかし、パリ東方・マルヌ河畔での最初の独仏間の会戦で、フランス軍の猛攻にあい、南下を阻止された(マルヌの戦い)。以後、戦線は膠着状態に陥った。独軍34万人、仏軍36万人にのぼる多数の死傷者を出したヴェルダンの戦いは、紀念祭翌年の1大正5年のことだが、戦場となったヴェルダン要塞は、フランス北東のこのマース(ミューズ)川の畔である。

「ピスチュラ河の波荒れて」
 東部戦線、東プロイセン(現ポーランド)のタンネンベルグの戦い等、独露間の戦いを踏まえる。
 東部戦線では、ドイツは1914年(大正3年)8月、タンネンベルグの戦いでロシア軍を全滅させたが、以後は、ここでも戦線は膠着状態で長期化した。ロシア軍がワルシャワを放棄したのは、1915年(大正4年)8月5日で、紀念祭の後のことである。

 「ビスチュラ河」は、「ルーマニアのビストリッツア川のことか」(井下先輩「一高寮歌メモ」、一高同窓会「一高寮歌解説書」)。しかし、この川は、ポーランドのワルシャワを流れるビスチュラ川(ビスワ川)である。ちなみに、ルーマニアがオーストリアに宣戦したのは、寮歌祭の翌年大正5年8月27日のことで、この時期、ルーマニアでの戦闘はなかったのではないか。
 ビスワ川(Wisla)は、英語・ラテン語ではビスチュラ川(Vistula)という。源流は、ポーランド南部の国境付近の山脈で、南からワルシャワを通り北へと流れバルト海に注ぐ。全長は約1000km。 ポーランド大使館広報部に尋ねたところ、「第一次世界大戦では、ビスワ川付近で激戦はない。有名な『ビスワの奇跡』の戦は、1920年(大正9年)のことである。」とのことであったが、ポーランド軍として戦った戦争はないという意味であろう。 当時、ポーランドは、独露両陣営に国土を分割されており、東部戦線の主戦場であった。ビスチュラ川沿いには、ワルシャワや有名なノボゲオルギエウスク要塞があり、壮絶な戦いが繰り広げられた。 
 
「カルパシャンの山の端に 照る天日も光り無し」
 東部戦線のカルパティア方面での独墺軍と露間の戦い等を踏まえる。この方面では、大正4年1月、ロシア軍はトランシルヴァニア(現ルーマニア)に侵攻したが、オーストリア軍によって撃退させられた。東部戦線では第一次大戦の発端となったオーストリアとセルビアの戦いも前後3回に渡り、セルビアで繰り広げられた。
 カルパシャンの山は、カルパテイア山脈。中央ヨーロッパから東ヨーロッパにまたがる。全長約1500km。スロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアにまたがり、周辺にチェコ、ハンガリー、セルビアの諸国がある。「山の端」は、山を遠くから眺めた時の山の稜線。「カルパティア山脈の端」と解せば、セルビア方面も入る。
 「照る天日も光り無し」は、戦場となったカルパティア山脈周辺では、戦雲が空を蔽い昼なお暗い。「天日」は太陽のことであるが、暗にハプスブルグ家を喩えるか。「山の端」を、山の稜線と解した場合は、「天日」は日の出となり、戦場には輝く朝日が昇ることがないの意となる。
 具体的な戦いは特定し難いが、カルパティアを戦場に、主に独墺軍と露軍の間で戦いが繰り広げられた。前述のとおりカルパティア山脈の端のセルビア方面では、大正3年8月から12月、3回にわたりオーストリア軍とセルビア軍とが戦った。この戦いで、オーストリア軍はセルビアを攻略することができず、大戦の主目的を達成できなかった。ちなみにセルビアを攻略できたのは、大正4年9月にブルガリアが同盟国側で参戦し、セルビアに宣戦してからである。同年10月、ドイツ軍がドナウ川を渡りベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破してセルビアに侵攻したため、セルビア軍と国王はアルバニアとギリシャに逃亡した。
 「ラバ・ルスカヤ(現ウクライナ西部)の戦い(1914/9/3~9/11)で墺軍が露軍に大敗、リヴォフを経てカルパチア山脈まで160kmも退却したことを指すと考えられる。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
立て立て健兒時は來ぬ 島帝國の夢破れ 東亞の天地狭ければ 茫々廣き八(こう)に 柏葉の歌勇ましく 雄圖の(もやひ)今解かん。 6番歌詞 立て立て、一高健児よ、立つべき時が来た。今や一高健児の活躍の舞台は、島国日本から東亜の天地に、さらに果てしなく広い世界へと広がった。一高寮歌を勇ましく歌いながら、夢は大きく世界へ飛躍するために船出しようではないか。

「茫々廣き八紘に」
 果てしなく広い世界へ。八紘は八方の意。八紘一宇。

「雄圖の舫今解かん」
 「雄圖」は、雄々しい計画。世界への飛躍。「舫」は、ここでは舫い綱の意。船と船を繋いでいる綱。「舫今解かん」は、いざ船出のために舫い綱を解こう。いざ船出しよう。
                        

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