旧制第一高等学校寮歌解説

あゝ香蘭の

大正3年第24回紀念祭寄贈歌 東大

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1、あゝ香蘭の香を()めて  早春淺く色染めぬ
  光ゆたかにあふるれば  霞になびく野をこえて
  靑牛玉車(わだち)ほがらに   軋りひヾかせ行くは誰ぞ。
*「霞になびく」は昭和10年寮歌集で「霞たなびく」と訂正 

3、あゝ向陵に訪ひ來れば  昔ながらの色見せて
  暮れ行く柏の森かげに  君が瞳の麗しや
  夕月清く溢るゝ光に    散ろう橄欖花白し。
「散ろう」は昭和10年寮歌集で「散らふ」に訂正   

6、今宵紀念の花(うたげ)      二十四年の春の歌
  あゝ向陵にかへり來て   燈火(ともしび)あかき自治燈に
  春の(しらべ)をうちかなづれば  彌生は空に薫るかな


*1番から5番歌詞末の句読点「。」は大正14年寮歌集で削除。
音符下歌詞「きしりいさましく」(第6段1・2小節)は「きしりひヾかせ」の間違い。

ヘ長調では高音部が多く、歌いづらかったのか、昭和10年寮歌集で、5度低い変ロ長調にキーを落とした。譜の変ったのは、最後の句「行くは誰ぞ」の「ゆくはた」(6段3小節)の部分。4分音符レーシーが、付点8分音符と16分音符に、それぞれレーレ(ゆく)シーシ(はた)と力強い歯切れのよい締めとなった。その他4箇所にスラー・タイが付いた。


語句の説明・解釈

「各節5句目を見ると、第一節~第四節では音数が「七・八」となっている。それが第五節では逆転して「八・七」に、第六節では「七・七」に変る。おそらく内容的な曲折と相関した音数の変化であろう」(一高同窓会「一高寮歌解説書」註書)。王座から陥落し、長期不振に喘ぐ後輩に対する鼓舞激励の気持ちが高ぶって、韻律を狂わせたのではないか。歌詞4・5番は普通は歌わないが、作者の云わんとする所は、お公家のようにのんびりと牛車に乗り、玉笛を吹いて散り行く桜に春を惜しむ一高生を描く1・2番ではなく、「隠れ行く影永久に空しきに 殘る姿のさびしきや」と現状を嘆き、「いざや軋らせよいざや奏でよ この世の猛者を誇るべく」と一高生を鼓舞する4・5番ではないかと思う。

語句 箇所 説明・解釈
あゝ香蘭の香を()めて 早春淺く色染めぬ 光ゆたかにあふるれば 霞になびく野をこえて 靑牛玉車(わだち)ほがらに 軋りひヾかせ行くは誰ぞ。 1番歌詞 早春の春の日ざしが向ヶ丘に溢れんばかりに豊かに降り注ぐので、丘は、匂わしい香りを込めた若草が萌え出でて、薄緑色の春の色に染まった。霞のたなびく野を越えて、美しく着飾った黒い牛の牽く御車が車輪の音を軽やかに軋ませながら通り過ぎて行く。乗っているのは、どこの誰であろうか。

「霞になびく」
 昭和10年寮歌集で、「霞たなびく」と変更された。

「靑牛玉車轍ほがらかに 軋りひゞかせ行くは誰ぞ」
 「靑牛玉車」は、黒い牛の牽く美しく飾った牛車。仙人や貴人の乗り物。「玉車」及び4番歌詞の「香輪」は、いずれも一高生愛用の高下駄を暗喩するという。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 高下駄にマント姿で闊歩する一高生を喩えるものであろう。
 「第一~三節において、春の訪れとともに紀念祭を迎えた母校向陵の輝かしいたたずまいと、そこに学ぶ若々しい後輩寮生たちの清らかでうるわしい姿とを、『玉車』の『轍(わだち)』のほがらかな響きや、玉笛の美しい調べなどに喩えつつ讃美し」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
散り行くさくら影のせて  流るゝ水の末遠し 春の朧に舟浮けて 清き調べの夜もすがら 聴けやまたなき世の春(たゝ)ゆと 響くは誰が笛ならむ。 2番歌詞 桜の花が散って、花びらが川面に浮んで、川の流れをどこまでも下っていく。月も朧に霞む川に舟を浮かべ、一晩中、妙なる調べを奏でながら、花見と洒落ている者がいる。行く春を惜しみ、風流にも笛の音を響かせているのは、どこの誰であろうか。

「散り行くさくら影のせて」
 「影」は、水や鏡にうつる物の姿も、光によって見える実際の物の姿も、影という。びっしり川面を埋めた花筏の状態ではないが、花吹雪となって散った相当の数の花びらが水面に浮んで流れているのであろう。

「春の朧に舟浮けて」
 隅田川に舟を浮かべて、花見と洒落ているのか。本郷・一高に近い桜の名所は、墨堤(特に東岸、今の隅田公園あたり)と東臺(上野寛永寺)の花であるが、川に舟を浮かべてとなると、墨堤であろう。東臺の花の場合は、不忍池となるが、貸ボートが営業開始となったのは昭和6年のことである。
 蘇軾 「春宵一刻値千金 花に清香有り月に陰有り 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈」

「またなき世の春讃ゆと」
 「またなき世の春」は、二度とない青春と過ぎゆく春を惜しむ心をいう。「またなき」は、ふたつとない、他にない。「行く春を惜しみ」と訳した。

「響くは誰が笛ならむ」
 なにを優雅に笛など吹いているのかの意。牛車に笛と一高生を光長閑に散りゆく桜を惜しむお公家さんのごとく描く。森下達朗東大先輩は、この笛(4番では玉笛)を「一高生の愛唱する寮歌、あるいは一高生の吹く笛を指す。」とする(「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 笛は、草笛を美化したものか。
 李白 「春夜洛城に笛を聞く 誰が家の玉笛ぞ暗に聲を飛ばす 散じて春風に入って洛城に滿つ 此の夜曲中折柳を聞く 何人か起こさざらん故園の情」
あゝ向陵に訪ひ來れば 昔ながらの色見せて  暮れ行く柏の森かげに 君が瞳の麗しや 夕月清く溢るゝ光に 散ろう橄欖花白し。     3番歌詞 向ヶ丘を訪ねて見れば、昔と変わらない光景で懐かしい。夕暮、柏の下蔭で友と語り合う君の姿は、瞳が輝いて美しい。夕月の澄んだ光をいっぱい受けて、橄欖の白い花は、ひらひらと、しきりに散っている。

「あゝ向陵に訪ひ來れば」
 一高と東大は、言問通り一つ隔てただけの隣どうしである。「向陵」は、向ヶ丘の美称。

「柏の森かげに」
 一高キャンパス。柏の葉は一高の武の象徴。

「散ろふ橄欖花白し」
 「橄欖」は、一高の文の象徴。一高本郷の橄欖は本館前のすた椎(スダジー)である。椎の花は5,6月頃に咲く(黄白色)。「散ろう」は昭和110年寮歌集で、「散らふ」と変更された。「散り」に反復・継続の接尾語ヒのついた形で、しきりに散るの意。
 「橄欖の花白し」の「白い花」は、俗界の塵に塗れることのない一高の清い心を象徴する。一高精神が「頻りに散っている」とも解することが出来る。
香輪(かうりん)しばし(とゞ)めずや 玉笛(いまし)音を秘めよ なれが奏での底遠く もるゝ響の奇しくも 隠れ行く影永久に空しきに 殘る姿のさびしきや。 4番歌詞 牛車をしばし止め、笛を吹くのを止めよ。優雅にのんびりと春を楽しんでいる時ではない。君が奏でる笛の音がいかにゆかしく霊妙に響こうとも、散った桜の花は二度と桜の枝に戻り光り輝くことはない。葉桜となった桜の木は、哀れではないだろうか。

「香輪しばし止めずや 玉笛汝音を秘めよ」
 牛車を止め、笛を吹くのを止めよ。優雅にのんびりと春を楽しんでいる場合ではない。

「なれが奏での底遠く もるゝ響の奇しくも 隠れ行く影永久に空しきに 殘る姿のさびしきや」
 君が奏でる笛の音がいかにゆかしく霊妙に響こうとも、散った桜の花は二度と桜の枝に戻り光り輝くことはない。葉桜となって残った桜の木は、さびしく哀れである。具体的に何を言おうというのか。難解であるが、次の2説のうち、私見は、全体の脈絡(特に次の5番歌詞)から第1説の「運動部不振説」とする。
 1.運動部不振説 
 大正2年から3年初め、一高運動部は野球部が早慶に連敗し、陸運も駒場運動会・帝大運動会で敗北、さらに対二高柔道戦で柔道部も敗北した。運動部のこのような敗北・不振を踏まえる。
 2.新渡戸校長辞任説
 「君たちが昨年歌った『新渡戸校長惜別歌』(「なれが奏で」)の響きに霊妙な力があったとしても、去って行かれた新渡戸校長は、もう一高にお戻りになることはなく、残された君たち一高生は、悄然としているのではなかろうか。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 「その笛の音は地の底に遠くしみとおるごとく、もれてくる響きもあやしげになる。乗物の影も永久に隠れ、その残像の淋しさに堪えがたい。第一~三節に讃美してきた乗物のさま、優雅な笛の音、そのロマンチックな情況が一転して、空しく失われていく淋しさへと転ずる。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
  
さはれ悲愁の影寒く 誰かはあはれ嘆くべき 運命(さだめ)の聲のもるゝ時 生命(いのち)永久(とは)につなぐべき いざや軋らせよいざや奏でよ この世の猛者(もさ)を誇るべく。 5番歌詞 そうであるからといって、悲しみに深く沈んで、誰かこのあわれを嘆くべきであろうか。歎いている暇などない。向陵生活は三年で終わる定めである。輝かしい運動部の栄光を取戻し、これを永久に伝えて欲しい。全寮生一丸となって尚武の心を振い起し、猛練習に猛練習を重ね、王座を奪還して天下に一高ありと示そう。

「さはれ悲愁の影寒く 誰かはあはれ嘆くべき」」
 「悲愁」は、悲しみに深く沈む気持ち。「かは」は、係助詞カと係助詞ハの連語で、反語、または疑問の意を表す。
 「その空しさを、ああだれが嘆いてくれようか」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

運命(さだめ)の聲のもるゝ時 生命や永久につなぐべき」
 「運命」は、高校生活は三年で終わり、向ヶ丘を去らねばならないこと。「生命や永久につなぐべき」は、一高運動部の輝かしい伝統をここで絶やさないで、後輩につないでいかなければならない。「生命」は、一高の輝かしい伝統、精神。勤儉尚武の心。
 「こうした運命の声が洩れてくる時、だれ一人として永久に生きられるものはいないのだから、ただ淋しがって悲しんでばかりはいられない。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「新渡戸先生ご自身の辞意が固く、いつまでも校長として留まっていただくわけにはいかないということがわかったのだから。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「いざや軋らせよいざや奏でよ この世の猛者を誇るべく」
 全寮生一丸となって尚武の心を振い起し、猛練習に猛練習を重ね、王座を奪還して天下に一高ありと示そう。ここで奏でる笛は、一高生を鼓舞する笛である。
 「この世を強く生きていく誇りを捨てない一高生の心意気をもって(後輩たちよ)立ち上がってほしい。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「さあ、気持ちを切り替えて、朴歯の高下駄を鳴らして闊歩し、寮歌を高唱して、一高生の誇りと心意気をぜひ見せてほしいものだ。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
今宵紀念の花(うたげ) 二十四年の春の歌 あゝ向陵にかへり來て  燈火(ともしび)あかき自治燈に 春の(しらべ)をうちかなづれば  彌生は空に薫るかな 6番歌詞 今宵は、第24回紀念祭の楽しい宴の宵である。あゝ懐かしい向ヶ丘に帰ってきて、赤く輝く自治燈の下で紀念祭寮歌を高誦すれば、その歌声は向ヶ丘の空に響き渡る。

「二十四年の春の歌」
 寄宿寮開寮24周年紀念祭の歌。

「燈火あかき自治燈」
 自治燈の灯が明るく輝く意であるが、同時に、一高寄宿寮の自治の礎が固く、揺るぎないものとなっていることを示す。

「彌生は空に薫るかな」
 早春の向ヶ丘の空に寮歌の声が響き渡る。「彌生」は、向ヶ丘、三月、繁栄の三つの意をかける。「薫る」は、響き渡る。
                        

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