旧制第一高等学校寮歌解説

彌生が岡の

大正3年第24回紀念祭寮歌 東寮

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1、彌生が岡の夕まぐれ   そびえて高し六つの城
  仰ぐ姿はかはらねど    光榮(はえ)の歴史はのこれども
  岸を洗ひて荒れまさる   時の流れの強きかな。

2、廣野の秋の夕雲を     望めば悲し永久(とこしへ)
  去りにし光榮の跡もなく   我礎をゆるがせて
  (すさ)ぶ野分に若人が     胸の血潮のたぎるかな。

3、甍に苔の色深く       花の梢の古りぬれど
  桂の枝に血塗りてし     猛き男の兒や今いづこ
  (つちか)ふ人の跡たへて      庭の柏樹(かしはぎ)枯れむとす

*「跡たへて」は昭和10年寮歌集で「跡たえて」に変更。
*各番歌詞末の読点「。」は大正14年寮歌集で削除。
変更の概要は、次のとおりである。

1、調
大正14年寮歌集で、ト長調から変ロ長調に変わった。

2、メロディー
メロディーは8箇所変った(赤字が変更箇所)。
①大正14年寮歌集
「かはらねど」(ララソ)、「歴史は」(ソミソ)、「のこれども」(ラソラソ)、 「時の」(ラド)、「流れの強き」(ラソソ(高)(高)ミレ)。
②昭和10年寮歌集
「高し」(ラドラソ)、「六つの城」(ミミソラ)、「荒れまさる」(ドドミレ)。「そびえて高し」の「高し」は、「ーかしー」から「ーアかし」と歌うようになった。

昭和10年寮歌集で、最後のブレスの位置(8段1小節3音のあと)が、小節末に移動され平成16年寮歌集でも踏襲されているが、これは印刷ミスであろう。「時の流れの」で切って、「強きかな」と続ける。


語句の説明・解釈

 大正2年度の一高運動部の成績は、以下のとおり惨憺たるものであった。この寮歌は栄光ある一高運動部の復活と、来たる4月6日に予定されている対三高野球戦の必勝を訴えるものである。
   大正2年 5月10日  対早稲田野球試合  0-9で敗れる。慶應にも敗れる。三高とは諒闇のため対戦せず。
         11月16日  駒場運動会  先頭を切っていた一高選手が明治大学選手に妨害を受けて遅れ、慶應の
                  選手が1着となり、一高の抗議でもめる。
      3年 1月 7日  第4回対二高柔道試合(於二高大講堂) 一高応援隊50数名 二高大将を残し一高敗れる。 
 「本寮歌では第三節まで、専らその栄光の消失、伝統的精神の衰退を歌っているのは異例というべきであろう。その原因の一つは運動部の活躍ぶりの停滞、特に明治36年頃までは無敵を誇っていた野球部が、同37年以降、早稲田、慶應に連敗するような事態に立ち至ったことであろう。・・・・本寮歌の作詞者が最も力説したかったのは、かっての文武両面における栄光の回復への強い願いであったことが、第四節の表現によって明らかである。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)  

語句 箇所 説明・解釈
彌生が岡の夕まぐれ そびえて高し六つの城  仰ぐ姿はかはらねど 光榮(はえ)の歴史はのこれども 岸を洗ひて荒れまさる 時の流れの強きかな。 1番歌詞 夕間暮れ、彌生が岡に一高の六つの自治寮が聳え立つ。仰ぐ自治寮の姿は、昔と変わらないが、また、かっての栄光の歴史は残っているが、このところの運動部の不振は目を覆うばかりである。

「彌生が岡」
 向ヶ丘。本郷一高は本郷区向ヶ丘彌生町にあった。

「そびえて高し六つの城」
 向ヶ丘に聳え立つ六つの寄宿寮(東・西・南・北・中・朶寮)。
「向ヶ岡にそゝりたつ 五寮の健兒意氣高し」(明治35年「嗚呼玉杯」1番)。「嗚呼玉杯」の当時より、朶寮が1寮増えている。

「光榮の歴史はのこれども」
 明治37年6月、14年間無敵を誇った野球部は、早慶に相次いで敗れ、覇権を失った。栄光の歴史は残っているが、未だ覇権奪還はなっていない。
 「隅田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲」(明治36年「彌生が岡に地を占めて」2番)
 「南の濱に上げし名や 花に隅田の勝歌や 響は胸に殘れども 忍べば遠き榮の跡」(明治40年「朝金鷄」2番)

「岸を洗ひて荒れまさる」
 このところの運動部の不振をいう。既述のとおり、野球部は早慶に、柔道部は二高に敗れた。陸運部も駒場運動会で優勝を逸した。このように過去の栄光の歴史の遺産は、このところの運動部の不振により、次第に取り崩されていった。その結果、「去りにし光榮の跡もなく 我礎をゆるがせて」いる(2番歌詞)。
廣野の秋の夕雲を 望めば悲し永久(とこしへ)に 去りにし光榮の跡もなく  我礎をゆるがせて (すさ)ぶ野分に若人が 胸の血潮のたぎるかな。 2番歌詞 広野の彼方に夕日が落ちていく。その夕日に赤く映えた秋の夕雲を眺めていると、運動部の不振が思い出され悲しくなる。一高運動部の栄光ある歴史は永久に過去のものとなり、今は跡形もない。野球部が早慶に続き、西の豎子と侮っていた三高野球部にも連敗するようなことがあっては、自治共同の根幹を揺るがす大問題である。是が非でも勝たねばならないと、征西を前に一高生は全寮あげて胸の血潮を滾らせるのである。

「秋の夕雲」
 真っ赤に燃えた夕焼け雲であろうか。秋の雲は、さば雲、いわし雲、うろこ雲(巻積雲)、すじ雲(巻雲)、ひつじ雲(高積雲)等で、澄んだ空に繊細な姿を見せる。例えば、ひつじ雲であれば、大きく厚いために雲の底に薄灰色の影が出来て、横方向から光の射す朝方や夕方には、特に美しい姿を見せる。
 安藤野雁 「ながめむかふ心々にかなしさの 色さだまらぬ秋の夕雲」

「去りにし光榮の跡もなく」
 このところの運動部の不振で、かっての栄光もどこへやら消えてしまった。

「我礎をゆるがせて」
 「我礎」は、自治共同。全寮制の一高の運動部員は、すなわち寮生であり、対校試合は全寮生の戦いであった。野球部の対校試合の相手は明治時代の早慶から、大正時代に入り三高へと集中していく。四部(端艇・野球・陸運・庭球)の対校戦が始まったのは大正13年のことである。
 
「荒ぶ野分に若人が 胸の血潮のたぎるかな」
 大正3年4月に予定していた征西、対三高野球戦を踏まえる。明治45年4月7日、一高球場で行われた前回試合は、0-3Aで一高の負け。雪辱に燃えていた。「野分」は、秋、二百十・二百二十日頃に吹く激しい風。野の草を吹分けるの意。ただし、対三高野球戦は、秋ではなく春に行われた(大正3年は4月6日)。
 「勝か負か、一高野球部の興廢はこの遠征にかゝって居る。9人の心には敗れて再び江戸の地を踏まずといふ深い決心が滿ち溢れた。3月31日の夜壯烈なる寄宿寮委員の激勵の辭に答へた古田島キャプテンの斷乎たる決心の言葉の裏には尊い男らしい涙が滲み出て居た。かくて咲き匂ふ花に静々と降りそゝぐ春雨に濡れつゝ一同は京都遠征の途に上ったのであった。」(「向陵誌」野球部部史大正3年)
甍に苔の色深く 花の梢の古りぬれど 桂の枝に血塗りてし 猛き男の兒や今いづこ (つちか)ふ人の跡たへて 庭の柏樹(かしはぎ)枯れむとす。 3番歌詞 一高の歴史が古くなって、花芽を付ける梢も古枝となったが、ひたすら勝利を祈願して、血の滲むような猛稽古に励んだ猛々しい一高健児は、今、どこに消え失せてしまったのか。一高の伝統である勤儉尚武の心が後輩に承継されなくなって、柏樹、すなわち一高の伝統精神は、今まさに枯れようとしている。

「甍に苔の色深く 花の梢の古りぬれど」
 一高の歴史が古くなって、花芽を付ける梢も古枝となったが。

「桂の枝に血塗りてし」
 勝利(桂の枝)を目指し、血のにじむ様な猛稽古をしたの意。
 「桂の枝」は、古代ギリシャでアポロン神殿の霊木月桂樹の枝葉を輪にして冠とし(桂冠)、演劇や音楽等の藝術競技の優勝者に被らせて賞賛の意を表した。あるいは、中国で進士の試験、すなわち高等文官試験に合格することを「折桂」いう。ちなみに、古代ギリシャのオリンピアのゼウス神殿の4年目ごとの祭典に伴う体育の競技の優勝者に与えられたのは、聖なるオリーブの枝で作った冠であった。対三高野球戦に関連し「桂の枝」といったとすれば、体育競技の「オリーブの枝」の意味であろう。
 「血塗る」は「釁る」で、昔、中国で犠牲を殺してその血を祭器に塗り、または敵を殺してその血を鼓等に塗って、軍神を祭ったことから、刀剣に血を塗ったり、戦ったり人を殺したりすること。ここでは、必勝祈願して血の滲むような猛稽古をするほどの意。

 「昔偲びてオリンピア 桂の枝も手折るべく」(明治36年「筑波根あたり」8番)
 「桂冠さゝげ颯爽の 英姿一千こゝにあり」(明治39年「あゝ渾沌の」6番)
 「血塗りてし歌にひゞきはありやなし」(昭和22年「りょうりょうと」4番)
 「勝たねばやまぬ雄心に 血を啜りけむ悽慘の」(明治43年「柏の旗の」2番)

「培う人の跡たへて」
 庭の柏樹の面倒をみる人がいなくなって。一高の伝統である勤儉尚武の心が承継されなくなって。「跡たへて」は、昭和10年寮歌集で「跡たえて」に変更された。

「庭の柏樹枯れんとす」
 一高の伝統である勤倹尚武の心は今まさに枯れようとしている。柏は一高の武の象徴。
噫吾友よ圓かなる 春の夢より醒め出でゝ 凝りてゆかしき橄欖の 露の流に口(そゝ)ぎ 櫻散り()く銀鞍に (つるぎ)()らむ時ぞ今。 4番歌詞 あゝ我が友よ、のどかな春の夢に浸っている場合ではない。目を醒まして、勝たねば止まぬ一高精神を我が胸に叩き込め。今こそ三高野球部を打ち負かして、前回の雪辱を果たす時である。全寮生よ起ちあがれ。

「醒め出でゝ」
 昭和50年寮歌集で「醒め出でて」に変更された。

「橄欖の露の流に口(そゝ)ぎ」
 一高精神をたたきこんで。橄欖は一高の文の象徴。ここでは武と文を区別せず一高精神。ミネルバ(橄欖、アテナ)の神は、また武の神でもある。「橄欖」を一高の文の象徴と見て、この4番歌詞を「一高の文武の栄光の回復への強い願い」を表現するとの解釈もある(既述の一高同窓会「一高寮歌解説書」)。しかし、次の句「劍を把らむ時ぞ今」から、また運動部の不振を歎き挽回せんとする全体の脈絡から、如上の解釈とした。

「櫻散り敷く銀鞍に」
 「櫻」は、三高野球部を喩える。桜の散り敷く銀鞍に飛び乗って、すなわち三高野球部を尻に敷いて。
 「桜の花が散りかかっている立派なくらに乗って、『春爛漫の花の色』中の『銀鞍白馬華を衒ひ』の『銀鞍』は、華美をてらう人の乗っている鞍を指しているが、しかし、ここでは、心の貴公子である一高生の乗るくらとして、たたえている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「さらばしばしの櫻狩 山も眠れる平安を 健兒の意氣にさまさんか」(明治41年「彌生が岡の花がすみ」4番)

「劍を把らむ時ぞ今」
 今こそ三高野球部を打ち負かし雪辱を果たす時である。
 「4月2日。わが野球部選手および應援隊西下す。洛陽の地今や柏葉旗燦として輝き必勝を期せる選手の意氣正に天に沖せり。6日三高グラウンドに於て戰開かる。囘を重ぬること正に十三。その間選手の奮戰、應援隊の激勵、相合して白熱し、遂に4對1を以て大勝せり。見よ寮友は選手を相擁して舞踊禁ずる能はず凱歌を高唱しつゝ祝勝會場へ至るを。先輩の演説更に氣勢を煽り深更に及びて漸く散會す。」(「向陵誌」大正3年4月)
 
君見ずや今丘の上に 萠せる春の淺くして 廿四年の紀念祭 夕べ潤ふ灯火(ともしび)は 若き瞳の輝けば 酒杯にうつる花の影。 5番歌詞 君、見てごらん。草木が芽吹く春浅い向ヶ丘で、今宵、寄宿寮の24回目の紀念祭が催されている。春の宵を趣深く点す灯火に、若き一高健児の瞳が輝けば、酒杯に桜の花の影が映る。

「君見ずや」
 この年の紀念祭は晴天に恵まれ、参観者が多数つめかけた。校門をしばしば閉鎖して入場制限するほどの盛況であった。前年の紀念祭は、明治天皇の諒闇中のために、一切の飾付・余興を禁止し、先輩以外の入場は認めなかった。

「夕べ潤ふ灯火は」
 「潤ふ」は、豊かになる。趣深くなる。「灯火は」は、昭和50年寮歌集で「燈火に」に変更された。
 「五寮春今自治燈に 宵を灯ともす紀念祭」(明治36年「綠もぞ濃き」6番)

「酒杯にうつる花の影」
 「花の影」は、桜の花。三高野球部を暗喩するか。そうだとすれば、三高野球部をひと息に飲みこんでやろうの意となる。
 「嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし」(明治35年「嗚呼玉杯」1番)
                


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