旧制第一高等学校寮歌解説

暮靄罩れる

大正2年第23回紀念祭寄贈歌  東大

スタートボタンを押してください。ピアノによる原譜のMIDI演奏がスタートします。 スタートボタンを押してください。現在の歌い方のMIDI演奏がスタートします。
1、暮靄罩れる桃山に   
  片鎌月の影淡く
  消えゆく空の淋しさは 
   天地もあはれを知れるかや

2、咄何事ぞ政客は    
   恭虔の念更になく
  只政権にあこがれて  
   蠻觸の闘争日も足らず
5段4小節、次の6段1小節の伴奏部分は、メロディー部分とは、別に表示されていた。これを同じ小節に表示したため、5段4小節のメロディー部分の譜が不正確となった。正しい譜は、5段4小節が4分音符のド 4分休符。次の6段1小節は、2分休符である。1番と2番以下で拍子の異なる寮歌は、これ以前に明治37年東京帝國大學寄贈歌「思ひ出づれば」がある。

伴奏が曲頭および1番から2番の変わり目にあるが、昭和10年寮歌集で削除された。同時にModerato、ModerateおよびMarcatoの速度記号ないし曲想文字も削除され、Marcato(はっきりと。音を伸ばさず一音一音に強調して)に代り、 強弱記号のf(フォルテ)が2番の最初に表示された。現譜では、2番以下の譜に反復記号が付く。

歌詞メロディーは、現譜もほぼ同じであるが、最下段2小節の「ばんしょくの」のソドーラが現譜ではドドラの8分音符の3連符に変わった。1番の最終小節(第5段4小節)から、原譜では4分の2拍子に変っているが、現譜では、伴奏部分がなくなったこともあり、8分の6拍子のまま、4分の2拍子に変るのは、2番(第6段2小節)からであるブレスが三箇所についた(「てんちも」、「あはれを」、「さらになく」のそれぞれ次)。
 以上の変更は全て昭和10年寮歌集においてなされた。
                           


語句の説明・解釈

明治天皇崩御の諒闇の歌。諒闇については、同年東寮々歌「さゝら流れの」参照。

語句 箇所 説明・解釈
暮靄罩れる桃山に 片鎌月の影淡く 消えゆく空の淋しさは  天地もあはれを知れるかや 1番歌詞 夕暮、靄が立ち込める明治天皇の伏見桃山陵に、三日月の光は弱く暗い。やがて、空が次第に闇にのみこまれて、辺り一面が暗くなり、もの悲しい静寂の世界が訪れた。天も地も、ものみな、明治天皇の死を嘆き悲しんでいるのだ。

「暮靄罩れる桃山の」
 夕方の靄が立ちこめる伏見桃山陵の。桃山は、明治天皇が葬られた伏見桃山陵。

「片鎌月」
 片鎌とは、穂先の片側にだけ枝(鎌の刃)のある槍。その鎌の恰好をした月、三日月。

「消えゆく空の淋しさは」
 辺りはだんだんと暗くなって空が見えなくなる淋しさ。「空」を天と解すれば、「消えゆく空」は、明治天皇の死を意味する。
咄何事ぞ政客は 恭虔の念更になく 只政権にあこがれて 蠻觸の闘争日も足らず 2番歌詞 何たることか政治家は。うやうやしく慎むなどという考えは毛頭なく、取るにたらない細かい議論ばかりして、政権闘争に明け暮れている。

「咄何事ぞ政客は」
 何たることか政治家は。咄は驚き怪しんで、自問する意をあらわす。

「恭虔の念さらになく」
 うやうやしく慎むなどという考えは毛頭なく。

蠻觸(ばんしょく)の闘争」
 取るにたらない細かい議論ばかりして、政権闘争に明け暮れている。一高寮歌で、時の政治・政党を真っ向から批判したものは、極めて珍しい。 
 「蠻」は、蝸牛の角、「臅」は左の角のことで、「蝸牛角上の争い」(荘子則陽)に同じ。すなわち、蝸牛の左の角に国をもつ触氏と右の角に国をもつ蛮氏とが互いに戦ったという寓話から、大局から見ると意味のないような小さな事柄で争うこと。ささいな争いや、取るに足りない細かい議論を言う。
 明治45年6月富山県下に米騒動が起こるなど、米価騰貴で下層民の生活は困窮していた。折も折、上原陸相の2個師団増設案閣議否決を端緒として、西園寺内閣が総辞職するなど、憲政は未曽有の大混乱に陥った。全国各地に憲政擁護運動が広がった時である。

大正元年12月 2日 上原陸相、閣議での2個師団増設案否決を不満とし単独辞表提出。
5日 西園寺内閣総辞職。松方正義・山本権兵衛・平田東助、後継首相を辞退。
17日 桂太郎に組閣命令。
2年1月 21日 議会に15日間停会命令
2月  5日 国会再開、政友・国民両党、内閣不信任決議案提出、議会に5日間停会命令。
10日 再開の議会を護憲派の民衆とりまく。桂首相、内閣総辞職を決意、議会に3日間停会命令。民衆、政府系新聞社・交番などを襲撃、大阪・神戸・広島・京都にも波及。
23日 政友会の尾崎行雄ら脱党(24日 政友倶楽部結成)

 
奸佞路に塞がりて 三顧の士をも顧みず 斗筲の才の時を得て 臥龍の氣を吐く機もなし 3番歌詞 軍部大臣現役武官制を楯に陸軍は陸相の後任を拒否したために西園寺内閣は退陣に追い込まれた。元老会議が三顧の礼を以て後継首相に迎えようとした松方正義・山本権兵衛・平田東助の3名の候補者は、陸軍の2個師団増設と陸相後任問題の混乱を恐れ、首相就任を辞退した。藩閥政治や陸軍の横暴のために、三顧の礼をもって迎えるべき立派な人物に一顧だにされないで、器量の小さい人物がもてはやされ、大人物は活躍する機会がない。

奸佞(かんねい)路に塞がりて」
 「奸佞」は、心がねじけて人にへつらうこと。また、その人。閣議で陸軍2個師団増設案を不満として上原陸相が単独辞表を提出、陸軍は軍部大臣現役武官制を楯に、陸相の後任を拒んだ。そのため当時の西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。具体的に「奸佞」は陸軍、その後ろで糸を引く陸軍のボスで元老の山縣有朋をいうか。

「三顧の士をも顧みず」
 三顧の礼をもって迎えるべき大人物に一顧だにしないので。西園寺内閣総辞職の後、松方正義・山本権兵衛・平田東助が後継首相を辞退したことを踏まえる。陸軍は、人物よりも2個師団増設容認を最優先したといいたいのだろう。
 「三顧」は、三顧の礼。蜀の劉備が三たび諸葛孔明の庵を訪れて、軍師に迎えた故事から、目上の人が礼を厚くして人に仕事を引き受けてくれるように頼むこと。
 「三顧の士」は、元老会議が首相候補に推薦した前述の松方正義、山本権兵衛、平田東助の3名をいうと解する。ただし、平田東助などは山縣閥の重鎮であり、若干の疑問は残る。ちなみに後継首相を推薦した当時の元老は、山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌、西園寺公望(後に桂太郎も加わる)。昭和9年には、他の元老達が死亡したため、元老は西園寺公望一人となった。

斗筲(とそう)
 「斗」は1斗を入れる量器、「筲」は1斗2升を入れる竹器で、器量の小さいこと。度量のないこと。松方正義・山本権兵衛・平田東助が後継首相を辞退したため、桂太郎に組閣命令が出た。桂首相は、政友・国民両党の内閣不信任案に対し、議会に停会命令を出すなど非立憲的行動を繰り返したため、全国的な憲政擁護運動が起こり、ついに大正2年2月辞職に追い込まれた。「斗筲」は、この時の桂を念頭に置いてか。ただし、桂は、かって日露戦争を勝利に導いた総理大臣である。陸軍のボス・元老として権謀術策を恣にした山縣有朋をいうものであろう。

臥龍(がりょう)
 三国志 蜀志諸葛亮伝「諸葛孔明者臥龍也」(野に隠れて世に知られていない大人物)。具体的に誰をいうか不明であるが、首相を辞退した三名の誰かであろう。松方は財政通ではあるが政治手腕に乏しく、平田が山縣閥の重鎮であることから、日露戦争で日本海軍を作り上げた功績のある山本権兵衛をいうか。あくまでも憶測である。
人心漸く治になれて 虚榮浮華の俗をなす 世の木鐸は誰が任ぞ 第二の國民勉めよや 4番歌詞  日清・日露の戦争が終わり、平和な世が続いたため、政治家は国民のことを忘れ、おのれ等のつまらぬ権力闘争に明け暮れている。世の人を教え導くのは一体、誰の使命であろうか。一高生をおいて他にいない。藩閥政治を打破し、真の立憲政治を確立するには、普通選挙の実現が必要である。普選運動は、ようやく昨年、法律が衆議院を通過するところまできた。平民よ、選挙権獲得を目指し、頑張れ。

「人心漸く治になれて 虚榮浮華の俗をなす」
 「虚榮浮華の俗」は、文字通り解釈すれば、栄華の巷の実質を伴わない浮付いた見栄であり、俗人である。ところでこの寮歌は2・3番で閥族や政治の腐敗を鋭く批判する。この脈絡から解釈すれば、「虚榮浮華の俗」は、「蠻觸の闘争」(2番歌詞)、すなわち陸軍の横暴、財閥の跋扈、藩閥政治、特に第3次桂内閣の非立憲的な行動を指すものと解釈する。

「世の木鐸は誰が任ぞ」
「木鐸」は、振り子を木で作った、金属製の鈴。昔、法令や教令を人民にふれまわすときに鳴らした。転じて、世の人を教え導く者をいう。 それが一高生の務めである。具体的に「世の木鐸」を憲政擁護運動との関連で解釈し、「誰が任ぞ」と藩閥政治打倒、非立憲政治の反対の呼びかけとも解釈できる。

「第二の国民勉めよや」
 次の各説のうち、私見は第2説「普選運動平民説」と解す。「や」は問いかける気持ちから命令の意を表す。
1.一高生説
 いずれ世に出ることになる一高生のこと。世の指導者(木鐸)となるように勉学に励もうではないか。
2.普選運動平民説
 華族士族に対し、納税要件を満たさないため選挙権のない多くの平民と解することも出来る。普選活動は明治44年に初めて衆議院を通過(貴族院で否決)。藩閥官僚政治から脱却し、真の護憲政治を目指すには、普選の実現が強く望まれていた。
3.外地人説
 第二の国民は字句の上からは、明治43年の日韓併合条約で新たに日本人となった朝鮮人(さらに台湾など外地人も含むか)も候補に上がる。
4.その他
 「日清の国交断絶が確実となった明治27年1月に学習院の田中光顕院長は、特に教官に対し時局に善処するように求め、『コノ際一層勉励奮起シテ自ラ忠魂義胆ニ富メル第二ノ国民ヲ作リ出スノ大任ヲ負ヒ以テ義勇奉公ノ実ヲ挙クルヲ期スヘキコト』と論告した。この理念は、『上ハ王室ヲ翼戴シ下ハ万民ノ自由ヲ保護』することが華族の責任だとする思想とあわせて、明治期の学習院の教育目標となった。*旧憲法下の徴兵令における兵役義務には、常備兵役、補充兵役、第一国民兵役(常備兵役又は補充兵役を終えた者が服するもの)以外に、17才から45才までの者が服する『第ニ国民兵役』があったが、あるいはこれと関係があるか。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
                        

解説書トップ  明治の寮歌  大正の寮歌