旧制第一高等学校寮歌解説

春、繚爛の

大正2年第23回紀念祭寮歌 朶寮

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1、春、瞭亂の夕まぐれ    花、向陵を埋めては
  今宵かすみの丘の上に  友よ歌はん紀念祭
  柏の蔭に夜もすがら    きらめく星の消ゆるまで
*瞭亂は昭和10年寮歌集で繚乱。
2、さはれ都南の秋の夜半  あらしは叫び露は泣き
  新陵、月は暗くして     梢の風に恨あり
  あゝ、行く雲よ弦月よ    永久(とこは)にまもれ嶺の松
  
3、建國二千五百年      世紀の流れ清くして
  國威は遠く窮北の     朔風狂ふサガレンや
  楊柳、花の散る蔭に    西、遼東を照さずや

4、嗚呼金陵の血は涸れて  山河はるかに胡笳の聲
  ガンヂス河の夕けむり   榮華の夢の跡もなし
  ひとり東亞の波の空     旭の色は燃る哉
*「燃る哉」は昭和10年寮歌集で「燃ゆる哉」に変更。

5、バルカンの野に雲亂れ   洞庭あはれ波立ちぬ
  長槍快馬に鞭を擧げ    単騎鐵衣の袖かへし
  乾坤胸に抱きつゝ      四海にふるへ柏葉兒 

寮歌集の略譜数字はハ長調で書かれている。これを指定の調に移調して、五線譜に直している。 通常は、ハ長調から指定の調に上方に移調している。この寮歌(イ長調)の場合、9度キーを上げることになる。それでは、あまりに高く、歌い難いと思われるので、上の譜は下方に3度下げた。実際は、元気よくもっと高く歌われていたと思われる。                               
 
譜は大正14年寮歌集で、4・5・6段(友よ歌はん紀念祭 柏の蔭に夜もすがら きらめく星の消ゆるまで)が大幅に変更され、ほぼ現在の譜となった。「柏の蔭に 夜もすがら」は、原譜「ドーミミーミ レーミファーミ レーソソーソ ソー」」から「ド(高)-ラソーミ ドーレミー レーミソーラ ソー」と変った。その他、「ともよ」(ファーファミーからミーミミー)、「きねんさい」(ラーレドーシ ドーからラードドーレ ドー)、「きらめく」(ミーソドーシからソーラドーラ)を変更した。 その後、昭和10年寮歌集で、イ長調からハ長調に移調するとともに、「うずめては」の「て」(ソからラ)、「うたはん」の「は」(レからミ)、「きらめく」(大正14年ソーラドーラに改めたものをラードドーラ)、「きゆるまで」の「き」(ソからミ)の変更を行うとともに、「春、瞭亂の」と「花、向陵を」の次にそれぞれブレス記号を置いた。平成16年寮歌集では、「はなこうりょう」の「な」(ミからレ)の1箇所訂正した。
曲想文字に「活發に」とあるように、諒闇の歌とは思えない程、勇ましく力強く歌っている。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
春、瞭亂の夕まぐれ 花、向陵を埋めては 今宵かすみの丘の上に 友よ歌はん紀念祭 柏の蔭に夜もすがら きらめく星の消ゆるまで 1番歌詞 花が咲き乱れる春の夕暮れ、満開の桜の花に埋もれ、霞のかかった向ヶ丘で紀念祭が開かれる。友よ、春の朧の今宵は、夜が明けて、きらめく星が消えるまで、夜通し柏の蔭で寮歌を歌おう。

「春、瞭亂の」
 春、花が咲き乱れているさまをいう。瞭は明瞭の瞭、はっきりしているさま。繚はもつれているさま。「瞭亂」は、昭和10年寮歌集で「繚亂」に変更された。

「花、向陵を埋めては」
 向ヶ丘の桜が満開で、丘全体を蔽っている。花は普通、桜の花をいう。向陵は向ヶ丘。

「柏の蔭」
 一高寄宿寮、向ヶ丘。柏の葉は一高の武の象徴。
 「柏陰に憩ひし男の子」(昭和12年「新墾の」3番)
さはれ都南の秋の夜半  あらしは叫び露は泣き 新陵、月は暗くして 梢の風に恨あり あゝ、行く雲よ弦月よ 永久(とこは)にまもれ嶺の松 2番歌詞 そうではるが、明治天皇が埋葬された京都の南の伏見桃山陵では、秋の夜が深まるにつれ、風はますます激しくなり、露は泣き濡れて、萬象(ものみな)びしょ濡れになっている。新陵は、月は暗く、松の梢を渡る風は、天皇の死を悼み咽び泣いている。雲は心を失って空をさ迷い、月は痛ましい片割れ月である。墓前の松は、永久に御陵をお守りするように。

「さはれ都南の秋の夜半 あらしは叫び露は泣き 新陵、月は暗くして」
 「さはれ」は、そうではあるが。
 「都南の秋の夜半」は、明治天皇は京都の南、伏見桃山陵に9月14日に葬られた。
 「露は泣き」は、露は、激しい風のため玉は結べず、泣き濡れて一面、びしょ濡れとなっている。「泣き」を「無き」を懸けたとして、(泣き叫び)涙も枯れ果てた意と解せないことはない。
 「新陵」は、この伏見桃山陵。
 「月は暗くして」は、月は半月(弦月)で、暗い。
 明治天皇は明治45年7月30日に崩御したが、大喪の礼は、大正元年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現神宮外苑)に設けられた葬祭殿(跡地は「聖徳記念絵画館」)で執り行われた。大喪終了後、天皇の棺は霊柩車に乗せられ、東海道線で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。
 晩翠『星落秋風五丈原』 「あらしは叫び露は泣き」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説の落穂拾い」)

「弦月」
 上弦または下弦の月。片割れ月。御陵を守る意であれば弓張り月だが、ここでは、梢の風と同じく、雲も月も悲しみに暮れる御陵の情景描写と解す。

「嶺の松」
 伏見桃山陵の松。鳥居内側の墓前に、明治天皇を守るかのようにきれいに刈り込まれた松が多数植わっている。この松のことか。
建國二千五百年 世紀の流れ清くして 國威は遠く窮北の 朔風狂ふサガレンや 楊柳、花の散る蔭に 西、遼東を照さずや 3番歌詞 建国以来、二千五百年、日本国は順調に発展してきた。国威は、北は遠く極漢の北風荒ぶ樺太から、西は、三国干渉でいったんは失ったが、臥薪嘗胆のうえ日露戦争の勝利で奪い返した遼東半島まで及ぶ。

「建国二千五百年」
 大正3年は皇紀2573年。明治44年寮歌「妖雲瘴霧」「月は朧に」では三千年とあるに比べ、控えめである。

「朔風狂ふサガレンや」
 「朔風」は、北風のこと(「朔」は北の方角)。サガレンは、サハリンの欧米での古い呼び方。ツングース語に由来。日露戦争後のポーツマス条約で、ロシアは樺太島の北緯50度以南を日本に割譲した。

「楊柳、花の散る蔭に」
 いったんは失った遼東半島を再び日本の支配地としたこと。「楊柳」の楊はカワヤナギ、柳はシダレヤナギ。ヤナギは、主に温帯に生育する。
 この句は、「折楊柳」の故事を踏まえるか。漢の時代、長安の都を旅立つ人を見送る時、覇橋のたもとの柳の枝を折って、旅の無事と再会を誓った。せっかく日清戦争に勝利して得た遼東半島を露独仏の三国干渉で失ったが、日露戦争の勝利でロシアから取り戻した意を込める。

「西、遼東を照さずや」
 日本の国威が、北は樺太から、西は遼東半島まで及んだことをいう。
明治38年日清戦争で遼東半島全域が日本に割譲されるが三国干渉で清へ返還、ついで明治31年ロシアが25ヶ年の租借地とする。明治38年日露戦争に勝利した日本は租借権をロシアより継承し関東総督府(のち関東都督府、関東庁)設置、大正4年、21ヶ条要求の結果、租借期間を99ヶ年に延長する。
嗚呼金陵の血は涸れて 山河はるかに胡笳の聲ガンヂス河の夕けむり 榮華の夢の跡もなし ひとり東亞の波の空 旭の色は燃る哉 4番歌詞 清朝の皇統は絶えて、清国は滅亡した。清の出身地(満州)の胡人が吹く葦笛の悲しい音が波濤万里を超えて聞こえてくるようだ。ムガル帝国はイギリスにより滅ぼされ、インドは、イギリスの植民地となった。栄耀栄華を極めたアジアの両大帝国は跡形なく消えてしまった。ひとり東海の日本国だけは、昇る朝日の如く繁栄を誇っている。

「嗚呼金陵の血は涸れて 山河はるかに胡笳の聲」
 清朝の皇統は絶えて、清は滅亡した。清の出身地(満州)の胡人が吹く葦笛の悲しい音が波濤万里を超えて聞こえてくるようだの意。清朝の初代ヌルハチは、南満洲の建州女直の出身で、1616年満州族を統一して、国を興し後金と号した。後金という国名は、同じ女真族が建て中国華北を支配した征服王朝金(1115から1234年)の後継という意味である。
 「金陵」は、南京の美称で、この金陵南京説もあるが、4番の歌詞の趣旨は、中国・インドでは王朝が途絶えたが、ひとり日本だけが健在であるといいたいのであって、遠い昔の六朝や唐の時代を問題にしているのではない。「嗚呼金陵の血は涸れて」とは、明治44年2月12日、ラストエンペラー宣統帝(溥儀)は退位し清朝が滅んだことである。
 「『金陵』は現在の南京。唐末には金陵となり、明朝に国都が北京に移ってから南京と名づけられた。清国が、辛亥革命(1911・明治44年)により中華民国になったことをさすか」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「胡笳の笛」は、中国北方の胡人が吹いたという葦の葉で巻いた笛。

「ガンヂス河の夕けむり」
 1858年、ムガル帝国はイギリスにより滅ぼされ、インドは、イギリスの植民地となった。

「旭の色は燃る哉」
 「旭の色」は、昇る旭の色。日本を懸ける。「燃る哉」は昭和10年寮歌集で「燃ゆる哉」に変更された。繁栄を誇っている意。
バルカンの野に雲亂れ  洞庭あはれ波立ちぬ 長槍快馬に鞭を擧げ 単騎鐵衣の袖かへし 乾坤胸に抱きつゝ 四海にふるへ柏葉兒 5番歌詞 世界の火薬庫バルカンで戦争が始まって黒煙が空を蔽っている。中国では清朝が滅び、辛亥革命が起こり中華民国が建国されたが、暴動は中国各地に頻発して内乱化している。このように世界は洋の東西ともに、戦雲が起こり激動している。その中にあって、戦国の昔、若武者が、長槍を抱えて駿馬に跨り鞭をあて、鎧の袖をひるがえしながら単騎疾走して、敵陣深くに乗り込み、乾坤一擲、のるかそるかの勝負に出たように、一高生も、ひとり激動する世界の舞台に打って出ようではないか。

「バルカンの野に雲亂れ」
 バルカン戦争をいう。 
1912年から13年にオスマン帝国とバルカン諸国間で生じた二度にわたる戦争。この結果、オスマン帝国はトラキア地方を除くバルカン半島から撤退した。しかし、バルカン諸国間の領土的不満は残った。第一次世界大戦の火種のひとつとなった。

「洞庭あはれ波たちぬ」
 中国新軍蜂起と辛亥革命をいう。清朝が外国から借款を得るために、明治44年5月川漢、粤漢両鉄道の建設を外国借款団に委ねると、湖南、湖北、広東、四川で、これに反対する運動が起こった。反対運動は暴動化し、四川の暴動についで、湖北武昌で新軍(清朝の洋式軍隊)が蜂起した。これらの暴動・蜂起を中国きっての名勝地湖南の洞庭湖(湖南省の大湖)の波立ちに代表させ表現したものであろう。  
明治44年10月10日の湖北武昌新軍蜂起の翌日、中華民国軍政府湖北都督府が成立した(辛亥革命)。明治45年1月1日中華民国が建国、同年2月12日、ラストエンペラー宣統帝(溥儀)は退位し清朝は滅んだ。

「長槍快馬に鞭を擧げ 単騎鐵衣の袖かへし」
 「鋨衣の袖かへし」の「鐡衣」は鎧、具足。「袖かへし」は、鎧の袖をひるがえして。「袖」は、鎧の肩の上を蔽い、矢・刀剣を防ぐもの。この句、長槍を刀に変えれば、川中島合戦で、単騎、武田信玄の陣深く乗り込んで、乾坤一擲、信玄に太刀を振り下ろした上杉謙信の姿を髣髴させる。
 「私など、この節をうたうと、上杉謙信と支那浪人と、十字軍の勇士と鉄木真とがごっちゃになったような人物像が瞼に浮んできて、甚だ愉快になる」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観)
 「明治25年から26年に『単騎シベリア横断』で勇名を馳せた福島安正中佐の行動をイメージしていると考える。・・・彼がアジア入りの記念に作った詩に『ウラル山頭、道標存す。西洋東亜、乾坤画す』とあり、本寮歌の『乾坤胸に抱きつゝ』という表現とも相通ずるものがある。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 
「乾坤胸に抱きつゝ」
 「乾坤」は、天地。ここでは、「乾坤一擲」(運命を賭して、のるかそるかの勝負をすること)の意。
 
「四海にふるへ柏葉兒」
 一高生よ世界を舞台に活躍しよう。「柏葉兒」は、一高生。柏葉は一高の武の象徴で、三つ柏は一高の校章。
 「起てよ一千柏葉兒」(大正5年「實る橄欖」4番)
 「我は歎息かじ柏葉兒」(昭和14年「光ほのかに」3番)
 「東亞の天地三千里 健兒飛躍の舞台ぞや」(明治37年「都の空に」7番)
 明治45年7月17日、興風會主催の一高満鮮旅行団(安井誠一郎、東龍太郎、矢内原忠雄ら24名参加)が出発。明治天皇崩御の為、予定を切り上げ、8月初めに帰国した。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 前の五つの寮歌の自己沈潜的なるに比べ、之はひとり実に爽快な外向性をもっている。その意味で、『藝文の花』以前の向陵の伝統ー護国調の復活宣言ともいえる。それでいて、詩章としての表現は決して粗放ではなく、雄健な内容を、やや断截調でしかも一語一語、肌理細かく吟味した言葉でつなげられている点、珍重すべきである。 「一高寮歌私観」から
園部達郎大先輩 『解説』(一高同窓会「一高寮歌解説」のこと)にも『明治期の雄渾勇壮な護国調の伝統を受け継いでいるが』、詞は諒闇の慎しさを貫いているようだ。世界の情勢不安を描き、第一次大戦を予見しているようで、よく歌った。                       「寮歌こぼればなし」から


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