旧制第一高等学校寮歌解説
春の思ひの |
大正2年第23回紀念祭寮歌 南寮
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1、春の思ひのつかれより 醒めては丘の花早く |
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3段2小節1音ドは違和感がある。現譜と同じように1オクターブ高いドかも知れぬが、平成16年寮歌集添付の原譜も低いドである。 昭和10年寮歌集で、変ロ長調からハ短調に移調し、明治天皇の死を悼む諒闇の歌らしく非常に哀愁に満ちた悲傷の寮歌となった(もっともこれは譜の上からで、最初から短調で歌われていたとも思われる)。音符の位置はそのままにして、調号の♭を一つ増やし、ラ(A)の音を半音下げるだけで、曲調がこんなにも変わるんですね。音楽素人の私には不思議でなりません。 その他、譜の変更は次のとおりである。譜はハーモニカ譜(ハ長調)読み。 1、「おもひの」(1段1.2小節) レミーソソー(ハ短調読みでシドーミミー)に変更。 2、「おばしま」(4段1・2小節) ファーソーソラー(ハ短調読みでレミーミファー)に変更。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
春の思ひのつかれより 醒めては丘の花早く ことしまた見る紅も 玉の |
1番歌詞 | 春のもの憂い疲れから醒めて向ヶ丘を眺めると、いつもの年のように桜の花は、早くも紅色に咲いている。しかし、寄宿寮の窓辺は寒々としており、明治天皇との別れ、友との別れにとめどなく涙が流れて、芭蕉が奥の細道で同行者の曽良との別れの際、「隻鴨のわかれて雲に迷うがごとく」といったように、我が魂は悲しみのあまり雲のように空をさ迷う。 「春の思ひのつかれ」 春愁。春の日のなんとなく憂鬱でもの悲しい感じ。 「丘の花」 向ヶ丘に咲く桜。「丘」は向ヶ丘。 「玉の 「欄干」は、手すり・らんかん。玉は美称。 「流離に涙しげくして」 明治天皇との別れでもあり、卒業・去寮する友との別れの涙である。しげくは、とめどもなく涙が溢れるさま。 「空 「銷魂」は、非常な悲しみや驚きで魂が消えたような気持ちになること。 芭蕉・奥の細道 「行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鴨のわかれて雲にまよふがごとし。」(蘇武と李陵とが匈奴に捕らえられていたのに、蘇武だけが漢に召喚されることになり、「 「悲しみの激しさゆえに空の雲の動きさえも心が消えてしまって、迷っているようである。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「雲心なく行く春や」(大正2年「さゝら流れ」1番) 「愁は雲に迷へども」(大正2年「あゝ炳日の」5番) |
敷寢ものうき若草は 萌えてかなしき薄みどり 愁きざめるわが |
2番歌詞 | この春に薄みどり色に芽を吹いた若草は可愛くて、敷寝にするには気が進まない。春の日ざしは、愁いを刻んだ我が額をきれいな模様で彩ってくれる。すなわち、春の暖かい陽射しの中では、気分がうららかになって、春愁は影をひそめる。しかし、日が沈めば、同時に額のきれいな模様は消えてしまって、ふたたび額に皺よせる春愁に襲われる。春愁を連れてくる夕べの鐘には、数えきれない程の大きなうらみがある。 「敷寝ものうき若草は 萌えてかなしき薄みどり」 春に芽生えた若草は、薄みどり色で可愛くて、敷寝にするには気が進まない。 「ものうき」は、大義で気が進まない。「かなしき」は、かわいくてならぬ。逆に、切ない。ひどくつらいの意もあるが、前者の意とする。 「愁きざめるわが 愁いを刻んだ私のひたい。内心の愁いを額の皺に象徴した。関係はないが、写真でよく見る夏目漱石の愁いに沈んだ横顔が思い浮かび。 「鐘にいくそのうらみあり」 夕べの鐘が鳴り、日が暮れると、春愁が襲ってくる。春愁を連れてくる鐘の音に恨みは尽きないという意。「うらみ」は、いつまでも不満に思って忘れないこと。「いくそ」は、どのくらい多く。 「鐘の音を聞いても、そこには多くのうらみがこもっているの意」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)) |
笛たくみなる若人よ 智惠のまどひに耳しひて 丘の朧ろの白壁に 身をうち寄するなげきにも 今日のいのちのあらそひの そのひと |
3番歌詞 | 笛を吹いて人を先導するのが巧みな若者よ。智惠の甘い誘惑の言葉に耳を塞いで、すなわち、笛の吹き方の技巧・方法などに知恵を絞るのではなく、霧のかかった寄宿寮の白壁に身を寄せながら人生の意義・真理を追究しては解明できないで歎いている一高生に、また人生如何に生くべきか、今日を如何に生くべきかという問いに、答えてやってくれ。すなわち人生の意義・真理を示してやってくれ。 「笛巧みなる若人よ」 笛を吹くのが上手な若者よ。人を先導するのが巧みな一高生よ。 新約聖書マタイ伝11章 「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった。」 「智惠のまどひに耳しひて」 智惠の甘い誘惑に耳を塞いで。どうしたら自分の笛の音に合わせて人は踊るか、その技巧・方法などに知恵を絞るのではなく。「今日のいのちのあらそひの」以下にかかる。「まどひ」は、どうすればよいか決めかねて心が乱れること。「耳しひて」は、耳廃ひてで、つんぼになること。 「丘の朧の白壁に 身をうち寄するなげきにも」 霧に包まれた寄宿寮の白壁に身を寄せながら人生の意義、真理を追究しては解明できない歎きにも。本郷一高寄宿寮の壁は写真で見る限り板壁で、昭和10年「大海原の潮より」の歌詞「汝の黒く年經たる」にあるように決して白い壁とはいえない。しかし、開寮当初は、板壁を白く塗った白壁であった。自治寮ないし自治は寮生にとって生命であり、真理である。その自治寮の壁に向かって、人生の意義、真理とは何かを問いかけるのである。しかし、壁は何も答えず、真理は白い霧に包まれたままである。 「各寮皆な木造にして塗るに白堊なり。」(「向陵誌」明治24年ー開寮記念日の記事) 「身を打ち寄する白壁に」(大正9年松本高校「春寂寥」4番) 「生命の窓の白壁に 鐫りて古りにし名は誰ぞ」(大正7年「うらゝにもゆる」5番) 「丘の古城の白壁に 夕陽も淡く映え出でて」(大正7年「朧月夜に仄白く」4番) 「今日のいのちのあらそひの そのひと節を夢と吹け」 今日を如何に生くべきか、人生の意義を示してくれ。 |
わが夜を |
4番歌詞 | 連合茶話会の夜をを盛り上げたジョッキが、上等のホップの味の香りを放つとき、媚びには開かない唇がビールのジョッキに触れて乾杯した。大声を張り上げて寮歌を歌い、六寮の前途に幸いあれと祈りながら、明治36年以来、多年にわたり続いた目黒のビール会社庭園での各寮連合茶話会は終わった。六寮の懇親を深めた目黒での楽しかった日を忘れないようにしよう。 あるいは、明治44年11月5日、駒場運動会で、一高が1・2着を占め優勝、歓喜して優勝旗を先頭に凱歌「嗚呼玉杯」を高唱して場内を一周し、夜、祝勝晩餐会を開いた思い出を歌ったものと解することも出来るが(「駒運動会優勝説」)、上記の「目黒のビール園ゆき」説で、以下説明する。 「わが夜を盛りし盃に」 わが夜を盛り上げた盃に。「盃」は昭和50年寮歌集で「杯」に変更された。盃はビールであればジョッキとなる。 「漿」(ショウ こんず)は、こみず(濃い水)の転化で、酢または酒。上等な酒。ここではビールをいうか。 「もゆる」は、ゆらゆらと焔や煙が立つ。ここでは、香りが立つこと。 「ここではむしろ『緑酒』に近い意で使って、『甘い酒に気持もえたつとき』の意を表しているのだろう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「望の星を歌ひつ 光あれよと打ち上げし かの幸の日の思ひ出よ」 明治36年以来、目黒のビール会社庭園で各寮茶話会を開き、各寮の懇親を図って来たが、45年に多年続いたこの会の打ち切りを決めた。あの幸せだった日を思い出そう。 「望の星」は、目黒のビール会社庭園(今のサッポロビール恵比寿ビアガーデン)での各寮連合茶話会を指すか。「星」は、サッポロビールの商標のホシ(明治9年から)。目黒のビール会社行は、東寮有志茶話会としては明治34年から、各寮連合茶話会としては明治36年から明治44年まで続いた(日露戦争中の37年を除く)。明治44年の茶話会には約200名が参加、ビールの他、菓子、福神漬けが出た。 「打ち上げ」は、声を張り上げて歌うこと。また長く続いた集会を終える意。すなわち目黒のビール会社での各寮連合茶話会を廃止したこと。 「5月新舊寮寮生打ち連れ立って目黒のビール會社に遠足す。」(「向陵誌」明治36年) 「4月末各寮茶話会を一に合して目黒のビール會社に至る。醉うては過ち多し。目黒行は此春を以て終わりとす。」(「向陵誌」明治44年) |
橄欖の花さららげど 自治の燈火しめやかに 調べおごらぬ歌低くゝ わびしき |
5番歌詞 | 橄欖の花は、いつもどおり春風に揺れているが、諒闇中であるので自治灯は、しんみりと灯り、歌声は低く厳かな調べを奏でる。飾り物もないわびしい紀念祭が始まった。今宵は、ここに集まって、つつましく笑みを交わそう。 「橄欖の花さららげど」 「さららげど」は、「さららぐ」という動詞を造語したか。「さらり」は、物がすれあって発する軽快な音。さらさら。大正14年寮歌集で「さゆらげど」に変更された。 橄欖は一高の文の象徴。「さゆらげど」とは、紀念祭を例年通りやりたい、でも諒闇だからやるべきでないとの複雑な心の揺れをいうのだろう。 「調べおごらぬ歌低くゝ」 「歌低くゝ」は昭和10年寮歌集で「歌低く」に変更された。 「わびしき 諒闇中のために、さびしい紀念祭となった。燈火は「しめやかに」、「歌低く」、交わす笑みも「つゝましく」である。 この年の紀念祭は、一切の装飾・余興をやめ、先輩以外の人は入れなかった。朶寮の6室を使って乃木大将遺品展覧会を催したのみであった。 「諒闇中なるを以て此日總ての裝飾、餘興を廢し、又先輩以外の人を入れず爲に六寮寂として聲なし。宵の茶話會は例によりて演説に始まり、新作各寮歌を歌ひ、特に請うて谷山生徒監の蘇文朗誦、先輩の朗讀歌謡あり。會を終る午前三時、蓋し未曽有の記念祭なり。」(「向陵誌」大正2年3月) |