旧制第一高等学校寮歌解説

さゝら流れ

大正2年第23回紀念祭寮歌 東寮

スタートボタンを押してください。ピアノによる原譜のMIDI演奏がスタートします。 スタートボタンを押してください。現在の歌い方のMIDI演奏がスタートします。
1、さゝら流れの水ぬるむ    雲心なく行く春や
  何を思ふか吾れもまた   長き愁ひを如何にせむ
  ひとに許さず此のむねに  あだなる歌は知らざらむ

4、あゝ(みんなみ)の物語        浮べて(むせ)ぶ黒潮に
  豪宕(ごうたう)の響ありながら     紀伊をめぐれば亡き君を
  慕ふ吾等と共々に      花すゝり泣く此の春や

5、一つ調に歌ひても      終には別れ別れにて
  ひとり浮世に迷ふかな    さやかに契るひまもなし
  せめて語らむ二十三     祭重ぬる夜は長く
1、調の変更
 ニ長調からハ長調に変わった(昭和10年寮歌集)。
2、メロディーの変更
 「如何にせむ」、「許さず此のむねに」が次のように変わった。
①「如何にせむ」(3段3・4小節) ミードララ(大正14年寮歌集)されたが、原譜に戻ってファーミラーシドーー(平成16年寮歌集)。
②「許さず此のむねに」(3段6小節・4段1・2小節) ドーラソソ ミードレソドーー(大正14年寮歌集)、最後のドがミに変更(平成16年寮歌集)。
3、リズムの変更
平成16年寮歌集で、タータタタのリズムがすべてタータタータのリズムに変更された。ここに、タータとは付点8分音符と16分音符、タタとは連続8分音符のことである。


語句の説明・解釈

明治45年7月30日、明治天皇崩御し、皇太子嘉仁親王踐祚、大正と改元された。9月13日の明治天皇のご大葬には、一高生は二重橋前に参列、午後8時、霊柩を奉送した。深夜12時には校庭で遥拝式を行った。
大正2年3月1日の第23回紀念祭は、諒闇中のため一切の装飾・余興をやめ、先輩以外の人は入れず、朶寮の6室を使って乃木大将遺品展覧会を催す(出展点数百数十点)。
 この年の寮歌は、明治天皇の崩御を悼む、所謂諒闇の歌となった。作歌作曲は当初東寮14番作歌、井原虎蔵作曲(「しづかに沈む」の作曲者)となっていたが、昭和10年寮歌集で、久能木慎治作詞、星野龍猪作曲に改められた。

語句 箇所 説明・解釈
さゝら流れの水ぬるむ 雲心なく行く春や 何を思ふか吾れもまた 長き愁ひを如何にせむ ひとに許さず此のむねに  あだなる歌は知らざらむ 1番歌詞 春になって小川の水はぬるみ、雲はあてもなく空に浮んでいる。我もまた、何を思うということでもないのに、もの悲しさに長く悩まされて、如何ともしがたい。諒闇に服し嘆き悲しんでいる時に、浮かれた歌など、どうして思い浮かぼうか

「ささら流れ」
 小川。「ささら」とは、ササは細小の意。ラは接尾語。小さく、こまかで愛らしいさま。

「雲心なく行く春や」
 雲はあてもなく空に浮んでいる。心は、判断・正気。前句「水ぬるむ」から早春である。紀念祭の3月は三春(猛春・仲春・季春)の最後の月・季春である。「雲が行く」と「行く春」の「行く」を懸ける。
 「流離に涙しげくして 空銷魂の雲迷ふ」(大正2年「春の思ひの」1番)

「人に許さずこの胸に あだなる歌は知らざらむ」
 国民が明治天皇の諒闇で喪に服し歎き悲しんでいるときに、浮かれた歌などどうして思い浮かぼうか。「あだ」は、花が実を結ばないこと。いいかげんな。
 「軽佻浮薄な思いは懐かないの意か」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
九五(きうご)の位高くとも み夢冷え行く龍榻(りうとう)に 夕べの鐘の、音も細く 流るゝ頃の淋しくて 草笛うれし、春くれど  今年の祭静かなリ 2番歌詞 いかに天皇の位が高いといっても、崩御された天皇が再び甦るということはない。日が経つにつれ、天皇の死は、現実のものとなってゆく。夕暮、入相の鐘の音がかすかに流れてくるのを聞くと、淋しさがこみ上げてくる。草笛を吹いていい気持になる春が来たけれども、今年の春の紀念祭は、諒闇中のため、一切の装飾・余興をとりやめた静かなものとなった。

「九五の位高くとも」
 「九五」とは、易で、九を陽とし、五を君位とすることから天子の位。 「高くとも」は昭和10年寮歌集で「高くして」に変更された。

「み夢冷え行く龍榻(りゅうとう)
 崩御された天皇が再び甦るという夢が冷めてゆくの意か。天皇の死は夢で現実のものではないと思いたいが、月日が経つうちに現実のものとなってゆく。
 「み夢」は、「父祖建國の偉圖」(明治45年「あゝ平安の」5番)か。
 「榻」とは、こしかけ。ながいす。細長い寝台。「龍榻」は、天子の寝台のこと。

「草笛うれし」
 草笛を吹いていい気持になる。昭和10年寮歌集で「かなし」に変更された。逆に、草笛の音が悲しいの意となる。
 「かすれゆく草笛の音に」(昭和4年「しゞまなる」3番)

「今年の祭静かなり」
 前述のごとく、今年の紀念祭は諒闇中のため、一切の装飾・余興をとりやめた。
邊塞(へんさい)花を尋ねては 雪分けしかな金華山 風荒うして十萬(じうまん)の 鐵蹄の跡消え失せば 青雲(あほぐも)の伏す限りてふ うたひし人の夢いづく 3番歌詞 明治9年の東北巡幸で、東北の雪の中を飛び回って育った名馬金華山と出合い、長くご寵愛された。極寒の満洲・沙河では、吹雪が舞い狂い鉄蹄の跡も、すぐ消え失せてしまう。10万の将兵が凍えながら一冬を露軍と両岸に対峙した沙河の陣の戦いで、天皇を警護する近衛歩兵を率いた梅沢道治少将が大活躍し、「花の梅沢旅団」と讃えられた。「青雲の向伏す遙か彼方まで果てしなく天皇のご威光が光り輝く御代」を夢みながら、禁門の変で捕らえられ、むなしく刑場の露と消えた尊王の志士平野國臣の夢は、どこへ消えたのだろうか。

邊塞(へんさい)花を尋ねては」
 明治9年の東北巡幸をいうか。邊塞は辺境防備の砦。

「雪分けしかな金華山」
 「金華山」は明治天皇のご寵愛の愛馬の名。明治9年の東北巡幸の時、水沢で買上げられた。明治28年6月に馬としては長寿の26で死亡した。明治天皇はいたくその死を悲しまれ、剥製にして主馬寮に置くように命じられた。剥製は現在、神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。また、等身大の木造は鳴子温泉に近い荒雄川神社内の主馬社に安置されている。
 明治天皇  乗る人の心をはやく知る馬は ものいふよりもあはれなりけり
         久しくもわが飼う駒の老いゆくが惜しきは人に変はらざりけり
 明治天皇は、東北・北海道に明治9年と同14年の2回巡幸されているが、いずれも夏(6月と8月)で、「雪分けしかな」に該当しない。愛馬金華山の生育地(宮城県鳴子町・岩手県水沢市)を描写したものと解する。
 「明治天皇臨御のもと、金華山・紀伊において陸軍・海軍の大演習があったことを踏まえているかも知れないが不詳」また、「金華山」は日清・日露戦争の古戦場の名か」 (一高同窓会「一高寮歌解説書」)。

「風荒うして十萬の 鋨蹄の跡消え失せば」
 日露戦争・沙河の会戦(明治37年10月8日から18日、戦いは膠着し翌年春まで日露両軍は沙河の両岸に対峙する。所謂沙河の陣)、特に「花の梅沢軍団」を率い大活躍した近衛後備混成旅団長梅沢道治少将(後、中将)を念頭においてか。この沙河の会戦に投入された日本兵は12万8千人といわれている。
 「鋨蹄の跡消え失せば」は、沙河の陣で日露両軍が対峙している間に、猛吹雪で軍馬の跡も消えたと解する。また日露戦争終結とも解することができる。

「青雲の伏す限りてふ うたひし人の夢いづく」
 万葉集 「白雲のたなびく国の青雲の向伏す国の天皇の下なる人は・・・」を踏まえてか(一高同窓会「一高寮歌解説)
平野國臣 「青雲の向伏す極みすめらぎの みいつかがやく御代となしてむ」を踏まえると解する(東大森下先輩「一高寮解説書の落穂拾い」)。
あゝ(みんなみ)の、物語 浮べて(むせ)ぶ黒潮に 豪宕(ごうたう)の響ありながら 紀伊をめぐれば亡き君を 慕ふ吾等と共々に 花すゝり泣く此の春や 4番歌詞 明治23年9月16日夜半、明治天皇を表敬訪問し帰還途中のトルコ軍艦エルトウールル号が折からの暴風雨のため紀伊串本沖で座礁・爆発し、乗員587名が死亡するという大遭難事故を起こした。黒潮が轟音を立てて怒濤の如く打ち寄せる紀伊半島を廻る時、この事故を痛く悲しまれ、生存乗員を練習艦「比叡」「金剛」でトルコに送り届けるように命じられた明治天皇の暖かいお心が偲ばれる。明治天皇を慕う我々一高生ばかりでなく、静かに散る桜の花まですすり泣いているように聞こえる悲しい今年の春の紀念祭である。

「南の、物語 浮べて咽ぶ黒潮に」
 明治23年9月16日夜半、明治天皇を表敬訪問し帰還中のトルコ軍艦エルトールル号が紀州串本沖で折からの暴風雨で座礁・爆発した。地元住民の必死の救助・介護活動にもかかわらず乗員587名(生存者は69名)が死亡した。この遭難事故は、日本とトルコとの友好関係の始まりといわれる。串本の樫野崎灯台傍には、殉難慰霊碑とトルコ記念館が立ち、今も慰霊祭が執り行われている。
 「南の、」の読点は大正14年寮歌集で削除された。
 「第三、四節は難解で、それぞれ明治天皇在位中の何らかの事跡を踏まえていることは確かだが、それが何と何であるかは今となっては不明である。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

豪宕(ごうとう)
 気性が雄大で小事にかかわらないこと。巌に打ち寄せては、轟音を立て砕け散る荒々しい太平洋の黒潮を形容。

「紀伊をめぐれば亡き君を」
 トルコ軍艦遭難の知らせを聞いた明治天皇はいたく悲しまれ、生存乗員は練習艦「比叡」「金剛」でトルコに送り届けられた。余談であるが、この2隻の船には小説「坂の上の雲」で有名になった秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗組んだ。
 
一つ調に歌ひても 終には別れ別れにて ひとり浮世に迷ふかな さやかに契るひまもなし せめて語らむ二十三 祭重ぬる夜は長く 5番歌詞 寄宿寮で肝胆相照らす友の契りを結んでも、三年たって去寮となれば、別れ離れになって、ひとり世間の荒波に飛び込んでいかなければならない。今後は寮生の時のように、真の友を得る余裕はない。せめて第23回紀念祭の今宵は、夜通し友と心ゆくまで語り合おう。

「さやかに契るひまもなし」
 寮生の時のように、真の友を得る余裕もない。
 「契る」は、固く約束する。男女の間に言うことが多いが、寮歌では友の契りをいう。
 「はっきりと胸襟を開く友を得る折も無い、の意か」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「祭重ぬる夜は長く」
 「祭重ねる夜」は、開寮記念日の夜。紀念祭の宵。
 「諒闇中なるを以て此日總ての裝飾、餘興を廢し、又先輩以外の人を入れず爲に六寮寂として聲なし。宵の茶話會は例によりて演説に始まり、新作各寮歌を歌ひ、特に請うて谷山生徒監の蘇文朗誦、先輩の朗讀歌謡あり。會を終る午前三時、蓋し未曽有の記念祭なり。」(「向陵誌」大正2年3月)

先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 第一節は、ゆるく逝く春のもの憂を追いつつ、二節、四節に於て、その一因となる明治天皇に対する切々たる追慕の念が、深い韻律を以て刻まれている。第一節の三行目以下は、清冽な青春の弧愁ともいうべきものであろう。第三節も、実に秀れた意味の起伏をもっている。第四節も同じ黒潮をうたいながら、藤村のそれと異なって、その豪宕が、紀伊半島をめぐると、途端に明治天皇の死に対する悲傷の伴奏と転ずる点も抉りが深い。五節も、会者定離の思想のしずかな詩的表現で、しっとりと、対象を掴む力がある。 「一高寮歌私観」から。
園部達郎大先輩 調子よく歌える割に、歌詞は『解説』のいうように『全篇に溢れる悲愁の情』に漲っている。殊に寮歌教授島田先生は、『二番は諒闇の詩だからなるべく小声でな」と教えられたので、まことに『静か』に歌った覚えしかない。だから、『金華山』『紀伊』の詮索には余り深入りしなかった。 「寮歌こぼればなし」から。


解説書トップ  明治の寮歌  大正の寮歌