旧制第一高等学校寮歌解説

筑紫の富士

明治45年第22回紀念祭寄贈歌 九大

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1、筑紫の富士にくれかゝる   夕の色の袖が浦
  渚に立ちておもふとき     都の春を忍ぶ哉

2、千代の松原磯づたい     梢をわたる譜のしらべ
  音なつかしく響くとき      おもふ健兒の歌の曲
*「磯づたい」は昭和10年寮歌集で「磯づたひ」に変更。

3、「東風吹かば」など詠じけむ 宰府(さいふ)の宮は今こゝに
  おとづる人のしげくして    飛梅(とびうめ)の名のかおりゆく

4、其のかんばせにいやまして  にほひこぼるる向陵の
  梅の根ざしよ心して      「春なわすれそ」永劫に
*「こぼるる」は昭和50年寮歌集で「こぼるゝ」に変更。

5、西に離れて三百里       筑紫の果に迷ふ時
  自治の梅香に春風吹かば   遙に「匂ひおこせ」かし
*「春風」は大正14年寮歌集で「東風」に変更。

6、星は移りて二十二の      榮の數のことほぎに
  彌生が岡を忍びつゝ      杯あぐる紀念祭

原譜には「と調1/2」表示されていたが、拍子は間違いであり、大正14年寮歌集で、「と調2/4」に訂正された。調は「と調」とのみあり、ト長調かト短調か表示はない。曲調は短調なので、上の譜は「ト短調」としたが、「ホ短調」だったのかもしれない(昭和10年寮歌集で、ホ短調(♯が一つ)。実際には最初からキーの低いホ短調で歌われていたと思われる。しかし、この曲を應援歌としている旧制中学もあることから、長短両方で歌われていたとも考えられる。
 また、曲頭の「緩かに」の表示が昭和50年寮歌集で削除され、平成16年寮歌集でも踏襲されているが、これは印刷ミスと思われる。この寮歌は思いを込め、ゆっくり歌う寮歌であるからである。

以上のほか、昭和10年寮歌集を中心に、次のとおりの変更があった。

1、1部例外を除き、タータタタ、タタタタのリズムは、タータタータに変更された。2段2小節の「いろ」、3段3小節の「おも」は大正14年寮歌集の変更、それ以外は昭和10年寮歌集の変更である。ここにタータとは付点8分音符と16分音符、タタとは連続8分音符のリズムである。

2、「筑紫の富士に」の次、「夕の色の」の次、および「都の春を」の次にの3箇所に、一呼吸するブレス記号を置いた。

3、「そでがら」(シから昭和10年ソ)「なぎさに」(レレから大正14年ミミ、昭和10年ミーミ)、「はる」(ミーを大正14年ミ、昭和10年ミー、平成16年ファー)、「しのぶかな」(ミドから大正14年ミドー)の赤字部分が変った。特に、最後の「しのぶかな」は、従前の緩やかで落ち着いたタータのリズムを「はるを」の次に一呼吸おいて、「しーぶーかなー」と余韻をこめて締めくくる。はるかに筑紫の果から切々と向陵を想う哀調の気持ちを高揚させます。

 明治39年「春は花咲く」、明治43年「春の朧の」と短調の曲が登場していたが、この「筑紫の富士」の名歌、さらに翌年大正2年の諒闇の寮歌を経て、一高寮歌に短調寮歌が定着していく。この寮歌の短調出現は、明治末から始まったリリシズム寮歌に対応するものであったが、 同時に従来の長調で作曲された寮歌も、この頃から徐々に短調化され歌われていった ものと推察される。


語句の説明・解釈

明治44年に、京都帝國大學福岡醫科大學は、前年創立の九州帝國大學(当初工科大學のみ)に併合された。明治45年から、この大學からの寄贈歌は、「九州帝國大學寄贈歌」となった。平成16年寮歌集が、明治42年から、それまでの福岡大學を九州大學に改めているのは間違いである。

   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしととて春な忘れそ(初出の拾遺集1006では、「春をわするな」)
道真のこの歌は、前年の京大寄贈歌で初めて引用されたが(「ゆかしき園ゆ東風吹かば 梅の香をつたへかし」)、今度は、流された大宰府をモチーフにした寮歌で登場し、西に離れて三百里の九州の地から切々と向陵を慕う哀愁溢れる名歌となった。

私が「筑紫の富士に」を歌いながら大宰府を散策した写真と文はこちら大宰府散策をクリック下さい。

語句 箇所 説明・解釈
筑紫の富士にくれかゝる  夕の色の袖が浦 渚に立ちておもふとき 都の春を忍ぶ哉 1番歌詞 筑紫の富士が暮れかかった。夕闇迫る袖ヶ浦の渚に立って、一高のある都の春を懐かしく思い出している。

「筑紫の富士」
 前年の福岡醫科大學(九大)寄贈歌「雲や紫背振山」」の背振山のことという(一高同窓会「一高寮歌解説書」)。福岡・佐賀県境にあり、標高1055m。日本山岳仏教の発祥地で、かっては多数の僧が修行していた。ただし、「筑紫の富士」をインターネットで検索しても「背振山」は出てこない。筑紫の富士と呼ばれている山には、可也山(365m)、浮嶽805m)等がある。筑紫の富士は、糸島郡志摩町にある可也山ではないか。南佐賀県境の山方向にある背振山では、「筑紫の富士にくれかゝる 夕の色の袖が浦」の海のイメージがわかない。大正4年九大寄贈歌「野路の小百合の」3番に「みどりにとくる西の空 筑紫の富士の影しづか」とある。筑紫の富士は西の方向にある山、糸島半島の可也山である。はるか南の佐賀県境の背振山ではあり得ない。

「夕べの色の袖が浦」
 「袖が浦」は、明治40年福岡醫科大學(九大)寄贈歌「袖が濱邊の」の袖が浦のこと。現在は福岡市東公園の一部となっている千代の松原の磯伝いで、九大医学部近くの浜辺であることは確かであるが、今は埋め立てられていると思われる。よく似た名前の「袖が湊」は、古く伊勢物語に登場し、また平清盛が日宋貿易のために築いた博多の港。中国、朝鮮との貿易港として栄えたが、慶長年間には埋没した。那珂川と御笠川の間のどこかと推測されているが、特定されていない。「夕べの色」は、夕景色。筑紫の富士のシルエットが段々夕闇の中に消えていく、その前の景色であろう。
 伊勢物語26「思ほえず袖に湊の騒ぐかな もろこし舟の寄りしばかりに」
 新古今集以後、この歌を本歌にした歌が多くなり、「袖の湊」という成句が生まれた。
 
千代の松原磯づたい 梢をわたる譜のしらべ 音なつかしく響くとき おもふ健兒の歌の曲 2番歌詞 夕凪が止み、海から風が吹き出した。すると千代の松原の松の梢が浜辺伝いにざわざわと心地よい音を立て渡っていく。一高健児が歌う懐かしい寮歌の調べを奏でているようだ。

「千代の松原磯づたい」
 明治42年福岡醫科大學(九大)寄贈歌「をぐろき雲は」3番に出てくる千代の松原である。
この当時は、福岡県筑紫群千代(現福岡市、その一部は同市東公園)。鉄道唱歌に、天の橋立、美保の浦とともに三松原の一つと歌われた。鉄道唱歌の文句によれば、当時は多々良濱から博多まで綺麗な松原が続いていたという。
 「磯づたい」は、昭和10年寮歌集で「磯づたひ」に変更された。
 「千代の松原砂青く 寶滿の山雪白し」(大正6年「つめたき冬の」4番)
 「福岡醫科大學の前身県立病院は、明治29年6月、それまでの東中須から筑紫郡千代村(現在の九大病院地区)に新築・移転した。」(「九州大学百年史写真集」県立福岡病院)
 「東公園(千代の松原の一部)は医科大学に隣接、教官・学生たちにとっては最も馴染み深い場所であった。」(「九州大学百年史写真集」明治41年東公園の説明)

「梢をわたる譜のしらべ」
 夕凪が終わって、海風が吹き出し、その風に千代の松原の梢がざわつき、磯伝いに渡っていく音を譜のしらべといった。浜辺に打ち寄せる波音との二重奏である。
「東風吹かば」など詠じけむ 宰府(さいふ)の宮は今こゝに おとづる人のしげくして 飛梅(とびうめ)の名のかおりゆく 3番歌詞 菅原道真が都を離れる時に詠んだという「東風吹かば」の和歌でも詠じよう。道真を祀った大宰府天満宮は、一高から遠く離れて自分が学ぶ福岡にある。参拝客が多く、本殿向って右には、道真を慕って都から飛んできたという飛梅という名前の梅の木が、今も昔と同じように境内に花の香を漂わせている。

「東風ふかば」
 「東風」は春風(5番歌詞「春風」に同じ)。
 菅原道真 「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」(初出の拾遺集1006では、「春をわするな」) この歌は、道真没後、約100年経ってから拾遺集で公にされたもので、道真作を疑う向きもある。

「宰府の宮」
 大宰府天満宮。
 藤原氏の覇権確立のため、右大臣であった菅原道真は、901年讒訴により大宰帥に左遷され、失意のまま903年任地で没した。没後まもなく天変地異や菅公を陥れた藤原氏一族の不幸が相次いだ。人々は菅公の祟りであると恐れた。菅公の御霊を鎮める信仰が全国に広がった。雷神や祟りの神様であった天満宮も、いつの間にか文道の神様となり、さらに学問の神様等と神格が多様に変化した。こうした中、大宰府天満宮は、京都の北野天満宮とともに天神信仰の中心となって、人々に広く信仰され各方面に多大の影響を及ぼした。
 大宰府天満宮は、その菅公の廟所に、門弟の味酒安行が905年に祠堂を建てたのが始まりで、社殿も919年に築造されたと伝える。

「飛梅」
 大宰府天満宮本殿向かって右前にある梅樹。白梅である。
菅原道真が大宰府に左遷されて家を出る時、庭の梅に別れを惜しみ、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしととて春な忘れそ」と詠んだが、その梅が後に道真を慕って大宰府まで飛んでいったという。
 北野天神絵巻(13世紀)で道真が京都の自宅で別れを惜しむ梅は、紅梅亭(現北菅大臣神社)の紅梅である。また13世紀の大宰府の安楽寺(現天満宮)には立派な紅梅が植わっていたという記録もあるようである。これらのことから飛梅は紅梅であり、白梅は間違いであるとの指摘を受けたが、私が白梅と記したのは、この寮歌が作られた頃、および大宰府の現飛梅のことである。
其のかんばせにいやまして にほひこぼるる向陵の 梅の根ざしよ心して 「春なわすれそ」永劫に 4番歌詞 飛梅の花よりも、なおさらに香ばしい匂いを放つ向ヶ丘の梅の木の根よ、花咲く春を永久に忘れないように、気をつけてくれ。

「其のかんばせにいやまして」
 飛梅の花よりも、なおさらに。「かんばせ」は、「かほばせ」の音便形。顔の印象。顔つき。ここは飛梅の花。またそのかおり。飛梅の花の色は、湯島の白梅と同じ白色。

「にほひこぼるゝ向陵の」
 「にほひ」は赤く色が映えること。色つや。香。このにほひを博多まで吹き送れというのであるから香りのことであろう。「こぼるる」は昭和50年寮歌集で「こぼるゝ」に変更された。

「梅の根ざし」
 梅の木の根。「根ざし」は、根が土中に深く延びること。また、その根。
西に離れて三百里 筑紫の果に迷ふ時 自治の梅香に春風吹かば 遙に「匂ひおこせ」かし 5番歌詞 一高からはるか三百里も西に離れた筑紫の果てに、心寂しく過ごしているので、迷うことが多い。向ヶ丘の梅の花に春風が吹けば、遙か筑紫の果まで自治の香が風に乗って届くように、匂いを(おく)ってほしい。

「西に離れて三百里」
 JRの営業距離で東京・博多間は1170km。ほぼ三百里。

「筑紫の果に迷ふ時」
 「迷ふ」は、右往左往する。心が乱れる。

「自治の梅花に春風吹かば」
 「春風」は、大正14年寮歌集で「東風」に変更された。3番歌詞で「東風」と使ったので、5番歌詞では「春風」とした。読みも意味も「こち」(東から吹く春風)で変わらない。

「遙かに「におひおこせ」かし」
 (東風にのせて)九州まで梅の香を送っておくれ。「匂ひをおこせば」、その匂いを東風が運んでくれる。それで「匂ひおこせ」といった。「おこす」は「遣す」で、先方からこちらへ送ってくる(「広辞苑」で道真のこの歌を例に説明)。「かし」は強めの助詞。相手に強く念を押す。
 「梅花のごとく香りの高い母校の自治の気風が、遠く距ったこの地にまで匂え、という言い廻しで母校への思いを一層詩情豊かに表出している。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
星は移りて二十二の 榮の數のことほぎに 彌生が岡を忍びつゝ 杯あぐる紀念祭 6番歌詞 星は巡って今年二十二回目の栄えある紀念祭を迎えた。はるか彌生が岡を偲びながら、ここ福岡でも紀念祭を祝って乾杯する。

「星は移りて二十二の 榮の数のことほぎに」
 自治寮開寮以来二十二回目の栄えある紀念祭を祝って。

「彌生が岡」
 向ヶ丘と同じ意。本郷一高は本郷区向ヶ岡彌生町にあった。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 この歌詞も期せずして、前記(略)京大寄贈歌と同じく、和語脈のなだらかな表現の中に、東京を離れ、遠く九州博多に学ぶものの望郷の思いが切々と込められている。第一、第二節がその序曲をなし、第四節に於て、「そのかんばせにいやまして、にほひこぼるる向陵の」と母校の真価を今更に深く認識し、評価している処が、吾々の感動をさそう。第五節の「西に離れて三百里、筑紫の果に迷ふ時」の素直な表白も、哭かせどころである。六節の第一、第二行も巧みな表現だ。ただ、この歌が前の京大寄贈歌よりも、寮生に遙かに多く愛誦されたのは、一に石川勝治氏の、歌詞の心をぴったり捉えた作曲である。 「一高寮歌私観」から。
園部達郎大先輩 九大寄贈歌としては一際抜きんでている。福岡の現地を描写しつつ「自治の梅花に東風吹かば遙かに匂ひおこせ」と古今の都人の心を打っている。「解説」(一高同窓会「一高寮歌解説」)は、「作曲が詩情に見事にマッチ」と述べているが、正にそのとおり、美しい。私は萬葉歌碑を求めて十数回九州を訪れているが、大宰府に詣ったのは一度きり、人混みを分けて本殿に参拝、本殿右側に立つ「飛梅」の枝に触れながら「匂ひおこせ」と念じた。浜からみる「筑紫富士」は霊峰の面影が見えたが、「袖ヶ浦」あたりが様がわりしていて歌の趣が感じにくかった。 「寮歌こぼればなし」から。


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