旧制第一高等学校寮歌解説

烟争ふ

大正15年第36回紀念祭寮歌 

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         一、憧憬(あくがれ)
烟り争ふ春霞 春は都の花に暮れ
よし浮かれ男はうかるとも 我は浮かれじ永劫に
知惠と正義(まこと)と友情の 泉を秘むと人のいふ
彌生が岡を慕ひつゝ

         六、別離(わかれ)
流轉(るてん)(すがた)さながらに あゝ三春の行樂も
今は歸らぬ夢なれや 春愁心結ぼれて
追憶(おもひで)の袖しほるれば 昔語りはこゝろせん
あゝ向陵よ向陵よ
*「結ぼれて」は昭和10年寮歌集で「結ばれて」改訂され、昭和50年寮歌集で「結ぼれて」に戻った。      
7段3・4小節の音符下歌詞は「したしつつ」であったのを、「したひつつ」に訂正。

ハ長調、4分の3拍子は不変だが、譜の方は昭和10年寮歌集、平成16年寮歌集で、次のように変更があった。
①「はなにくれ」(2段3小節)     ラーラシードー (平成16年)  
②「よしうか」(3段1小節)       ファーミレーラー (昭和10年)
③「わーれは」(4段1小節)      ソーミソードー (昭和10年)  
④「うかれじ」(4段2小節)       シーラドーファー (昭和10年)
⑤「とことは」(4段3小節)       ミーミレーミーレ (昭和10年・平成16年) 
⑥「ちーえと」(5段1小節)       ラーララーシー(平成16年)
⑥「ひーむと」(6段2小節)       ソーソドーファー (平成16年) 
⑦「ひとのい」(6段3小節)       ミーファミーレー (昭和10年) 
⑧「やよいが」(7段1小節)       ミーファソードー (昭和10年)
⑨平成16年に1段4小節、3段4小節の最終音にフェルマータが付いた。その他スラー・タイの箇所に変動あり。

各段(小楽節)の4小節を除き、タータターターのリズム、主メロディーはソーミソードー シーラソーソーとリズミカルで明るい長調の曲でありながら、なにかしら心に響く哀調を感じる。作曲者の安藤 熙先生は寮歌委員に譜を修正され、気に入らなかったと聞くが、一高生には大人気の寮歌である。一高無き今、最後の「あゝ向陵よ 向陵よ」は万感胸迫るフレーズとなった。


語句の説明・解釈

この寮歌は、よく歌われる寮歌だが、最初と最後の1番と6番以外は歌わない。一高・小寮歌集にも他の番の歌詞は載っていない。しかし、「かたみに語らふ友をなみ 故里の彼蒼(そら)仰ぐ哉」(3番)、「飢餓(うゑ)呪詛(のろひ)悲歎(かなしみ)の 高鳴る民衆(たみ)潮騒(しほざえ)に」(4番)と、歌われることのない他の番の歌詞の中にこそ、当局の思想取締りに追い詰められ苦しみ悩む榎本謹吾作詞者(社会科学研究会)の真情がひしひしと伝わって胸を打つ。


語句 箇所 説明・解釈
烟り争ふ春霞 春は都の花に暮れ
よし浮かれ男はうかるとも 我は浮かれじ永劫に
知惠と正義(まこと)と友情の 泉を秘むと人のいふ
彌生が岡を慕ひつゝ
一、
憧憬
(あくがれ)
野焼きの煙と霞が争うように春霞となって野にたちこめている。都の人は、今日は墨堤、明日は上野と、都の春を朝から晩まで桜の花に浮かれ暮らしている。そのように遊び男は、浮かれようとも、自分だけは春に浮かれるようなことは決してない。向ヶ丘の奥深く知恵と正義と友情が泉のように溢れていると天下に名高い一高を目指して田舎の中学生が一生懸命に勉強しているからだ。

「烟争ふ春霞 春は都の花に暮れ」
 「(けぶり)」は、ケムリの古形。①けむり ②煙のようにみえるもの。蒸気、靄など。野焼きの煙と靄とが混然一体となって判別できない春の霞、その情景を「烟争ふ」と枕詞的に表現した。「都の花」は、江戸時代からの東京の桜の名所の墨堤(隅田川隄)、上野、飛鳥山、御殿山の桜。昔は山桜(吉野の桜系)であったが、明治の中頃から染井吉野が多くなっていったという。ちなみに、本郷一高は水戸藩中屋敷跡に建てられたからか、湯島天神に近いからか本館前の庭には桜でなく梅が植えられていた。
 西行『山家集』 「もしほやく浦のあたりは立ちのかで 烟あらそふ春霞かな」
            「すそ野やく烟ぞ春は吉野山 花をへだつるかすみなりける」

「よし浮かれ男はうかるとも 我は浮かれじ永劫に」
 「浮かれ男」は、遊び男。遊んでいても一高に入ることが出来るような都会の秀才中学生を羨んで暗喩した言葉。「うかれ」は心が落ち着かず、浮き浮きする。ちなみに「浮かれ女」は遊女。
 東京の府立一中や四中の生徒のように、一高に入って当然の都会の秀才とは違い、新潟の田舎中学から一高に入るには、それはたいへんな努力が必要であった。だから自分は決して春などに浮かれない。一高を目指して受験勉強に励むの意。

「泉を秘むと人のいふ 彌生が岡を慕ひつゝ 」
 「人のいふ」は、噂の。天下に名高い。新潟の田舎にまで、そのように聞こえていたということ。「彌生が岡」は、向ヶ丘、第一高等学校のこと。本郷・一高は本郷区向ヶ岡弥生町にあった。「慕ひつゝ」は、慕っている。向陵突破を目指して受験しようと思っているの意。
 カアル・ブッセ 「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人のいふ。』

 「作詞者が『向陵』第41号(昭50・4)に寄せた「烟り争ふ」と題する一文を引いてみよう。〈数ある寮歌のうちで、われわれ田舎の中学の出身者に、一番アッピールする歌は《藝文の花》で、その圧巻は〈京に出でて向陵に学ぶもうれし武蔵野の、秋の入日はうたふべく、万巻の書は庫にあり〉のくだりであろう。そして、この叫びから受ける感動は、一高を近くに控え、しかもこれをさまで難関と思わずに入学する、環境に恵まれた東京人の理解を超えるもので、地方人のみが堪能できる醍醐味であろうと、この歌を知った時から確信していた。こうした田舎者だけが抱く異質な感情を、意識的に〈知恵と正義(まこと)と友情の、泉を秘むと人のいふ、弥生が岡を慕ひつゝ」以下に盛り込んだつもりであった……〉」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
あゝ憧れの旅にして 森羅萬象(ものみな)しゞま黄昏の
鐘丘の上に響くとき 希望(のぞみ)の峯に辿りえし
盡きぬ祝宴(うたげ)歡喜(よろこび)に 柏の蔭に夜もすがら
自治寮の歌高誦せん
二、
祝宴(うたげ)
あゝ何という幸せな憧れの旅であったか。ついに、田舎の中学生の自分が夢の一高生となったのだ。黄昏の静寂を破って、向ヶ丘に鐘の音がひときわ高く響き渡る中、歓迎の宴で寄宿寮に迎えてもらった喜びは筆舌に尽くしがたい。今宵は、柏の蔭で、一晩中、自治寮の歌、すなわち寮歌を大きな声を張り上げて歌おう。

「あゝ憧れの旅にして 森羅萬象しゞま黄昏の 鐘丘の上に響くとき」
 「憧れの旅」は、一高を目指した受験勉強。「森羅萬象しゞま黄昏の」は、物音一つしない静かな黄昏の。「鐘丘の上に響くとき」は、黄昏時の静寂を破って、向ヶ丘に歓迎の鐘の音が響くとき。「鐘」は、実際に鳴らされたかどうかは別にして、上野寛永寺や浅草・浅草寺から聞こえてきた鐘の音ではなく、学校の鐘であろうと思う。

「希望の峯に辿りえし」
 「希望の峯」は、喜望峰。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインド航路を発見したように、この峯を越えれば、広々として希望に満ち溢れた道が拓けるの意。すなわち、受験勉強の苦労が報われて一高に入学したこと。
 「しろがね遠くまどろみに 希望の峯にまたゝけば」(大正14年「しろがね遠く」1番)

「盡きぬ祝宴の歡喜」
 「祝宴」は、新入生歓迎晩餐会のようなものであろう。

「柏の蔭に夜もすがら」
 「柏の蔭」は、旅寝の場所、すなわち一高寄宿寮。
秋玲瓏の月の影 其の月かげに誘はれて
岡べに集へる旅人の 同じき感懐(おもひ)はありながら
同じき口舌(くち)はありながら  かたみに語らふ友をなみ
故里の彼蒼(そら)仰ぐ哉
三、
旅愁(さびしみ)
美しく澄みきった秋の月は、地上の闇を隈なく照らして真実の姿を明らかにする。一高生は、月の光に照らされた真実の姿、すなわち真理を追究しようと向ヶ丘に全国からやってきた。しかし、学校により一高社会思想研究会は解散を命じられたので、同じ思想考えを持ちながら、同じように語る口を持ちながら、友とお互いに社会主義思想を語って、この世の真理を追究することが出来なくなってしまった。悲しさのあまり、故郷に向って空を仰ぐのである。

「秋玲瓏の月の影 其の月かげに誘われて」」
 「玲瓏の月影」は、美しく澄みきって照る月の光。真如の月。地上の闇を隈なく照らして真実の姿を明らかにする。「其の月かげに誘われて」は、真理を明らかにする月の光に誘われて。すなわち、真理を追究するためにの意となる。
 *「真如」とは、真実で永久に不変なものの意。「真如の月」は、真如を体得して一切の迷いから解放された心を、夜の闇を照らす明月に喩えた語。
 「風蕭々の秋の夕 冴ゆる真如の月の影」(大正5年「黄昏時の」3番)
 「真如の月の隅もなく 有像を照らす久方は 高きに進む我が心」(明治44年「八島を洗ふ」4番)
 
「岡べに集へる旅人の」
 「岡べ」は、向ヶ丘。「旅人」は、一高生。前述のとおり、一高生は、真理の追求と人間修養のために若き三年間を向ヶ丘に旅寝する旅人である。

「同じき感懐はありながら 同じき口舌はありながら かたみに語らふ友をなみ 故里の彼蒼仰ぐ哉」
 大正14年9月25日、学校により作詞者が参加していた一高社会思想研究会は解散させられたことを踏まえる。
 「同じき感懐」は、社会主義思想のこと。「友をなみ」は、友がいなくなったので。「なみ」は「無み」、「み」は接続助詞で、形容詞(まれに形容詞型活用の助動詞)の語幹につく。多く上に「を」を伴い、「・・・のゆえに」「・・・なので」の意で、原因・理由をあらわす。「故里」は、向ヶ丘ではなく、作者の故郷の新潟三条。「彼蒼」は、新潟方向の彼方の空と解す。友と同じ思いを語ることもできず、故郷が恋しくなって、つい新潟三条の方向の空を仰ぐと解したい。
 「体言に続く場合『同じ』と「同じき』とがある。『同じ』は和文系の文章、『同じき』は漢文訓読系の文章でも多く使われていた。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
夢より夢のさすらひに 橄欖(オリブ)の森に行き暮れし
空虚(うつろ)なる名の雅男(みやびを)よ 捨てよ藝術(たくみ)の銀笛を
救世(ぐぜ)の黙示を悟れかし 飢餓(うゑ)呪詛(のろひ)悲歎(かなしみ)
高鳴る民衆(たみ)潮騒(しほざえ)
四、
覺醒(めざめ)
厳しい現実社会の実態から目をそむけ、ただ浮かれて向ヶ丘でつまらぬ夢を追いかけている風流人よ。そんな豪華な細工を施した銀の笛は捨てて、すなわち風雅な贅沢な生活は捨てて、飢えに苦しみ、世を呪い、悲歎にくれる虐げられた民衆の高鳴る悲鳴に耳を傾けよ。そうすれば弱い者の救済に立ち上がることこそ我々一高生の使命であると悟るはずだ。

「夢より夢のさすらひに 橄欖の森に行き暮れし 空虚なる名の雅男よ」
 「夢より夢のさすらひに」は、現実とかけ離れた夢を追いかけて。 「橄欖の森」は向ヶ丘。「橄欖」は、一高の文の象徴。「空虚なる」は、見せかけの形だけで実質的な価値・内容がない。「雅男」は、風雅の士。風流人。

「捨てよ藝術の銀笛を 救世の黙示を悟れかし」
 「藝術の銀笛」は、豪華な細工を施した銀の笛。「雅男」の贅沢で風流な生活をいう。
 「救世の黙示」とは、「資本論」の著者マルクス・エンゲルスの思想のこと。歴史的必然性をもって、資本主義社会が崩壊し、階級のない全ての人が平等で豊かな共産主義社会が成立すると説く。具体的には、大正8年にレーニンが創立したコミンテルン(第三インターナショナル)の指令をいうのかもしれない。
 「一高時代は社会科学研究会(大正14年9月の「一高社会思想研究会」解散後の地下組織)の闘士でもあった」作詞者の榎本謹吾が「大正大震災以後の経済界打撃による失業者増大、国内の労働運動、思想運動の台頭に敏感に対応して」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)詠んだ節である。
 大正13年の社会思想研究会の勉強会で輪読されたテキストを「向陵誌」から参考のために紹介する。1学期は、語学別に、英語班は
   1、Communism by Ceder Paul
   2、Communist Manifesto by Marx&Engels
独逸語班、仏蘭西語班は2(マニフェスト)であった。二・三学期は、
   1、マルクス 利潤の出處  
   2、ボルハルト 史的唯物論略解
   3、エム、ベーア マルクスの生涯と學説  
   4、エンゲルス 無産階級の過去、現在、将来
 大正13年12月に、一高社会思想研究会は、表面的な活動を停止したので、大正14年以降の「向陵誌」の記録はない。 
 「作詞者が『向陵』第41号(昭50・4)に寄せた『烟り争ふ』と題する一文(前出)につぎのようにある。『小作農争議の本場と言われた新潟県生まれの私は、入学するや否やまっ先きに〈一高社会科学研究会〉に入会した。会合は輪講と称して毎週一回柔道場の片隅で、蝋燭をともしながら開くのが常で、入会早々読まされたのが、秘密出版の(共産党宣言)であった。・・・こんな雰囲気の中から生まれたのが、第四節の〈捨てよ芸術(たくみ)の銀笛を、救世(ぐぜ)の黙示を悟れかし、飢餓(うゑ)呪詛(ろひ)悲歎(かなしみ)の、高鳴る民衆(たくみ)潮騒(しほざゐ)に」〉であった。』」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)

「飢餓と呪詛と悲歎の 高鳴る民衆の潮騒に」
 「潮騒(しほざえ)」は、虐げられた民衆の悲鳴。ルビは、昭和50年寮歌集で「しほざゐ」に変更された。大正14年7月10日、「女工哀史」が刊行されるや、僅かの前借金に縛られ、恰も虐待にも等しい過酷な労働、非人道的な寄宿舎などの実態に大きな社会的反響を呼んだ。
 「さはれ我が友人の世の 悲しき姿君見ずや 貧しき者は者は力なく 富たる者ぞ驕りたる」(大正6年「比叡の山に」6番)
 大正14年 2月11日  全国各地で治安維持法・労働争議調停法・
                労働組合法案の3悪法反対示威運動。
         3月15日 治安維持法成立 同29日 普通選挙法成立。
         7月10日 細井和喜蔵「女工哀史」刊。
         9月20日 共産主義グループ、合法機関誌「無産者新聞」
                創刊。
         9月21日 ソ連労働組合代表レプセら来日。
        12月 1日 農民労働党結成、即日禁止。
             6日 日本プロレタリア文芸連盟結成。

 「芸術への美的関心や陶酔は捨てて、飢餓に苦しむ民衆の呪詛と悲歌の叫び声にこそ耳を傾け、階級対立の社会的矛盾解消への道、即ち「救世の黙示を悟るべきであるとの要請は、当時のロシアにおけるソヴィエット革命の進展に伴う労働運動、社会主義・共産主義運動の高揚の世相の反映として注目に値しよう。榎本氏は在学中、社会科学研究会の闘士だったというから、こういう歌詞の創造もうなずける。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
治に居て亂を忘れじと 淋しく強く矛を執り
雄々しく起てる新人よ 玉杯花を浮べては
美酒(うまき)(かたみ)に汲み交し 光榮ある門出祝はなん
三十六の紀念祭
五、
出征
(かどで)
社会思想研究会は、解散させられたが、諦めることなく決起のその日に備え、地下に潜って活動を続けることにした。一高社会科学研究会として同志が雄々しく地下組織を立ち上げたのだ。桜の花の下、互いに酒を酌み交して栄えある門出を祝おう。今日は第36回の紀念祭の日である。

「治に居て亂を忘れじと」
 普通は、太平の世にも戦乱の時を忘れないで準備を怠らないという教えをいうが、ここでは、社会主義活動が学校当局に禁止されて沈静化させられている時でも、決起のその日に備え、地下に潜って準備を怠らないという意味と解す。

「淋しく強く矛を執り 雄々しく起てる新人よ」
 「淋しく強く」は、文部省や学校当局の禁止命令にも拘わらず地下に潜って社会主義運動をつづける同志の姿をいうものと解す。一高社会思想研究会は、既述のとおり大正14年9月25日に解散させられたが、一部の者は一高社会科学研究会(略称IS)を結成、秘かに活動を続けた。作詞の榎本謹吾もその同志の1人であったようである。ちなみに、一高における左翼学生組織が昭和2年以降、数次にわたる取締りを経て壊滅し、運動が終息したのは昭和8年3月といわれている。その間、向陵刷新会、柔道部、弁論部などに所属し、所謂地下に潜って活動を続けていたのである。
 「新人」は、大正7年12月に結成された東京帝國大學の社会主義思想団体「新人会」の新人とその信奉者。ここでは一高社会思想研究会の会員をいうと解す。
 「新人会」とは、大正7年12月5日に吉野作造・麻生 久らが後援し、赤松克麿・宮崎竜介らによって結成された東京帝國大學内の社会主義思想団体である。「新人会」は、大正8年3月に機関誌「デモクラシー」を発刊。民本主義から急激に社会主義に傾斜していった。昭和4年11月、日本共産青年同盟の指導の下に解散した。
 大正8年11月には一高にも「一高社会問題研究会」(校長の許可が得られず「一高社会思想研究会」に改称)が発会、大正14年9月25日に解散させられた。この寮歌の作詞者榎本謹吾は、前述のとおりその闘士であったという。
 「この『新人』は前節『四 覺醒』の中で、『救世の黙示を悟れかし』と歌われている要望に応えうる自覚を身につけた革新的な人物を意味していると解される。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「玉杯花を泛べては 美酒を互に汲み交し 光榮ある門出祝はなん 三十六の紀念祭」
 「門出」は、卒業生の新しい人生の門出と、一高社会科学研究会(IS)の門出を同時に祝っているようである。
 「嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし」(明治35年「嗚呼玉杯に」1番)
 「玉杯花を泛べては」(大正5年「朧に霞む」1番)
流轉(るてん)(すがた)さながらに あゝ三春の行樂も
今は歸らぬ夢なれや 春愁心結ぼれて
追憶(おもひで)の袖しほるれば昔語りはこゝろせん
あゝ向陵よ向陵よ
六、
別離(わかれ)
すべてのものは流れて変わっていって、世の中に常というものがないといわれているそのままに、向ヶ丘三年の楽しかった数々の思い出も流れて行って、今は帰らぬ夢となってしまったか。春のなんとなく物悲しい思いがわけもなくこみ上げてきて、袖が涙でぬれてしまうので、昔話は気をつけよう。あゝ向陵よ わが魂の向陵よ。いざさらば。

「流轉の相さながらに」
 「流轉」は、移り変ること。無常。「さながらに」は、そのまま変らずに。
 鴨長明『方丈記』 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

「あゝ三春の行楽も」
 「三春」は、向ヶ丘三年。「行楽」は、楽しかった数々の思い出。
 「『三春』は、本来は陰暦1月、2月、3月の春三か月だが、ここでは『向陵三年」の意に用いている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「今は歸らぬ夢なれや」
 西行 「津の國の難波の春は夢なれや 蘆の枯葉に風わたるなり」

「春愁心結ぼれて」
 「結ぼれ」は、心が鬱屈した状態になること。昭和10年寮歌集で「結ばれた」と改訂されたが、昭和50年寮歌集でもとに戻った。

「追憶の袖しほるれば 昔語りはこゝろせん」
 袖が涙でぬれてしまうので、昔話は気をつけよう。
 西行 「今よりは昔がたりはこころせむ あやしきままに袖しほれけり」

「あゝ向陵よ向陵よ」
 万感胸迫る句である。作詞者の一高卒業の時の淋しい気持ちをいう(園部達郎大先輩「寮歌こぼればなし」)。

                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 この寮歌には、氏(榎本謹吾作詞者)の愛寮の念と、反芸術至上主義、反体制的な気魄とが交錯して、太い骨格をなしている。それが第一節の三行から四行目の『我は浮かれじ』といわしめ、第四節の『捨てよ芸術の銀笛を』『救世の黙示を悟れかし、飢餓と呪詛と悲しみの高鳴る民衆の潮騒に』と大正大震災以後の経済界打撃による失業者の増大、国内の労働運動、思想運動の台頭等に敏感に対応しつつ、しかも終節に於て、向陵への切々至純の愛を吐露している。現在の世話好きの中に、一筋強いバックボーンを通した氏の若い姿がここに在る。 「一高寮歌私観」から
園部達郎大先輩 榎本謹吾作詞者のこと      
 「三条中学から一高、”社会科学研究会”に居た。失われた一高のために注力しようと思っている、頼むな。」

 「ケブリと歌ってくれよ、ケムリじゃ噎せる。」

 「『資本論』『戦争と平和』『暗夜行路』の三つは年一回必ず読み返すことにしていると、フッと言われた言葉が遺言のように今に響く」

 「も一つは『あゝ向陵よ向陵よ』。一見して、永遠に続く向陵を何で『あゝ』と永遠の別れのように書かれたのか。『卒業の時のあの淋しさ、君も分かるだろう。その時の気持ちさ』だったが、一高亡く、はや六十年、やっと、この歌詞を納得するようになった。『嗚呼先人の』(昭10)の『あゝ向陵よ、いざさらば』も同様に。」
「寮歌こぼればなし」から


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