旧制第一高等学校寮歌解説

橄欖の梢の尖に

大正14年第35回紀念祭寮歌 

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1、橄欖の(こぶえ)(さき)に    (かぐ)はしき金環懸り
  霧深き沈黙(しじま)の森に   梟のめ覺むるころよ
  草しげき廢墟に立てば 若人の泪ひとしほ
*「梢」のルビは、昭和10年寮歌集で「こずえ」に変更された。

2、永劫(とこしえ)の丘の護りと    語り來し塔も傳統(つたへ)
  幻燈(うつしゑ)(あか)きはかなさ  幾年か垂幕(とばり)の陰に
  恍惚(とろ)すき(ひる)痲睡(うたヽね)も  覺の際の(にが)き後味
*「恍惚(とろ)すき」は昭和50年寮歌集で「恍惚(とろ)ましき」に変更。
*「覺の」は昭和50年寮歌集で「覺め」に変更。


5、冴え返る春の寒よ   音もなく降る淡雪に
  金色(こんじき)の灯濡る      いざ友歌の濕潤(しめし)
  高らかに門出の管笛(こえ)を 靑玉(せいぐよく)今宵(こよひ)の限り
*「濡る」は昭和50年寮歌集で「濡るヽ」に変更。
*「歌の濕潤(しめし)し」は昭和50年寮歌集で「歌口濕潤(しめ)し」に変更。
*「管笛(こえ)」のルビは、昭和50年寮歌集で「ふえ」に、「靑玉(せいぐよく)」のルビも「せいぎょく」に変更。
昭和10年寮歌集で、「うどー」(6段1小節)の「どー」にスラー、「のー」(6段2・3小節)の2音がタイで結ばれた。その他は変更なし。
各段3小節は、16分音符を4つ続けて、特徴あるリズムとなっている。この音を聞いていると歌詞に登場する「梟」でなく、「啄木鳥」が浮んでくる。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
橄欖の(こぶえ)(さき)に (かぐ)はしき金環懸り 霧深き沈黙(しじま)の森に 梟のめ覺むるころよ 草しげき廢墟に立てば 若人の泪ひとしほ 1番歌詞 橄欖の梢の先に、綺麗な丸い月がかかった。霧の深い静かな森に住む梟は、もう目覚めた頃であろうか。今は廃虚となり草に埋もれた時計台の跡に立てば、ありし日の時計台の雄姿が思い出されて、涙がとめどなく流れる。

「橄欖の梢の尖に 香はしき金環懸り」
 「金環」は、普通は太陽のことだが、夜行性の梟が目覚めるころであるので、月の光。しかも環、すなわち円い満月である。また梢の尖に見えるので、月はまだ低く、夜になったばかりの、「梟のめ覺むるころ」である。「橄欖」は一高の文の象徴。「梢」のルビは、昭和10年寮歌集で「こずえ」に変更された。

「霧深き沈黙の森に」
 夜霧が深く立ち込め、シーンとした森に。「森」は、向ヶ丘。

「梟のめ覺むるころよ」
 梟は夜行性の鳥。森の繁みや木の洞に住み、夜出て野鼠、小鳥などを捕らえて食う。悪鳥として憎まれる。社会主義思想を抑圧し、取り締まる権力を喩えるか。
 「今梟雄のをたけびに 嵐は狂ひ雲湧きて」(明治40年「朝金鷄たかなきて」3番)
 「梟は夜目を覚まし、夜中に生動する。月が美しく照らし、草茫々の廃屋に梟が眼を光らせ、憂わしげに立つ若人の涙ぐむ図は、まことに詩的である。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「草しげき廢墟に立てば 若人の泪ひとしほ」
 「廢墟」は、時計台の跡。大正12年9月1日の関東大震災の復興まだ成らず、つめ跡が随所に残っていた。宵闇迫る中、今は、草繁る廃墟となった本館時計臺跡に立つと、昔が思い出され涙がとめどなくこぼれる。昔は、社会思想の取締りもなく、平和であったことも涙の背景にあろう。
 
永劫(とこしえ)の丘の護りと 語り來て塔も傳統(つたへ)も 幻燈(うつしゑ)(あか)きはかなさ 幾年か垂幕(とばり)の陰に 恍惚(とろ)すき(ひる)痲睡(うたヽね)も  覺の際の(にが)き後味 2番歌詞 永遠の向ヶ丘の守りと語り継がれてきた時計台も伝統も、幻燈に映し出された幻を見ていたのか。幻燈が終わって明るくなった時、スクリーンからあっけなく時計台の姿は消えていた。向ヶ丘三年の間ずっと、スクリーンの陰で、うっとりするような気持ちの良い昼寝をしていたのか。それにしても、何という後味の悪い目覚めであろうか。

「永劫の丘の護りと 語り來し塔も傳統も 幻燈の明きはかなさ」
 「塔も傳統も」は、爆破されて今は亡き時計台。向ヶ丘の守りであり、一高の伝統そのものであった。「幻燈の明きはかなさ」は、周りが明るくなって、幻燈の映像が消えてしまったようにはかない。
 
「幾年か垂幕の陰に 恍惚すき昌の痲睡も」
 「幾年か」は、向ヶ丘三年をいう。「垂幕」は、幻灯機のスクリーン。「恍惚(とろ)すき」は、「とろしき」か。頭がにぶく愚かの意だが、ここでは、「恍惚」という字から、とろけるような、うっとりしたの意。昭和50年寮歌集で「恍惚(とろ)ましき」に変更された。「とろまし」という語もなく、造語であろう。
 
「覺め際の苦き後味」
 向ヶ丘三年の思い出は、「嗚呼紅の陵の夢 其の香其の色永劫に 旅行く子等の胸に生き 強き力とならん哉」(大正3年「黎明の靄」2番)が一般的である。それを「恍惚すき昌の痲睡」と切りすてる。「覺の」は、昭和50年寮歌集で「覺め」に変更された。
 「寮生活に対する一つの角度からの隠微なる批判である。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

 「第二節では、一高のシンボルとも考えられてきた時計台の存在も、誇るべき伝統すらも『幻燈の明きはかなさ』として幻滅的に形容され、そのもとでの向陵三年の寮生活も『恍惚ましき昌の痲睡と引き下げられ、『覺め際の苦き後味』とみなされる。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
鑭のつきし扉を開き 甘酸き牢獄(ひとや)を出で 風寒き絶頂(いただき)に立て 闇に鳴く萬衆(なべて)の上に おヽ今ぞ(きらめ)き出づる 新生の若き太陽 3番歌詞 一高生よ、籠城だなんだと豪傑ぶらないで、錆のついた扉を開き、古い伝統に縛られて囚人のように自由のない寄宿寮から飛出せ。怒濤逆巻く世間の荒波とひとり決然と戦いながら、高い理想を掲げて寒風荒ぶ孤高の頂きに超然として立て。社会の底辺に喘ぐ全ての貧しい者から、暁の空に燦然と輝き出した太陽と仰がれるような若き救世主たれ。

「鑭のつきし扉を開き」
 「鑭のつきし扉」は、籠城した城の門の扉。俗界に開く。「鑭のつきし」は、昭和10年寮歌集で「(かぎ)のつきし」に、昭和50年寮歌集で「鏽びつきし」に変更された。
 一高寄宿寮は、寮生が全員、寄宿寮に籠城して俗界の俗塵を絶っているので、扉は締め切って、めったに開いたことがない。それで錆びついた扉と形容した。「蘭」はランタン、銀白色の金属で、外観は錫に似て硬く、空気中で酸化されやすい。昭和3年寮歌集の歌詞にルビはないが、おそらくサビと読ませていたと思われる。昭和10年寮歌集で「(かぎ)」と改めたのは「牢獄」を強調するためで、やはり俗塵の侵入を防ぐために扉には鍵がかかっている、それ故、寮生も外に出られないとの趣旨。昭和50年寮歌集で「鏽」と改めたのは意味的には正しいが、同じような言葉を何度も変えすぎた感は否めない。ただし、井上司朗大先輩は、この寮歌は、非常に誤植が多く、それで難解とされ、今日まで正当な評価をうけてない。この句は「(さび)つきし扉を開き 牢屋を出て」と誤植を訂正されたいとした(一高寮歌私観)。昭和50年寮歌集は、この大先輩の指摘にそって変更したものであろう。
 「われらが籠る高城の 木戸おしあけて打出ん」(明治36年「春まだあさき」5番)
 
「甘酸き牢獄を出で 風寒き絶頂に立て」
 「甘酸き牢獄」は、居心地はいいが、囚人のように閉じ込められた寄宿寮。「牢獄」は、向陵に閉じこもって、俗界に出ようとしない姿勢を皮肉った。「出で」は昭和50年寮歌集で「出でて」に変更された。「甘酸き」は、心地よさに、少し悲しみがともなったやるせない気持ちをいう。ここでは、籠城などと豪傑ぶっているが、その実、古い伝統に縛られ囚人のように自由のない意。
 「風寒き絶頂」は、風荒ぶ孤高の頂き。
 少し古いが「(東大助教授森戸辰男先輩は)現下の思潮より説き起して高踏的なる在来の向陵精神を難じ、柏葉兒の驕慢なる心に一大痛棒を加え、新しき時代に応ずべき新たなる良心の喚起を求め、向陵兒よ、特権の夢より醒めよ、民衆へ赴け、と叫び満堂の健兒をして無限の感慨に耽らしめたり。」(「向陵誌」辯論部部史大正8年)と同一趣旨か。

「闇に鳴く萬象の上に おゝ今ぞ潔き出づる 新生の若き太陽」
 「闇に鳴く」は、社会の底辺に喘ぐ。「潔き」は、昭和10年寮歌集で「燦き」に変更された。
「新生」は、太陽が夜に休息をとって朝に再び元気になって甦る意。朝日。「太陽」は、救世主。また、真理、正義を意味する。
 
はやより疲れ傷き 涯しなき雲の曠野(ひろの)に 點々と血は滲むとも 退かじ泣かじ嘆かじ (ののし)られ(つぶて)さるヽとも 斃るまでたヾ一直線(すじ) 4番歌詞 早や疲れ傷ついた身体を、果てしなく雲の立ち込めた曠野に、点々と血を滲ませながら、決して退かず、泣かず、嘆かず、罵られ石の礫を投げつけられようとも、倒れるまで、ただ一直線に、志操堅固に自分の信じる道を進もう。

「はやより疲れ傷き」
 「はやより疲れ」の「より」は語調を整えるための挿入語か。「はやより」は、昭和10年寮歌集で「はやくより」に変更された。

「涯しなき雲の曠野に 點々と血は滲むとも 退かじ泣かじ嘆かじ 罵られ礫さるとも 斃るまでたゞ一直線に」
 不撓不屈の覚悟を説く。しかし異常である。「涯しなき雲の曠野に」の「雲」は、太陽、正義を遮るもの。正義が通らない暗い世の中、社会主義思想が抑圧された世の中をいう。
 「罵られ礫さるとも 斃るまでたゞ一直線に」とまるで、時の権力者に弾圧され、法難に出くわした宗教者の殉教精神の如くである。大正13年12月に学校から解散を要請され、活動を自粛すると約束した一高社会思想研究会が地下に潜ってでも活動を続けるということか。「礫さるゝとも」は、昭和50年寮歌集で「礫さるとも」に変更された。「一直線」は、自分の信じる道。3番の「新生の若き太陽」(世の救世主)となるための道である。
  「全國學生運動は、極めて順調に展開され來たったが、突如、文部大臣の名によって全國高等學校社会科學研究會に對する解散は命ぜられた。風雲急を告げ、反動は全國を席捲してゐる。・・・
學校當局の命は、研究會に秘密結社的色彩を帯ばしめ、返って研究會設立の趣旨にもとる結果を生むに至るべき事を力説して、今一度の考慮を費されん事を懇願したが、妥協點を發見し得ず、且つ、当局の好意と立場とを酌みて、一時沈黙を守り時宜を待つことにした。」(「向陵誌」一高社会思想研究會大正13年度 12月2日、8日、12日の3回にわたり、1、新人會との連絡の有無。 2、學生聯合会との連絡方法。3、軍事教育反對聯盟への加盟の有無。の3項目に就き、校長、教頭、幹事より訊問された。)

 「第四節では世俗の非難や攻撃やしいたげにいかに傷つき苦しめられようとも、一歩も退かぬ決死の覚悟を持つべきことを説き」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「四節が作者の主張の山で、一筋の思想を抱くが故に、早くから傷つけられ、(ものを持てば傷つくのが通常である)そして雪の上に点々と血が滲むほど罵られ、礫を投げられようと斃れるまで、一筋に進もうと、悲壮な信念をリズムをもって歌い上げている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
冴え返る春の寒よ 音もなく降る淡雪に 金色(こんじき)の灯濡る いざ友歌の濕潤(しめし)し 高らかに門出の管笛(こえ)を 靑玉(せいぐよく)今宵(こよひ)の限り 5番歌詞 冷え切った初春の寒さよ。音もなく降る淡雪に、紀念祭の電灯の灯影が濡れている。さあ友よ、青い夜霧が流れて情趣深い最後の夜、門出の餞別(はなむけ)に、笛に唇を当てて、高らかに笛を吹いてくれ(あるいは寮歌を一緒に高らかに歌おう)。

「冴え返る春の寒さよ」
 「春」は陰暦1・2・3月の春。紀念祭の2月1日は陰暦1月9日で、三春の最初の月(孟春)であるが、気候的には真冬の時季である。紀念祭の前日に雪が降り、当日は「白雪皚々として天地清浄」の雪景色であった。
 
 「1月31日、2月1日の両日を卜して、光輝ある第35年記念の聖典を擧ぐ。天亦此の日を祝し、自治の榮えを壽ぐが如く、記念祭前日、六花粉々として舞ひ、白雪皚々として天地清浄、瑞氣寮頭に漲る。」(「向陵誌」大正14年)


「金色の灯濡る」
 「金色の灯」は、燭台の灯ではなく、電燈の灯の意か。「濡る」は、昭和50年寮歌集で「濡るヽ」に変更された。
 「夕されば寮庭に宴を開き、電燈を點じ篝火を焚き一大不夜城を現出し、・・・」(「向陵誌」大正8年)

「いざ友歌の濕潤(しめし)し 高らかに門出の管笛(こえ)を 青玉(せいぐよく)の今宵の限り」
「歌の濕潤(しめし)し」は、昭和50年寮歌集で「歌口濕潤(しめ)し」に変更された。これも誤植で、「の」は「口」であろう。さアー、友よ、笛に口を当てて、高らかに門出の笛を吹いてくれ。「歌口」は笙・笛・尺八などの吹き口。「歌口濕潤し」は、その吹き口に唇を当てること。
 「管笛(こえ)」のルビは、昭和50年寮歌集で「ふえ」に変更された。原詞では、「こえ」であったことから、もともとは必ずしも笛の音ではなく、今宵最後の夜、友と一緒に寮歌を大きな声で歌おうの意であろう。「靑玉(せいぐよく)」のルビも、昭和50年寮歌集で「せいぎよく」に変更された。「青玉」は、サファイアの漢名。青い夜霧をいう。「淡雪」の「白」、「灯」の「金色」、そして夜霧を「青」と歌うことで、紀念祭の情景が色彩豊かに目に浮んでくる。見事な詩的表現である。「今宵の限り」は、今日が最後の夜と、宵を徹しての両方の意がある。
 「歌口しめし吾吹けば」(明治36年「春の日背を」3番) 
 「『青玉』は、鋼玉石の一種で色が青い。青石のようにすばらしい紀念祭の今宵いっぱい、歌い尽くそう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「『いざ友、歌口(ぐち)湿潤(しめ)し、高らかに門出の管笛(ふえ)を 青玉(せいぎょく)の今宵の限り』と誤植を訂正してよむと、非常に上質な詩であることに気づく。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
                        

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