墓 所 名 | 大友頼泰の墓 | |||
お墓の様子 |
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所 在 地 | 大分県大分市岡川501 | |||
〜コ メ ン ト〜 頼泰は大友家第三代当主で大友家惣領として初めて 豊後に入国し、以後大友氏は豊後に土着し勢力を築いた。 頼泰は仁治3(1242)年に鎌倉幕府の御成敗式目を 参考にして「新御成敗状」28条を作成し、寛元2(1244)年 には「追加法」16条を定めた。また、蒙古襲来に備えて、 鎌倉幕府が鎮西に所領を持つ御家人に下向を命じた 1271年頃には武藤(少弐)資能とともに幕府から九州の 武士に対する軍事指揮権が与えられ、頼泰自身も豊後に 下向した。文永の役に際しては、豊後国守護・鎮西一方 奉行として、豊後の御家人たちを率いて、姪浜や百道原 などの博多西方海岸で奮戦した。さらに弘安の役では 香椎前浜を警護していた頼泰率いる軍勢は、博多湾内の 志賀島に上陸した蒙古軍を海の中道から攻撃し、侵攻を 食い止めるなどの活躍をした。竹崎季長の蒙古襲来絵詞 には騎馬武者姿の頼泰が描かれるなど、蒙古襲来を 経て鎮西に強い権限を掌握し、大友氏の豊後での 発展の礎を築いた。 |