墓 所 名 | 少弐資能の墓 | ||||
お墓の様子 |
|
||||
所 在 地 | 福岡県太宰府市観世音寺4 | ||||
〜コ メ ン ト〜 少弐資能の墓。資能は武藤資頼の子で父の死後、 鎮西奉行に補され、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬 (三前二島)の守護を兼ねた。豊前守・筑後守をへて 正嘉2(1258)年に大宰少弐に就任したことから それまでの武藤姓から少弐姓を名乗るようになった。 鎌倉幕府の出先機関である大宰府の最高責任者 として文永5(1268)年閏正月、高麗使節潘阜の 対応に当たり、元の国書を鎌倉幕府に取りつぎ、 以後モンゴル使節来朝の窓口となった。蒙古襲来が 迫ると大友頼泰とともに鎮西防衛の責任者として鎌倉 幕府から軍事指揮権が与えられ、一般に鎮西西方 奉行と呼ばれた。文永11(1274)年の蒙古襲来では 三男の景資を大将として元軍の撃退にあたらせた。 弘安4(1281)年の蒙古の再襲来の際にも老齢の身を 押して出陣し、壱岐島の戦闘による負傷がもとで 同年の9月4日に没した。84歳。 |