墓 所 名 | 少弐資時の墓 | |||
お墓の様子 |
|
|||
所 在 地 | 長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦 | |||
〜コ メ ン ト〜 少弐資時の墓。資時は少弐経資の三男で、文永の役の 際には叔父である少弐景資に従って12歳で初陣し、博多 湾岸に上陸してきた蒙古軍に向かい、一番に名乗りかけて 矢合わせをしたことで、その名が知られている。その後、 文永の役で平景隆が討ち死にしたことにより欠員となって いた壱岐守護代の後任となって弘安の役を迎えた。 弘安4(1281)年5月26日に蒙古軍の東路軍が壱岐に 襲来すると、当時19歳で船匿城に居た資時は、わずかな 軍勢でこれを迎え撃ち激戦を繰り広げたが、衆寡敵せず 船匿城で全滅したと伝えられている。現在、瀬戸浦には 資時をご祭神とした壱岐神社があり、少貳公園の 松林の中には資時の遺骸を葬ったとされる墓がある。 尚、少弐資時がいつ、どこで討ち死にしたのかに ついては諸説があり、祖父の少弐資能や父の少弐 経資らとともに日本軍を率いて壱岐島を占領する 東路軍に対する6月29日から7月2日の攻撃の際に 討ち死にしたとの説もある。 |