第五話
 藤ねえの言葉を背に、俺は玄関を飛び出した。
 まだ冬の名残を残す外気が体を包む。肌寒い。
 もう少し厚着をしていこうかと考えすぐにやめた。そんなこと、今はどうでもいい。

 俺は家の裏から自転車を引っ張り出して飛び乗る。
 とにかく行こう。
 じっとしてるといろいろなことを考えてしまい、頭がおかしくなりそうな気がした。
 まずは遠坂に会うこと。すべてはそれからだ。

 会ってどうするのか?
 謝るのか、怒るのか、無理やりにでも連れて帰るのか。
 それはわからない。わからないけど……

「そんなもん、会ってから考える!」

 まずはあいつの顔を見ないと落ち着かない。
 いま行かなければ、なにかとんでもないものを失うような気がする。
 向かうのは遠坂の家。
 俺はペダルを漕ぎ、坂道を飛ぶように駆け下りていった。






 遠坂の家にはあっという間に着いた。
 俺は乱れかけた息もそのままに自転車を飛び降りる。

「……あ」

 なんだろう。
 今まで何度も見てきた遠坂の家。
 何度も通って来た遠坂凛の住む洋館。
 通いなれたはずのそれが、今はなにか近づきがたいものに感じられた。

 いない。
 ここには遠坂はいない。
 なぜかはっきりとそれがわかる。

 とはいえ、ここまで来たのになにもせず帰るというわけにもいかない。
 そもそも俺の感覚がずれているということもあるわけだし。

 俺はゆっくりと屋敷の敷地内へ足を踏み入れた。
 ぴんっと周囲の空気が一変したような感覚。結界内に入ったようだ。
 魔術師の館には必ずといっていいほど結界が張られていると遠坂は言っていた。
 その土地に害をなすもの、その屋敷の主に仇なすものを排除するのだという。
 昔―――といってもほんの一ヶ月前のことだが、遠坂が俺の家に来た時に言っていたことがある。

「あなたの家の結界からは人間の情を感じる」

 と。
 それはすなわち、自分の屋敷の結界にはそれが無いのだということ。
 でも……

「そんなことないよな」

 体をつつむ空気から遠坂のにおいを感じる。
 昔の自分なら絶対に感じ取ることの出来なかったそれを、今ははっきりと感じる。
 部外者を排除するはずのそれが、冷たいながらも俺を優しく迎えてくれた。


 扉を開ける。
 しんと静まり返った暗闇が俺を出迎えた。
 ああ、もう、遠坂の部屋に行くまでも無い。
 ここまでくればそれは確信に変わる。
 ここに遠坂はいない。間違いなくいない。

「……まいった」

 正直まいった。
 絶対にここに遠坂がいるものと思っていた。
 会ってどうしようか、なにをしゃべろうか、そんなことを考える以前に会えなければなにもならない。

 いないんなら探せばいい。
 それはわかっているし、そうしなければいけないんだけど、さてどうすれば彼女を見つけられる?


 そういえば、と、俺は気づく。
 俺はこの一ヶ月、遠坂と一緒に過ごし、遠坂の一番そばにいたつもりでいたけど、もしかしたら遠坂のことを何一つわかっていなかったのかもしれない。いや、わかろうとしていなかったのかもしれない。
 二人でデートにも行ったこと無いし、腕を組んで歩いたことも無い。
 やったことといえば、ただ延々と魔術の訓練に付き合わせていたことだけ。
 だから。
 彼女にどういった友達がいるのかとか、どういう食べ物が好きで、どういう服が好みなのか。
 どんな遊びが好きで、どんな本を読むのか、どんな映画が好きなのか。
 なにひとつ知らない。
 改めて気づいた。気づかされた。

 だから。
 こんな時……あいつがどこで泣いているのか俺にはわからない。

「……まいった」

 俺はもう一度つぶやく。
 とにかく自己嫌悪。
 けど、とにかく探すしかない。
 どこに遠坂はいるのだろうか?
 深山町か、新都か、商店街のそばの小さな公園とか、海浜公園。
 あるいは美綴の家とか? 仲良いみたいだったし。

 ああくそっ!
 全然わからない。
 それ以前に頭が正常に働いてくれない。
 仕方ない。とにかく動こう。じっとしているのには耐えられない。

 俺は外へ出ようとして、ふと、玄関脇に置かれた一台の電話に目がとまった。

「あ……」

 と。
 こういう時、頼りになりそうな一人の人物が頭に浮かんだ。
 そんなことぐらいじゃどうにもならないかもしれないけど、なにもしないよりはましだ。
 あの人は新都じゃ意外と顔が広いから。

 俺は電話をかけた。
 五年間バイトを続けているその店へ。

『はあい。コペンハーゲンです』

 どこかやる気のなさそうなその声は、たぶんネコさんのものだろう。
 コペンハーゲンは飲み屋と酒屋が一緒になったような店で、今ぐらいなら飲み屋のほうがちょうど開いている時間のはずだ。

「もしもし。ネコさんですか?」

『んんん? その声はエミヤん?』

「はい、そうです」

 やっぱりネコさんだ。
 俺をエミヤんなどと呼ぶのは彼女しかいない。

『どしたの? 今日はバイト入ってないでしょ? ん、それ以前に学生は飲み屋のほうでは働けません』

「わかってますよ。今日はバイトとは関係ないんです」

『へえ、それは珍しい。あ、もしかしてアレかな? こないだ頼まれてたやつ』

 大変だったよー、と言いながら、それがどれだけ大変だったのかを詳しく説明しようとするネコさん。
 勿論、今はそれをゆっくり聞けるような状況でも精神状態でもない。

「違います」

『ん? 違うの?』

「ええ。あ、いや、少しは関係ありますけど」

『ん、よくわからないなあ』

 そうこぼす。
 まあ、それもしょうがないか。
 バイト以外のことで彼女と話すことなんてほとんどなかったし、頼み事をしたことだってこれまでのところ一度しかない。

「実はお願いしたいことがあるんです。ネコさんとおやじさん、新都の他の店とかに結構顔広かったですよね?」

『え? ああ、まあね。うちは結構昔からあるし、新都みたいに急激に発展している町って、意外と横の繋がりを大事にするもんなのよ。で、それがどうかしたの?』

「……探してもらいたい女の子がいるんです」




 俺は夜の町を再び自転車で走り始めた。
 ネコさんには遠坂の背格好などを詳しく説明し、彼女を見かけたら連絡をくれるように頼み込んだ。

『え? 十二時までに? うーん、って、あと二時間ないじゃない』

 ネコさんはちょっと困ったようにしていたが、結局俺の頼みごとを聞いてくれた。知り合いの店に連絡を通してくれるそうだ。
 一人で探し出すのが無理なら人海戦術ということだ。

 ああもう!
 なんでもいいからとにかく引っ掛かれ!

 そんなことを心のそこで叫びながら、なぜか今俺はそのネコさんの店、コペンハーゲンに向かっていた。
 正直そんな暇はないし、すぐにでも遠坂を探しに行きたかったんだけど、
『あんたねえ。携帯も持ってないやつにどうやって連絡を入れろっていうのよ』
 なんてことを言われた。

 うん、正論だ。
 なんというか、まったく気がつかなかった。
 自分のバカさ加減を若干心配しながら、俺はコペンハーゲンへと全力疾走。
 あっという間に冬木大橋を渡り、キコキコ言わせながら、自転車で新都を蹂躙する。

 着いた。
 多分、いや、間違いなくこれまでの最速記録更新。
 店の正面からではなく裏口から入る。

「わっ! エミヤん早いねえ」

 ネコさんが驚いた声で迎えてくれた。
 確かに、普通に歩いて一時間以上かかる道のりを、十分ちょっとで走破してしまった。
 その見返りに心臓は今にも破裂しそうだが。

「ぜっ、は、はっ、ね、ネコさん……は」
「はいお水」
「んっ」

 目の前に出されたコップを一気にあおる。

 ごくっごくっごくっ

 と。
 とにかく一気に飲み干した。

「むせるよ」
「はあ、はあ、ん、大丈夫です。もう」

 空になったコップを返す。
 それを受け取りながらネコさんが珍しい生き物を見るような目で俺を見ていた。

「な、なんですか?」
「んんん、いや、こんなに一所懸命なエミヤんはじめて見たなあ、てね」

 そう言って楽しそうに笑う。

「え? そんなことないでしょう」

 もう五年間ここで働いているしそれで手を抜いたことなどない。いつでも真面目に働いてきた。それに仕事だけに限らずそれ以外の結構無茶な要求にもこたえてきたつもりだし。

「んん、そういうことじゃなくてさ」

 ネコさんは『むむむ』っとちょっと考えた。

「なんというかさ。エミヤんって確かに頼まれたことなら何でもしてくれるし、勿論仕事だってきっちりとやってくれてる。別に不満なんてなんにもないわけよ」
「じゃあ……」
「でも、なんていうかな。どこか他の人の一所懸命さとエミヤんのそれって違うのよ。なんかさ、それを当たり前のように感じているというか、あるいは義務のように感じているというか……」

 ネコさんの言うことは良くわからない。
 自分の仕事、あるいは人に頼まれたことをやることがそんなにおかしなことなのだろうか。

「ん、ちょっとうまく言えないけど、どこかね……見てて危なっかしいところがあるのよ、エミヤんって」
 これは藤村とも話したことなんだけどね、と、ネコさんが言った。

「はあ、そうなんですか?」
「そう。エミヤんみたいに普通の顔して他人の頼みごと聞ける人ってめったにいないわけよ」

 そういうもんなんだろうか。
 やっぱり俺には良くわからない。

「でも、今日のエミヤんを見てちょっと安心した。やっぱエミヤんも好きな女の子のためになら普通の男の子になるんだねえー」
「え……っ、ちょっ!」

 す、好きな女の子って。

「い、いや、その、あいつは別にそんなんじゃ……」
「あのねえ。そんな必死な顔で汗かいて女の子を探してくれなんて、そんなことはもう恋する男の子の台詞以外のなにものでもないでしょ」

 あー安心したー、なんて言ってけらけら笑うネコさん。
 その姿は自分の身近にいる虎にあまりにも酷似していた。
 そういえば二人はかなり昔からの知り合いだったはずだ。
 なるほど。
 だから似るわけか。
 おまけに猫科繋がりだし。

 もはやこうなった猫に、なにを言っても無駄だろう。

「ああもう、そんな顔しないでよ。はい、これ」

 ひとしきり笑ったあとネコさんが携帯を差し出す。
 そう。俺はこれを受け取るためにここに来たんだ。
 決して猫と遊ぶために来たわけじゃない。

「ありがとうございます。なにかあったら、すぐに連絡してください」
 よし。
 さあ行こう。
 時間はもうあまりない。

「あ、ちょいまち」

 そんな俺をネコさんが呼び止めた。
 カウンターの裏でなにやらがさごそと探し物をしている。
 そして取り出したのが小さな真っ白い箱。

「はいこれも」
「ええと……?」
 なんだろう。これ。
「頼まれてたもの。渡すんでしょ? その子に」
「……あ」
 そうか。届いてたのか。
 あれ、でも……

「なんでわかったんですか?」

 その、これを渡す相手が遠坂だということに。

「だってあなた、これにバイト代のほとんど注ぎ込んだでしょ? おまけに細かい注文いっぱいつけてたし。大事な子にあげるんだなあってことぐらいすぐにわかるわよお」
「いや、それはそうだけど」
「エミヤんをこんだけ必死にさせるんだもの、その子なんでしょ?」
 う。
 どうやら完全に見透かされているようだ。
 なんだか今日は猫科の動物がやけに強化されている。今日は満月か? いや関係ないか。

「はい。持ってって渡してあげなさい」
 その箱を俺に差し出しかけ、
「あっとその前に」
 ネコさんはそう言ってもう一度その箱を手に戻す。
「ひとつ聞いておきたいことがあるのよ」
「ええと、なんですか?」
 さっきまでと違う。
 すごい真剣なネコさんの表情。
「ねえ衛宮くん。あなた、その子のこと好き?」
「え……? いや、その、ネコさん?」
「ほらっ、ちゃんと答えなさいっ」
 そう言うネコさんは、自宅で飼っている虎にひどく似ていた。
 だから、俺は思わず素直に答えてしまう。

「ああ、好きだ」

 はっきりと。
 ためらうことなく。

「うわっ、言い切ったわねえ」
 ネコさんはなぜかひどく嬉しそうだった。
 にこにこしながら再び俺にあの箱を手渡す。

「大切なものならしっかりと握り締めてなきゃ駄目よ」

 そのネコさんの言葉は、手渡された箱に対しての言葉じゃないということははっきりとわかった。
 遠坂凛。
 俺にとってなによりも大切なもの。

「はい。わかってます」

 だから俺はそう答えた。






「はあい、もしもしい」
「あ、藤村? わたしだけど」
「あれえ、ねこじゃない。どしたの。うちに電話してくるなんて珍しいねえ」
「なあに言ってんの? そこはあんたの家じゃなくてエミヤんちでしょうが」
「こまかいことはいいじゃない。で、どったの?」
「んー。今さあ、エミヤんがうちの店に来たんだけどね」
「ええ! なんであんたんとこに行くわけ」
「なんかさあ。女の子捜してるんだって」
「え? ああ、そっかあ。彼女、家にいなかったんだぁ」
「そ。でわたしのとこに来たってわけ。ふふ、あんなに必死な顔したエミヤん初めて見たよ」
「そりゃあね。遠坂さんのためなら士郎だってねえ」
「ふーん、遠坂さんっていうんだ。その子」
「うん。とってもいい子よ。奇麗でかっこよくて」
「あのエミヤんが惚れるぐらいだものねえ」
「でも、ちょっと素直じゃないかな」
「へえー」
「なにがあったかはよくわからないんだけど、結局そういうところに問題あったんじゃないかな」
「エミヤんも鈍いしね」
「そうそう。でも、そうだね、うん、士郎ならきっと遠坂さんを連れ帰ってきてくれるでしょ」
「そうね。なんか、今日のエミヤん、すっごいかっこよかったし」
「男の子だったでしょ」
「うんうん」
「えへへ、士郎は私が育てたんだから当然よね」
「なあに言ってんの。エミヤんほうがあんたより何倍も大人じゃない」
「ねこには言われたくないよおーだ」
「ふん。……でもさ、ちょっと安心したよ」
「……うん。じつは私も」
「切嗣さんが死んでからの彼、どこか危なっかしかったもんね」
「そう。なんかこう、わき目も振らず突っ走ってるところがあったから。どこかでとんでもない方向に行っちゃうんじゃないかと思ってた」
「うん。彼、とっても強かったけど、逆にそれが怖かった。たった一つひびが入っただけで、簡単に割れそうな気がして」
「そうだね。でも……」
「そうね……」
「もう大丈夫だよ、士郎は」
「うん。私もそう思う」
「支えてくれる女の子がいっぱいいるから」
「うん……って、え? いっぱいいるの?」
「だって士郎もてるもん。私が手塩にかけて育てた弟なんだから、当然でしょ」
「ええと、それはそれで問題あるような」
「大丈夫大丈夫。みんないい子だもん。それに士郎は正義の味方だからね。女の子を泣かせるようなことはしないのよ」
「それは関係ないでしょ」
「なあに言ってんの。正義の味方の基本よ」
「……はあ。あの弟にしてこの姉ありってところね。それともその逆かな? いい加減、あんたも弟離れしなさい」
「ふん。ねこうるさい。私だってこれでも我慢してんだから」
「しょうがないわねえ、あんたも。でもまあ、わかる気がする。寂しいんでしょ、藤村は」
「う……うううぅぅ……、士郎ぉ、お姉ちゃんはさびしいよおぉ」
「はいはい。泣かない泣かない。あんたにもいずれ春が来るわよ」
「うぅぅ、ねこに言われたくないよぉ」
「……あのねえ」
「ふんだ。私は平気だもん。士郎はおねえちゃんを捨てるような悪い子じゃないもん」
「はあ……もうどうしようもないわね、あんたは。ま、らしいけど。でも、そんなにもてるんならこれから大変じゃない?」
「大丈夫よ、まだみんな若いんだし。失敗してもこれからいくらでも取り返せるもん」
「それもそうね……」
「…………」
「…………」
「それにしても」
「うん」

「「若いって良いわねえー」」







「くそっ! ここにもいない!」

 俺は海浜公園にいた。
 あれから夜の町をさまよい続けて、遠坂を必死で探し続けて、結局いまだ見つからずにいる。

 もともと無理があるのだ。
 どこにいるかもわからない少女を自転車一台で探し出すなんて。
 なんの手がかりもなく、そもそもこの新都にいるとも限らない。
 深山町のほうを探したほうがいいのかとも思ったが、でも、なんとなく、遠坂は新都にいるような気がした。
 根拠はないけれど、頭の中のどこかでそれを確信している。
 だからこうやって探し回っていた。
 いや、そもそも、俺はなにか大事なことを忘れているような気がする。
 どこか行かなくてはいけない場所があるのではないだろうか。

「くそっ!」

 あいかわらず頭の中がぐちゃぐちゃで、気ばかりがはやって、焦りが思考回路を狂わせていく。
 時間は……
 うわっ。
 十一時半。
 日付が変わるまであと三十分しかない。
 くそっ、なんとかして今日中に会わなきゃいけないってのに。

 最後に見た遠坂の姿を思い出す。
 俺とセイバーの気持ちを理解しながら、俺の背中をやさしく押してくれた遠坂。
 いつもみたいに人をからかいながら、いつもみたいに憎まれ口を叩きながら。
 それがあんまりにもいつも通りなんで、危うくだまされるところだった。
 あいつが泣いていることに気づいてやれなかった。

「あのバカ! 人のことをいつも馬鹿呼ばわりして、自分のほうがよっぽどバカじゃないか!」

 とにかく遠坂に文句の一つでも言ってやらないと気がすまない。
 それで……そのあとはあいつに好きなだけ殴らせてやろう。それこそあいつの気がすむまで。
 ああでも、遠坂はそんなことはしないだろうか?
 するような気もするし、しないような気もする。

 わかってたつもりだったけど。理解してたつもりだったけど。

「……やっぱり、俺。あいつのことわかってやれてなかった」

 胸の奥が締め付けられる。
 今まで一番そばにいてくれた少女が、今は手の届かないところにいるような気がする。
 
 いや、後悔するのはあとでいい。
 とにかく今は前に進むしかない。
 遠坂を連れ戻す。俺とセイバーのもとに連れ戻して、二度と手放さないようにしっかりとつなぎとめる。
 そうでなきゃ、俺は自分を許せそうにない。

 再び俺は自転車に飛び乗る。
 正直言ってもう膝はがくがくだし、体中は汗でびっしょりぬれ、心臓の早過ぎる鼓動が体力の限界が近いことを俺に訴えてきている。
 でもそんなもの、胸の奥の痛みに比べればなにほどのものではない。
 体は休息を欲しているが心がそれを許してくれそうにない。

 ぐっと唇をかみ締め、体に鞭打とうとした時、胸のポケットに入れた携帯がその存在を知らしめるように鳴った。
 俺はあわててそれを取る。

「はいっ! もしもし! ネコさんですかっ? 遠坂見つかりましたかっ?」

『わっ、ちょっ、エミヤん落ち着いて』

 電話の先の声は間違いなくネコさんのものだった。

「あ、すいません」

『んん、ま、いいけどねえ』

 なんでだろう。
 電話の向こうでにやにやしている猫の姿が、やけにはっきりと目に浮かぶ。

「あの……それで、遠坂は?」

 このまま黙っているとなにやら良くない予感がしたので俺はそう聞いた。

『ん、まだ見つかってはいないんだけどね。ただ、何時間か前になるんだけど、他の店の子がそれらしき女の子を見かけたって言っててね』

 数時間前の情報じゃどうにもならない。

『一人で郊外のほうに歩いて行ったんだって。その子』

「郊外へ?」

『そ。なにしにあんなとこに行ったのかしらね。住宅街だし他にあるものといえば……』

「あ……っ!」

 思い出した。
 というかなんで俺はそんなことを忘れてたんだ。
 あそこにはあいつのいたあの場所がある。
 ただ一人、そこにどんな考えがあったのかは知らないがただ一人、毎年遠坂の誕生日を祝い続けていたある神父。
 俺には結局最後まで理解できなかったが、あの神父と遠坂のあいだにはやはりなにかしらの信頼関係が成り立っていたのだと思う。
 もうあそこにあの神父はいないけど、独りになってしまった遠坂がいくとしたらやはり……

『あ、なんか思い当たることあるの?』

「え、あ、はい。……多分、あいつは、あの場所にいるんだと思います」

 あの場所。
 あの教会に。

『そう……。じゃあ、早く行ってあげなさい。今ならまだ間に合うでしょ』

「はい。ありがとうございます、ネコさん」

『うん、もう手放しちゃ駄目よ』

「……はい」

 俺はネコさんのその言葉に力強く頷いた。






 衛宮邸を出たわたしは夜の町をさまよっていた。
 胸の中が熱くて苦しくて、じっとしてると心が焼きついてしまうようで、夜の冷たい外気にその身をさらしていた。

 正直、自分の中にこんなにも弱い部分があるとは想像もしていなかった。
 衛宮士郎とセイバー。
 惹かれ続けていたふたりが今ようやくひとつになった。
 これは初めからわかっていたこと。いつかこうなる日が来ると覚悟していたこと。

 それなのに、こうも心が乱されるのはやはり自分の弱さが原因なのだろう。
 孤独には慣れている。
 独りでいることをつらいと思ったことはない。
 でもそれは、ずっと独りで居続けたから。
 それ以外のことを他に知らなかったから。

 今の私は知ってしまっている。
 士郎やセイバーとすごしてきた日々がどれだけ暖かかったものかを知ってしまっている。
 それを知ってしまった上で、私は独りでいることの冷たさに耐えられるだろうか。

「……あれ?」

 わたしは間抜けな声を出してしまう。
 ただ心の赴くままに歩き続け、気がつけばこんなところにいた。
 目の前には見慣れた教会。

 なによこれ。
 これじゃあまるでわたしがあの神父に、もうこの世にはいないあの神父に救いを求めているみたいじゃない。
 馬鹿馬鹿しい。
 あの神父がわたしにしたことといえば、あの聖杯戦争でわたしを裏切ったことと、毎年毎年、趣味の悪い、しかも毎年同じ服を誕生日に贈りつけてきたことぐらいじゃない。

「だから……なんだっていうのよ」

 踵を返す。
 こんなところに用はない。
 そもそも、あの神父はここにはもういないのだから。


 ちょっと歩くとすぐに外人墓地に出た。
 寒くて冷たい場所。頭を冷やすにはちょうどいいかもしれない。

 草むらに腰を下ろし、あの時のように星を見上げる。
 あの時?
 あ、またいやなものを思い出した。
 キャスターと対峙し、そこでアーチャーに裏切られ、独りになった時にあいつがやってきた。
 ぼろぼろの体で飛び込んできて、傍目にも無茶な投影をして、それでもあいつはわたしを助けに来た。
 教会を出て、家に連れ帰ろうとして、
「初めてあいつに泣かされたんだっけ……」
 あのときの言葉があまりにも優しすぎたから、わたしは不覚にも男の子に泣かされた。
 あれから士郎に泣かされたのが今日を入れて二回。アイツも入れたら三回かな?
 もしかしたら、衛宮士郎こそがこの遠坂凛の天敵かもしれない。

「ま、もう関係ないけど……」

 さすがのあいつも今日は助けにはこれないだろう。
 助けに?
 また思わず考えてしまったことに苦笑する。
 今更なにを言っているのか。士郎とともにいたいのならば、あのままセイバーを見殺しにすればよかったのだ。セイバーは黙って受け入れただろうし、あの士郎を騙すことなど簡単なことなのだから。
 でもそんなことはしないと決めたのは自分。事実をそのまま受け入れたのは自分。
 後悔なんかしないし、するべきようなことでもない。
 わたしは遠坂凛なのだから。



 星を見る。
 新都の中心部とは違い、この辺りは周囲が暗闇につつまれているから星が良く見えた。
 もうじき日付が変わる。
 この一ヶ月で身にまとった服を脱ぎ捨てるのに、明日ほど都合の良い日はないだろう。
 わたしは一つ歳を重ね、士郎やセイバーとの関係も変わる。
 今までわたしが座っていた席にセイバーが座り、わたしは二人の背中を見続けることになる。
 つらくないといえばうそになるけど、決断はすでに終えた。
 後戻りは出来ないし、する気もない。

 これまでで最悪の誕生日が過ぎ去り、明日を迎える。
 そうしたら帰ろう。
 あの家へ。
 もうわたしの居場所は無いかもしれないけど、ようやく結ばれただろうあの二人を祝福してやろう。
 あともう少し。
 あとほんの十分。
 それだけの時間を我慢すればきっと変わる。
 いや、変わると決めたのだ。








 だっていうのに、

 なんでその馬鹿は、

 そんな汗だくになりながら、

 不恰好に自転車から飛び降り、

 こっちに向かって走ってきているのだろうか。


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あとがき

ようやくここまで来れた。
ラストまであともう少し。