胸に手をやる。そこにはまだ先ほどの逢瀬の気配が色濃く残っているのか、心臓の鼓動がやけにはっきりと感じられた。
この身をつつむ幸福感。それと同時に、ほんの少しの罪悪感。
「申し訳ありませんでした……凛」
小さな呟きが薄闇の中に消えた。
魔力が抜け落ちる感覚。
命の源が零れ落ちる感覚。
戦場で多大な魔力を放出した時、あるいは戦場で傷ついた時。
この身が、世界から消え去ろうとしている感覚。
サーヴァントとして戦うようになってから、何度か経験したこの感覚。
前回の聖杯戦争の時も、そして、シロウや凛と駆け抜けた今回の聖杯戦争でも、何度か味わったこの感覚。
だが―――それはいつも、私になんの感慨も与えなかった。
無論、聖杯を手に入れることが出来ないという無念さは常にあった。
でもただそれだけ。
それだけのこと。
サーヴァントである私には死というものは訪れない。
この世界から消え去ったとしても、それはいわばひとつの分身が消え去ったようなもの。
私の魂はなにひとつ傷つかず、再び来るであろう聖杯戦争に思いをはせるだけ。
そう、それだけのはずだった。
なぜだろう。
今日この日、この世界から消え去るだろうと確信したこの日。
私は初めて―――恐怖というものを感じた。
それは、王として生きると誓ったあの日、はるか記憶のかなたにあるあの日から、いまだかつて味わったことの無い感情だった。
どんな敵を前にしても、どんな苦難を前にしても、このような恐怖を感じたことは一度たりとも無かった。
だからこそ、私はただひたすら前を向いて歩き続けてこれたというのに。
それが、
なぜ今度はそうできないのだろう。
なぜ後ろに残すものが気になるのだろう。
いや……
そんなことを自問する必要など本当はもう無い。
すでに私にははっきりとわかっているはずだ。
私は、この身が傷つくことよりも、この身が消え去ることよりも、シロウと別れなければならないことを恐れていた。
「この身を消し去ることを許してください」
あの時そう言った言葉はうそではない。
うそではない、が―――真実でもなかった。
国を守ると誓い、剣を取ったあの日。
あの日から、私はアルトリアという一人の少女として生きることを捨てた。国を守る王として戦い続けた。その果てに滅びが待っていると悟った時も、ならば聖杯を求めようと、サーヴァントとして戦い続けようと誓った。
すべては国を救うため、祖国を滅びの道から救うため、我が力が足りないというのなら、聖杯をもってしてそれを成しえようと。
「セイバー、おまえの願いは間違っている」
英霊エミヤ。
正義の味方を目指した少年の行き着いた未来。
あの時言われた言葉。
赤い騎士のあの言葉が忘れられない。
確かに、聖杯戦争でこの地に現れたあの聖杯は、私が望んでいたものとはかけ離れた存在だった。
この世のすべての悪がこめられた呪いの釜。
ただ純粋に、あらゆるものを破壊する黒い闇。
あのようなものが私の願いをかなえてくれるとは到底思えない。
だが、あの赤い騎士の言葉に込められた意味は、そういったものとは根本的に違うような気がした。
おまえが胸の中に秘めたその願いそのものが間違っていると、赤い騎士の背中がそう語っていた。
わからない。
私にはわからない。
私の国を救いたいという願いが間違っているのだろうか。
あの日、あの時、岩に突き刺さった剣を抜き去ったあの時。
もし、私ではなく、別の誰かがあの剣を抜いていたとしたら、もし、私以外の誰かが、あの国の王になっていたとしたら、あの国は滅びずにすんだのではないだろうか。
そう考え、そして、その願望をかなえることが出来るとしたら、それを求めることは間違っているのだろうか。
わからない。
なんど考えてもわからない。
あの騎士は私を惑わすためにあのようなことを言ったのだろうか。
そう考え、そして否定する。
違う。
あの言葉には意味がある。
自らの理想を磨耗させた騎士が、それでも記憶の片隅に残しておいてくれた私への思い。
それが間違いであるはずなどない。
ならば、それを見つけよう。
もはやあの騎士に答えを聞くことがかなわぬなら、自らの手でそれを見つけよう。
今の私ならそれが出来るはずだ。
私は―――独りではないのだから。
そして私はこの世界に残った。
世界の意志に逆らった。
聖杯を求めることよりも、その答えを見つけ出すことを望んだ。
だからこその報い。
魔力の供給が途絶えた時、私はそう思った。
消え去ることへの恐怖はあった。
だが、それ以上に、消え去らねばならないという強い思いがあった。
この世にとどまると決めたあの時、自らに課したあるひとつの誓い。
その誓いはシロウにも言ったこと。遠坂凛を決して裏切らないと。
でも、あの誓いにはもうひとつの意味がある。彼には語らなかった側面がある。
そしてそれこそが、あの誓いの本当の意味。
遠坂凛を裏切らないこと、
それすなわち、
決して、アルトリアという名の少女に戻らないこと。
今までなら、そんなことを誓約する必要など無かった。
王となってこれまで、一度たりともそんなことを考えたことなど無かった。
でも、シロウのそばにいると不安になる。あまりにも心地良くて臆病になる。
すべてを忘れて、彼の隣で、アルトリアとして生きていけるのではないか。
そんなことを夢想してしまう。
それはありえないこと。決して許されないこと。
私にはやるべきことがあるのだから。
でも、もし仮に、シロウが凛ではなく私を選んでくれたとしたら、私はその誘惑に耐えることが出来ないのではないか。アルトリアという一人の少女に戻ってしまうのではないか。
だから消え去ると、そう言った。
ありったけの決意を込めてそう言った。
なのに、シロウはその言葉すら平気で破り捨ててしまった。すべてを自分が受け入れるからと、私を救うことを選んでくれた。
「…………ん」
今、自分の中にはシロウがいる。
彼の精。彼の魔力。
体の隅々まで、心の隅々まで。
初めて受け入れたはずのそれが、ひどく懐かしく感じるのはなぜだろうか。
どこか……遠い昔に失ったはずの私の宝物。
それを思い出させてくれる。
それが、私をぎりぎりで踏みとどまらせてくれた。
この体内に込められたシロウの想いが私の心を救ってくれた。
だから―――もう大丈夫。
これ以上ない大切なものを私はもらった。
これ以上ないぐらい暖かなものを私はもらった。
私が帰るべき場所、それを、シロウは与えてくれた。
「ですから―――シロウ」
凛にも帰るべき場所を与えてください。
私に貴方が必要だったように、凛にも衛宮士郎という居場所が必要なのです。
私が、貴方とともに答えを捜し求めたいと願うように、
凛にも、貴方をエミヤシロウにはさせないという約束があるのだから。
約束を破るというのはつらいことだ。
破るほうも破られるほうも。
特にそれが、もう二度と会えない者とのあいだに交わされた約束だったとしたら。
凛は強い。
それは私も知っている。
だけどその強さは、衛宮士郎がそばにいてこそ、衛宮士郎のそばにいてこそ。
シロウが私たちのために強くなれるように、私や凛もシロウのためになら強くなれる。
三人がそろっていなければ意味が無い。
そう……シロウは言った。
それが、今ははっきりと良くわかる。多分、言ったシロウ本人よりも。
私には凛が必要で、凛には私が必要。
シロウには私たちが必要で、私たちにはシロウが必要。
誰かひとりでも欠けたら意味が無い。
「ならば……」
私は自嘲する。
私の決意そのものが、きっと間違いだったのだろう。
消え去ると、あなた方の前から消え去ると、そう言ったことが間違いだったのだろう。
そうすれば私だけが痛みを背負う。それでいいと思っていたけど、そうじゃなかったといまさらながらに気づく。
私を失うということが、あの二人にはきっと耐えがたいことだったのだろう。
私が消え去ることで、より痛みを背負うのは、私ではなく彼らだったのだ。
これほどまでに他人から求められたことは今まで無かった。
あらゆるものに打ち勝ち、あらゆるものに疎まれ続け、それでもかまわないと戦い続けた日々。
人としてではなく、王として戦い続けた日々。
それが、今は王としてではなく、ひとりの人間としてここに残ることを求められている。
それがなぜか嬉しかった。
結局、私たち三人は、揃いも揃って馬鹿だったということか。
皆に迷惑をかけたくないからと消え去ろうとした少女。
独りなると知りながらその道を行こうと決めた少女。
そのすべてを己で背負うと泣きながら誓った少年。
「誰か一人ぐらい、頭の良い人がいてもよさそうですが……」
それぞれの不器用さが可笑しい。
悲しいぐらいに可笑しい。
「まだ、間に合いますよね……? 凛、シロウ」
失いかけたものを取り戻す。
それだけの時間はまだ残されているはずだ。
ふと。
部屋の外。
廊下の向こうがわ。
居間のあたりからだろうか。
そこから聞きなれた声が聞こえる。
「タイガ……?」
間違いない。タイガの声だ。
暗く沈んだこの家の中で、そんなもの関係ないわよー、という感じで明るさを振りまいているタイガの声。
普段は『ちょっとうるさいかな』と思うときも、時々、ごくたまに、そこはかとなく感じるときもあるが、今はその騒がしさが嬉しい。
薄暗い部屋に、明るすぎるライトの灯がともった感じがした。冷え込んだ空気が暖かさを取り戻していく。
「そうですね」
私はベッドの下に放り出された服を手に取る。少ししわの出来ているそれを手で払って着込む。素肌にかかる柔らかい生地の感触が心地良い。
ベッドを降りる。自分の足でしっかりと立つ。
いきましょう、私も。
もう私にできることはないかもしれないが、せめてこの家を暖めておこう。
凛がこの家に帰ってきた時に、寒さに震えることがないように、できるだけのことはしておこう。
扉を開けると冷たい空気が部屋の中に入り込んできた。でも、寒いとは思わない。遠くで、さっきよりもはっきりとしたタイガの声が聞こえてきた。
それに一度背を向け、暗闇につつまれた部屋を見やる。
ベッドの上。
私とシロウが結ばれた場所。
胸の中に一つの光景が浮かんでくる。
心のそこで漠然と渦巻いていたものがひとつの形を成してくる。
シロウに抱かれた時に感じたある一つの記憶がよみがえってくる。
―――ああ、そうか。そうだったのですか―――
感じていた懐かしさの正体がはっきりとわかった。
なぜ、私たちは惹かれあったのか。
なぜ、私たちは互いを求め合ったのか。
「貴方が……私の『鞘』だったのですね、シロウ」
かつて失った私の半身。
シロウこそがそれなのだとはっきりと確信した。
――全て遠き理想郷――
そういう名の運命――言葉にすれば陳腐にしかならないけど、私たちが巡り合った奇跡を考えれば、やはりその言葉しか出てこない――運命。
それに導かれて、私たちは一つになった。
もう二度と手放さない。
決して迷わない。
衛宮士郎と遠坂凛と私。
三人でともに進もう。
世界の意思がそれを阻むというなら、なんらためらうことなく剣を取ろう。
わたしの剣はそのためにある。
なぜなら―――
「我が名はセイバー」
聖杯戦争のために与えられた便宜上の名称。
なんの意味もなく、ただ与えられた名前。
その名を、彼らとともにあり続けることで、私は初めて誇りとすることが出来る。
そう思った。