ほんの数日前、汗ばむほどの暖かさだったと思えば、突然季節が逆行したかのような冷たい空気が舞うようになる。
今日はその後者。
その日の夜は春だというのにひどく肌寒かった。
寒がりならば一度は押入れの奥にしまいこんだ冬物のコートを引っ張り出してくるかもしれない。少なくとも、いつもより余分に上着を着込むことは間違いないだろう。
そんな冷たい精霊が支配する夜の世界。
だから、その中に独りでいるその少女の格好はいかにも寒そうだった。
両肩を自分の手で抱き、震えるように縮こまっている。吐く息を白く染めながら、星の瞬く空を時折見上げる少女。
遠くから見たその姿は、あまりにも……あまりにも小さく見えた。
遠坂凛
その少女は、暗く冷たいその場所で、一人静かにたたずんでいた。
その姿を見たときから、ただでさえ壊れ気味だった俺の思考が、それこそ崩壊寸前にまで沸騰した。
「遠坂……っ!!!」
呼ぶ。
というよりは叫ぶ。
俺の声が聞こえたのか、遠坂の体がびくっと震えた。俺を見る。その顔は今まで俺が見たことの無いような表情を浮かべていた。
得体の知れない感情が俺の胸にこみ上げてくる。
それがなんなのかはわからないが、とにかく、あいつにあんな顔をさせているわけにはいかなかった。
自転車を飛び降りる。
と。
右足がサドルの部分に引っかかった。がしゃんっ、という音を立てて自転車が倒れ、ついでに俺も巻き込まれて倒れる。
っつ、いってぇ。というか格好悪い。
なんとも情けない格好に自分でもうんざりしながら、俺は自転車に挟まれた右足を引き抜く。
いっ……!
って、なんかに引っ掛けた。ペダルか? うわっ、右足のくるぶしから血が出てる。くそ、なんかとことん格好悪いな。
とりあえず立ち上がる。
なんというか――体中は汗をかいて、髪はぼさぼさだし、服はなんか知らんがあちこち汚れているし、おまけに右足からは血が流れてる。最悪の格好だ。間違っても女の子を迎えに行こうとしているやつの格好じゃない。
えいっ、くそ、今更そんなのかまうか。もう今日はあらゆる醜態をさらしてきたんだ。このていど、どれほどのもんだってんだ。
俺はこれまで何度か訪れたその外人墓地の中へ足を踏み入れる。
足は痛むし心臓は破裂しそうだし、急激な運動による酸素の欠乏でやけに苦しいし、とにかくひどい状態だったが、俺はそんなものにはかまわず遠坂のもとへと走りよった。
遠坂は呆然と俺を見上げていた。
その瞳には「なぜ」という疑問の光。ありえないものを見ているという懸念。
俺はそんな遠坂を、しっかりと、まっすぐに見つめた。
言いたいこと、伝えたいことは山ほどあったはずなのに、こうして向かい合った瞬間それらがすべて吹き飛んだ。ただただ、俺は、ようやく見つけ出した宝物を見つめる。
俺の格好もひどいもんだが、それ以上に遠坂の今の姿は胸に痛かった。別に俺みたいに服装が汚れているわけでも汗をかいているわけでもどこか怪我をしているわけでもない。それでも、なにか大事なものがごっそりと抜け落ちたような、そんな表情を遠坂はしていた。
胸がまた軋む。
これは間違いなく俺のせいだ。
一番大切にしなきゃいけないはずの女の子に、俺はなんでこんなひどい顔をさせてしまっているのだろう。
俺には出来ることが、いや、やらなければいけないことがある。
だが、俺がなにか言うよりも早く遠坂が口を開いた。
「なにしに来たの? 士郎」
その声は―――あまりにも静かで―――あまりにも冷たかった。
先ほどまで感情が抜け落ちていた遠坂の顔に、極限まで冷え込んだ冷気の膜が張り巡らされる。それには、ありとあらゆるものを拒む強さが秘められていた。
「……遠坂」
呟くように俺は彼女の名を呼んだ。
その言葉にも遠坂は表情をいっさい動かさない。ただ静かに、ブリザードのような視線で俺を射抜く。
「なにをしに来たの? 衛宮くん」
再び遠坂が聞いてきた。
先ほどよりもはるかに冷たい、凍えるような問い。
その冷たさに打ちのめされそうになりながらも、俺はそれに立ち向かう。
遠坂をこうしたのが俺なら、それを溶かし、暖めてやることも俺にしかできないこと。
「おまえを迎えに来たんだ、遠坂」
「わたしを?」
「ああ」
俺は頷く。それは紛れも無い事実だから。
だが遠坂はそんな俺に冷たい微笑を返すだけだった。
「なぜ?」
「なぜって……それは」
そのあまりにもな問いに俺は言葉を詰まらせた。
「わたしは迎えに来てくれなんて頼んだ覚えは無いわ。貴方に―――心配される筋合いも無い」
そう言って遠坂は俺から視線を外し、また空を見上げる。
用なんか無いと、その横顔がなによりも雄弁に語っていた。
「遠坂……」
再び彼女の名を呼ぶ。
そのまま彼女のそばに近づこうとして……
「近寄らないで」
大きくも無く、強くも無いその声。ただ淡々と、用件だけを明確に伝えるその声。無視しようとすればそんなこといくらでも出来るのに、なぜかその言葉に逆らえなかった。
「近寄らないでよ……士郎」
囁くように、嘆願するように、遠坂は言った。
「言ったでしょ。わたしは―――大丈夫だって……」
自らが発する言葉の冷たさに耐え切れないように、その遠坂の声は震えていた。
バカやろう。
それのどこが大丈夫なんだよ。
俺はもう一度、脚を進めた。
今度はなにを言われようと止まらないと、そう決意を込めて。
遠坂はなにも言わなかった。
それまでと変わらず、ただ星を見ている。
小さな背中。
俺はそれに寄り添うようにゆっくりと腰を下ろした。
―――あの時のように。
背中と背中がほんの少しだけ触れ合う。
遠坂のぬくもりを背中越しに感じる。
震えるそれを思いっきり抱きしめてやりたいのに、今はそれが出来ないのがもどかしい。
なにを言おうか、伝えようか、そんなことを考えながら空を見上げた。吸い込まれそうな暗闇の中にちかちかと星が瞬いている。
「ねえ、士郎」
「ん……」
「……セイバーは?」
つぶやくような小さな声。
「ああ、もう……大丈夫だ」
「……そう」
俺のその答えがなにを意味しているのか、遠坂はきっと理解したのだろう。うつむいて、膝と膝の間に顔をうずめた。
遠坂の両肩が時折小刻みに揺れる。ほんの―――ほんの小さな、耳を澄ませなければ聞こえないほどの小さな音。うつむいた遠坂から零れ落ちる、静かな声。いくら抑えようとしても抑えきれない声。
それがなんなのか、俺はすぐに理解した。
ああ……まただ。
また、俺は遠坂を泣かせてしまった。
遠坂がそうしていたのはほんのわずかな時間だけだった。
すぐに顔を上げ、
「うん……良かった」
そう言ってまた星を見上げる。
多分それが、遠坂なりの最後の儀式だったのだろう。次の瞬間、その瞳と声からは迷いが消えていた。
「じゃあ、もう平気ね……貴方たちは」
セイバーは、では無く、貴方たちはと遠坂は言った。
「……良かった、ほんとうに」
また、そうつぶやく。
今、その言葉を言うのがどれほどつらいのものなのか、俺にはよくわかる。
だから、
「なあ、遠坂」
ただゆっくりと、星空を見上げながら、淡々と言葉をつむぐ。
「あの時のこと……憶えてるか?」
「え?」
あの時。
アーチャーが遠坂を裏切り、俺はセイバーを助けることが出来ず、結局二人っきりになってここで空を見上げていたあの時。目の前にはなんの展望もなく、もはや勝ち目のなくなった聖杯戦争。この世に、俺たちだけが二人っきりで取り残されたようなあの感覚。
「…………そんな、昔のこと……もう、忘れたわ」
「そうか」
でも俺は忘れない。
あの時もここに二人でいた。
多分、独りであったのならば一秒たりとも耐えられなかったであろうあの暗闇にも、俺たちは耐えた。それは俺たちが共に在ったから。独りではなかったから。
今、遠坂は独りでいる。いや、独りになろうとしている。
目の前にある暗闇から瞳をそらさずに、孤独になど負けることはないと胸を張りながら、美しすぎるその顔を敢然と上げ立ち尽くしている。誰とも関わらず、誰の力も借りず、ただ独りで生きて行けると。
それが遠坂凛の誇りであり、強さであり、また弱さでもある。
初めからそんなことには気づいていた。遠坂の強さと弱さは表裏一体。それに気づいていながら、俺はそれから目をそらしていた。その強さにすがっていた。目をそらしたままその手を離そうとしていた。
「あの時も……こうやって二人で星を見ていた」
「そう……だったかしら」
「ああ、そうさ」
あの時は、独りになりかけていた遠坂の手を、ぎりぎりのところで掴み止めた。あの時に出来たことが、今は出来ないなどということは無いはずだ。
「俺さ……セイバーに怒られたんだ」
「セイバーに?」
「そう。貴方はいったいなにを目指していたのですか、てね」
右の頬を撫でる。
セイバーに打たれたそこが、その時の熱さを思い出す。多分これは一生消えないだろう記憶。これがある限り、これを思い出すことが出来る限り、俺はもう道を違えない。そんな確信がある。
「俺、バカだからさ。忘れるはずが無いって思っていたものを忘れかけてた」
そしてセイバーはそれを思い出させてくれた。
「それって……」
「ああ、俺は『正義の味方』になる」
子供でも言わないようなその言葉、その願い。
切嗣から託され、エミヤシロウと戦うことで、この借り物だった願いを自らのものへと錬磨した。
捨て去りかけたこの願い。でも、今はこれこそが衛宮士郎そのもの。到達点では無く出発地点。いつかたどり着く場所ではなく、常に立ち続けていなければいけない場所。
「知ってるか? 正義の味方にとって一番大切なこと」
「大切なこと?」
「そう」
言って俺は振り向く。
目の前には遠坂の背中。いったんは見失いかけたけど、いろんな人に助けられてまたこうして巡り会えた。もう離さないと、そう心に決めた。
「女の子は泣かしちゃいけない」
俺は遠坂を後ろから抱きしめた。
「なっ……ちょっ、士郎っ」
暴れる遠坂。でもそんなの気にしない。
遠坂を体全体で包み込む。脚を広げてその中にしまいこむ。遠坂の背中の感触を胸で感じながら、離さないようにぎゅっと抱きしめる。
「やっ……士郎、は、なして」
「離さない」
もう二度と。
「士郎っ、なんで……こんな」
「言ったろ、正義の味方は泣いている女の子を放ってはおかないんだ」
また、抱きしめる。
「それにもう一つ」
逃げようとする遠坂を体全体で押しとどめながら、
「男は、好きな女の子が泣いているのを見るのは我慢できないんだ」
遠坂がはっと息を呑んだ。俺の腕から抜け出そうとするのをやめ、なにかにおびえるようにうつむいた。
遠坂の体が震えている。寒さか、それとも寂しさか。俺は彼女を暖めるように優しく抱きとめた。
「うそよ……」
遠坂がつぶやく。
「士郎がほんとうに好きなのはセイバーでしょう? 貴方だって……もう気づいているのでしょう?」
そう言って遠坂は俺の腕の中で小さくなった。それこそ、寂しさで震える小動物みたいに。
「ああ、そうかもしれない」
俺はバカ正直にそう答えた。そんなこと無い、と言えばそれですむことなのかもしれないが、俺はそこまで頭が良くは無いらしい。
「だったら……!」
遠坂の体に力がこもる。放っておいてくれと、独りにさせておいてくれと、体中で必死に訴えていた。
「俺バカだから、自分の本当の気持ちがどこにあるのか全然わからないけど、でも、一つだけ、確かなことがあるから」
確かなこと。なにを間違えてようが、なにを見失っていようが、唯一つ確かなこと。
「俺―――おまえのことが好きだ。遠坂」
もう一度、はっきりと、そう遠坂に告げた。
俺の声が、言葉が、ゆっくりと夜の闇に沈んでいった。
初めからわかりきっていたことなのに、なぜか忘れかけてしまったこと。心のそこから思っていたことなのに、なぜか失われようとしていたこと。
多分それは、あまりにも当たり前すぎたことだから。
当たり前のことすぎて、それが当然だと思って、いつまでも変わらずそこにあるものだと思って、そうして消えていこうとした思い。
「俺、おまえのことが好きだ」
だからこうして言葉にしよう。
失くさないように、忘れないように。
「馬鹿」
遠坂の体からゆっくりと力が抜けていった。俺の胸の中に静かに体を沈めてくる。黒い柔らかい髪が俺の顔をくすぐる。今はそれさえも心地良い。
遠坂が俺の右腕に頭を預けるように乗せた。遠坂の胸の前で組まれた俺の手に、ゆっくりと白く細いその手を重ねてくる。
「士郎、気づいてる? 貴方とんでもないこと言ってるわよ」
「ああ、わかってる」
一方でセイバーが好きだと言い、その舌の根が乾かぬうちに今度は遠坂が好きだと言う。
これじゃあ、ただの女たらしの台詞だ。いや、まともな女たらしならもう少しうまくやるか。しかも、この台詞のどちらもが本心からなのだから余計にたちが悪いかもしれない。
でも……
「仕方ないだろ。俺……遠坂のことがどうしようもなく好きなんだから」
なんと言われようがもうこの手を離す気などない。失いかけたときの恐怖を味わっているだけに、遠坂が俺の前から消え去ることだけは我慢できない。
「だから、それがとんでもないことなの。そんなこと言ってると貴方、いずれすべてを失うかもしれないわよ」
「……そうかもな」
二人の大切な女性。
どちらかだけを選ぶことなんて出来ない。でも、両方手に入れることも出来ない。ならばいつか、俺はその二つを失うことになるかもしれない。
「今なら、貴方は間違いなくセイバーを手に入れることが出来る。彼女と共に生きていくことが出来るのよ」
「ああ、そうだな」
セイバーなら俺がどの道を選んだとしても黙って受け入れてくれるだろう。
「わたしは……大丈夫。セイバーのこと、わたしも好きだもの。彼女になら、士郎を安心して任せられる」
遠坂はそう言って、俺の手をゆっくりと握り締めた。
「心配しなくてもいいわ。師弟関係はこれからも変わらない。ちゃんと魔術は教えるし、倫敦にも、そうね、一緒に行きましょう。約束もあるし、士郎が一人前になるまでしっかりと見ていてあげる。今までとなにも変わらないわ。ただ、ちょっと……わたしの立つ位置が変わるだけ……」
最後のほうはかすかな囁き。
「ほら、わたしたちって、成り行きだったじゃない、その……こういう関係になったの。だから別に、それが無くなったって、きっと……平気よ。わたしだって、士郎よりも良い男、見つける……つもりだし」
遠坂の手に力が込められた。痛いほどに、俺の手を握り締めてくる。
「ね……だから、お願い。この手を―――離して……」
その願いを聞けば、俺はセイバーを手に入れることが出来る。それはわかってる。
でも、俺の答えはもうすでに決まっていた。
「悪い、遠坂。それだけは出来ない」
離さないと、手放さないと決めた。なにがあってもこれだけは曲げることは出来ない。
「……士郎」
「言っただろ。俺、おまえのことが好きだ。もう、泣かせたくない」
遠坂はうつむいて唇をかみ締めた。なにかを堪えるようにして、じっとそうしていた。
「貴方の手の中には、胸の中にはセイバーがいるわ。わたしにだってわかってる。いえ、初めから気づいてた」
遠坂の手が愛しむように俺の手を撫でる。
「貴方の中からセイバーを追い出そうと思ったこともあった。でも駄目ね。結局無駄だった。……いえ、全部が無駄ではなかったかもしれない。わたし、セイバーのことが好きになれたし、それに―――士郎に好きだって言ってもらえた……」
だからもう大丈夫と、そう彼女は言った。
俺の腕の中にいる遠坂。その体に急に力がこもる。決意に裏打ちされたそれは何者も逆らえないほどの強さが秘められていた。
俺はそれに従うように手を離す。
遠坂はゆっくりと離れていく俺の手を黙って見つめていた。ほんの少しの安堵と、多大なる寂しさを瞳に込めて。
「セイバーはいい娘よ。大事に……ね」
震えを隠しきれない声。
バカ……やろう。俺がさっき言った言葉を忘れてるのか?
もう絶対に手放さない、もう絶対に泣かせない。そう言ったはずだ。
ズボンのポケットに手をやる。確かここに入れといたはずだ。あれからあまりにも急激に時間がすぎていってしまったので、記憶のほうが正直定かではないが。
あった。
手の先に感じるこの感覚は間違いない。正直、こんな時に渡すことになるなんて思いもしなかったけど、今渡さなければきっともう二度と渡すことは出来ないだろう。
「遠坂」
うつむいている遠坂の前に俺はそれを差し出した。
小さな、真っ白の箱。ポケットに入れたままだったから少し形が歪んでしまったけど。
「え、なに?」
「これ……おまえに」
その白い箱を手渡す。遠坂は黙ってそれを見つめていた。
「わたしに?」
「ああ、ほんとはもっとちゃんとした場所で渡したかったんだけど」
「……」
遠坂は静かにその箱を開ける。
中から出てきたのは、白いハンカチみたいなもの。くるくるに丸められて、無雑作に押し込まれていた。
「…………」
ネコさん。もうちょっと入れ方考えてくれよ。こういうのを入れるのはお決まりのものがあるじゃんか。あれを開ける瞬間の時とか結構考えてたのに。
まあ、そんなことを悔やんでもしょうがないか。あのネコさんのやることだし、ちょっと無茶な頼みだったし。
俺がそんなことを考えている間に遠坂はその丸められたハンカチを広げていく。
後ろからそれを眺めながら、俺はゆっくりと両手を前に伸ばして遠坂を抱きしめた。彼女はそれにも気づかず、ハンカチの中から転がり落ちたそれを手に取った。
「……あ」
息をのむ声。
零れ落ちたのは一つの宝石。
赤い、遠坂に最もふさわしい赤い宝石。
リングにはめられたその赤い宝石が光を放つ。
指輪。
遠坂のために作られた世界でただ一つの指輪。
「……これ……」
遠坂が気づいたみたいだ。その指輪にはめられた宝石は、俺や彼女が良く知っている宝石に酷似していた。
うん、ネコさんは腕の良い宝石職人を知っているって言ってたけど、なるほど、良くわかる。見本を渡していたとはいえここまで似せることが出来るのか。指輪にはめられるぐらいだから勿論大きさはぜんぜん違う。でもその形、その色、そしてなにより、これがなにを模して作られたものなのか、それがはっきりと手に取るようにわかる。
「わたしの……」
「ああ。遠坂が、俺のために使ってくれたあの宝石だ」
俺は左手を胸にやる。ランサーに貫かれた胸。そして、それを塞いでくれたその宝石。
俺と遠坂の間に築かれた最初の絆。エミヤシロウが英霊となっても失わなかった遠坂との絆。
そして、今遠坂の手元にあるのは、それを基に作られた―――ただし、まったく別の新しい絆。
「遠坂には悪いけど、あの宝石はもう返せない。あれは、俺の一番大事な宝物だから。だから、これを受け取ってくれ。なんの力も、魔力も込められてない、ただの指輪だけど、それでも……」
俺のありったけの思いを込めた。
「士郎……」
遠坂は魅入られたようにその赤い指輪を見つめていた。
俺はうなずいて、遠坂の手から指輪を取る。そして、彼女の左手に自分の左手をそっと添えた。
「……あ」
遠坂の左手をゆっくりと持ち上げる。そのまま右手に持った指輪を彼女の指にはめようとして……
「……! 士郎!」
遠坂が驚いたように声を上げる。
「ん、なんだ」
「だって、士郎……そこは」
俺が指輪をはめようとした指。想いが伝わるといわれている指。その指の血管は心臓に直結しているといわれ、それを捧げることで思いに応えるといわれている指。
遠坂の、左手の薬指。
「いやか?」
「そ、そういうわけじゃないけど。でも……いいの?」
「ああ」
はっきりと答えた。
俺の思いが込められた指輪だ。他につけるべき場所が考えつかない。
「でも、士郎。これを嵌めたら、貴方、後戻りできなくなるわよ」
「かまわない」
するつもりも無い。
「後悔しないの?」
「しない」
「わたし、独占欲強いわよ?」
「知ってる」
「やきもちも焼くわよ、きっと」
「望むところだ」
「わたし、可愛くないし」
「そんなこと無い」
「女の子らしくもないし」
「女の子だよ」
「……」
「他には?」
遠坂はうつむいて首を振った。
ならば、と、彼女のその指にゆっくりと指輪をはめていく。
「遠坂。これは、俺の誓いに対する証だ。今日味わった喪失感を、俺は絶対に忘れない。もう二度と味わいたくないし、もう二度と味あわせない。許してくれとはいわないけど、信じて欲しい」
指輪が沈んでいく。血のように赤いその指輪が遠坂の指と一つになった。
これでいい。
これで、俺たちはもう後戻りできない。
俺はゆっくりと手を離した。
遠坂は自分の左手をじっと見つめている。そこにあるものが信じられないというように、ただそれを見つめていた。
「……遠坂?」
いつしか、彼女の唇から小さな声が漏れ落ちていた。最初は低かったそれが、徐々に、徐々に大きくなっていく。それがなんなのかはもう俺にはわかっていた。
今日何度目だろうか。また、俺は遠坂を泣かしてしまった。
でもそれは、今までとはきっと違う涙。
そう、俺は思った。
俺たちはいつの間にか抱き合っていた。
俺の胸に遠坂が顔をうずめている。
ひっきりなしに聞こえてくる嗚咽。
胸元の服が遠坂の両腕に引っ張られていた。
俺は震える遠坂の頭を優しくなでた。
黒いさらさらの髪が手に触れる。
緩やかに、ただ、遠坂が泣き止むのを待つ。
いろいろなことが俺の頭の中を飛来していた。
人並みに憧れていた学園のアイドル。優等生だと信じていたら、実は猫の皮をかぶったあかいあくま。『呪い』を打ちまくられたこともあったし、本気で殺されると思ったこともあった。でも、根はすごい良いやつで、時々「おいおい」ってなどじも踏む。どこか放っておけないところがあって、だから俺がついていてやらなきゃってひそかに思ってた。一緒に戦い続けて、これからも一緒にいようと思って、でもお互いなかなか素直になれなくて、そして今日この日が来た。
もう一度遠坂の頭を優しくなでる。
大丈夫。もう大丈夫。
ようやく捕まえた俺の大事な宝物。
もう手放さない。
だから、もう泣かなくてもいい。
「士郎の馬鹿」
遠坂がつぶやく。泣き止んだかと思ったら第一声がそれ。なんとも、遠坂らしい。
「せっかくあきらめられたと思ったのに、そんなこと言われたら、私だってもう我慢できないじゃない」
「別に、我慢なんてしなくていい」
俺がそう言うと遠坂が顔を上げた。
涙でぬれた瞳。泣いているのか微笑んでいるのか、微妙に判断の付きにくい表情。くしゃくしゃに歪んで、でも、それがなによりも愛しく感じる。
「貴方、一番つらい道を選んだわよ。わかっているの?」
「ああ、わかってる」
どちらかを選んでいればそれでことはすんだ。
セイバーを見捨てて遠坂を選ぶか、遠坂を捨ててセイバーと生きるか、どちらを選んでも悲しみは間違いなくあったが、それは一時のものですんだはずだ。でも俺はそうしなかった。どちらかの手を取り、もう一人を泣かせることなんて出来なかった。
ただの優柔不断かもしれない。女々しいだけなのかもしれない。
だからこの先、今よりもつらい別れの時が来るのかもしれない。
でもかまわない。
もしこの先、二人が別の誰かと結ばれたとしても、二人が幸せに笑っていられればかまわない。それなら、俺もきっと笑っていられる。
とにかく今は、誰も泣いていちゃいけないんだ。
「これから、貴方たいへんよ」
「ああ」
「セイバーは手加減を知らないからね、たっぷりと性根をすえてもらいなさい」
「そうだな」
「魔術の訓練も今までより厳しくするからね」
「う、ちょっと怖いな」
「ふん、そのぐらい覚悟してなさい。さっさと一人前にならなきゃ許さないから」
「努力します」
「そうよ、才能が無い人間は努力しなさい」
「なんか今日は厳しいな」
「当たり前でしょ。わたしたち二人を手に入れようって男が、甘いこと言わないで」
そう言って遠坂が唇を尖らせた。
うん。良かった。いつもの遠坂だし、いつもの俺たちだ。
「なに笑ってるの?」
「嬉しいから」
そうそっけなく答えて、俺は遠坂の腰を引き寄せた。
「あ……」
俺の顔のすぐ下に、遠坂の顔がある。
頬を伝う涙の跡を指でぬぐいながら、彼女の頤を上げる。
「ちょっ、士郎」
小さな抗議の声。
それを無視して、遠坂の瞳をじっと見つめる。
「愛してる、遠坂」
万感の思いを込めた一言。
あ。
遠坂が固まった。顔を真っ赤にして、目を見開いている。
そういえば、好きだと言ったことは今までにもあったが、愛していると言ったのは初めてかもしれない。
ほんのちょっとした言葉の違いだけど、俺と遠坂にとっては大事なことだった。
「馬鹿」
俺の手から逃れ、ちょっと憮然とする遠坂。不意打ちをくらったのがおきにめさないらしい。
「ひどいな。結構勇気を出して言ったのに」
「うるさい。そういうところが馬鹿だっていうのよ」
「む」
そこまで言うことは無いんじゃないか。せっかく思いを伝えたというのに。その返答が馬鹿の一言じゃむくわれないというか、だいたい、
「遠坂」
「なによ?」
「返事は?」
「え?」
だから。
「俺は言ったぞ。遠坂を愛してるって」
「あ」
「で、遠坂は?」
そうたずねる。
「そ、そんなこと……言わなくてもわかってるでしょう」
「いいや、言ってくれなきゃわからない」
勿論うそだ。でも、時には言葉に出して言ってもらいたい。
「遠坂」
じっと瞳を見つめる。
ほんの少し顔を寄せれば、唇と唇がくっつきそうなぐらいの距離で。
「わ、わかったわよ……」
根負けしたのは遠坂のほうだった。
瞳を閉じ心を落ち着けるように深呼吸する。ふうっと息を吐き出したあと、瞳を開けて俺を見つめた。少しばかり目が泳いでいるようなのはこの際見逃してあげよう。
「わ、わたしも……士郎が、好きよ。……その、あ、愛して、いるわ」
途切れ途切れでそう言い、これでいいでしょ、といわんばかりに口を尖らせてすねた。
その仕草があまりに可愛くて、俺は思わず遠坂を抱きしめる。
「あ、士郎」
「ありがとう、遠坂。嬉しいよ」
頬に手を寄せ、遠坂の顔を上げる。
「ぁ……」
なにをされるのかわかったのか、一瞬抵抗のそぶりを見せた遠坂だったが、すぐにおとなしくなり、力を抜いて俺に体を預けてきて、そっと瞳を閉じた。
「それと最後に、少し遅くなったけど。――ハッピー・バースディ、遠坂」
「……馬鹿……」
唇を重ねる。
ひどく懐かしく感じるこの感覚。
柔らかいその遠坂の唇は、少しだけ涙の味がした。