聞こえてくるのは時を刻む時計の音だけ。
重く、押しつぶされそうな空気。
無駄なものはなにひとつ無いその部屋。
上等とはお世辞にもいえないベッドの上。
そこで……俺たちはひとつになった。
右の胸に感じる重み。
肩をくすぐる金色に輝く柔らかな髪。
俺は右手を回して、それを優しくなでる。
俺の胸に顔をうずめたセイバーは、黙ってその行為を受け入れていた。
体にはまだ先ほどまでの行為の名残がとどまっている。無我夢中でセイバーを求め、そしてセイバーもそれに応えてくれた。
狂うほどに熱く燃え上がった時間が終わり、ゆっくりと正常な時を取り戻していく。
静寂。
俺もセイバーも、なにもしゃべらない。なにも語らない。ただ、今は静かに寄り添って、お互いを感じあうだけ。
とくっとくっ、と、静かに脈打つセイバーの鼓動が聞こえる。なめらかで、しっとりと手に吸い付くような肌。俺の体に優しく触れるふたつの膨らみ。さっきまで自分のものだったセイバーの体。
ああ、俺はセイバーを抱いたんだなあ、と、改めて実感する。
それと同時に、胸に突き刺さるかすかな痛み。体をつつむ倦怠感にこの身をゆだねようとする俺を、現実に引き戻そうとするしこり。
それがなんなのか、わかっているくせに、瞳を閉じ、俺はそれから目をそらした。
最後に見た、遠坂のさびしげな姿がまぶたに浮かぶ。もう二度と泣かせないと決めたのに、また遠坂を悲しませた。遠坂と一緒にすごした一ヶ月間が、なぜかやけに懐かしく感じる。
俺はセイバーの金色の髪を手に絡ませる。薄闇の中でも光を放つ美しい髪が、さらさらと俺の手を滑り落ちた。手につかんだと思ったのに、零れ落ちていく。どこかむなしいその光景から、俺はなぜか目を離すことが出来なかった。
ふと。
俺の腕に静かに抱かれていたセイバーが、すっとその体を離した。毛布で体を隠しながら、ゆっくりと身を起こす。
「セイバー……?」
俺の呼びかけには答えず、静かに俺を見つめてくる。
その瞳につられるように、俺も横たえた体を右手で支えながら起こした。セイバーと見つめあう。そこには、俺の腕の中にいたときの狂おしいまでの熱情は無く、どこまでも澄んだ、それゆえに冷たい瞳があった。
「シロウ」
美しく張り詰めた声。どこかで聞いたことのある声音。
「感謝します、シロウ」
ああ……そうか。
この声、そしてこの瞳。彼女と……セイバーと始めて会ったあの時。土蔵の中での記憶とまったく同じだった。
「魔力の供給は正常に行われました。これで、私がこの世に限界するのに、もはやなんの支障もありません」
そう。
それが俺の目的。俺の望んだこと。セイバーを助けるために必要だったこと。
でも……なんでそのことを、そんな声音で、そんな陳腐な言葉で聞かなきゃならないんだ。
「セイバー……」
「新たな契約は結ばれました」
「セイバー……っ!」
そのあまりの冷静さが嫌で、俺は声を荒げていた。
「なんのつもりだよ。俺の言ったことを……聞いていなかったのか?」
契約なんかは関係ない。おまえのことが好きだから、だから抱く。あの時、俺はそう言った。それは間違いの無い事実。
「いいえ。はっきりと聞きました」
「だったら……っ!」
なんでそんな言葉が出てくるんだよ。
俺の問いかけに、セイバーはまったく表情を崩さなかった。ただ冷静に言葉をつむぐ。
「私も言ったはずです、シロウ。なにがあろうと、誓いをたがえることは出来ない、と」
一切のためらいも無く、セイバーはそう言った。
セイバーの誓い。遠坂凛を裏切らないという、ごく当たり前のようなことであって、それゆえに重い誓い。
自分のことより、遠坂凛と言う少女を大事に考えていたセイバー。俺は、それを打ち砕いた。無理矢理と言っていいぐらいに。
「セイバー、だからそれは……」
「はい。今回は不慮の事態によってこのような結果になってしまった。ですが、私はこの誓いを捨て去ったわけではない。そこは間違えないで欲しい、シロウ」
あくまで、自分が貴方に抱かれたのは魔力供給のためだと、セイバーはそう言い切った。
その言い方が、あまりに淡々としたものだったので、俺は自分の感情を押し殺すことが出来なくなった。
「おまえこそ―――わかってないのならもう一度言ってやる。俺はおまえを……」
「シロウ」
セイバーの声。
その鋭さに、俺は口を噤むしかなかった。
「今はその言葉は言わないで欲しい」
「……セイバー」
「貴方の言葉は嬉しい。ですが……やはり貴方には凛が必要だ」
わずかにうつむきながら、それでもはっきりとセイバーは言った。
「それは……貴方にもわかっているのでしょう、シロウ?」
「…………」
この場合、沈黙こそがそれを肯定することにつながる。それがわかっていながら、俺はセイバーの問いに答えることが出来なかった。
「それに、貴方はこうも言った。私たち三人のうち、誰か一人でも欠けたら意味が無いと」
「……ああ」
それは、確かにそう言った。
あの時は、あまりにセイバーが頑なだったから。セイバーが一人消え去るなんて許せなかったから。
「ならば、凛を失うことは、私たちには許されないのでしょう?」
その言葉は俺の胸に深く突き刺さった。
遠坂凛。
ともに聖杯戦争を戦った戦友であり、俺の魔術の師でもあり、俺の最良のパートナー。
その彼女を失う。それは、衛宮士郎にとって何よりも耐え難いこと。
セイバーと遠坂。
俺はあの時、セイバーが自ら消え去るといったあの時、この二人を天秤にかけた。許されるべきことではないが、そうした。
そして、俺はセイバーを助ける道を選んだ。迷うようなことではなかったはずだ。
なにもしなければセイバーは確実に消えてしまっていたのだし、遠坂自身もそうしろと言った。
でもそれは、結局は俺の甘えだったのではないだろうか。
俺は、セイバーを助けるという行為を、ある種の免罪符のように利用していたのではないか。そう言えば、少なくても遠坂への言い訳は立つ。責任を自分で負うといいながら、その行為を正当化させることによって、逆にその責任から逃げていた。セイバーひとりのことを考えすぎて、自分の最もそばにいた少女のことをないがしろにしていた。それが、あまりにも近くにありすぎて、あまりにも当然のようにそこにあり続けたから―――これからもずっとそうなのだと、そんなありえない錯覚を抱いていた。
俺は、自分ひとりで責任を負うなどと言ったが、そんなことは初めから無理なことだったのだ。その言葉自体を責任転嫁の材料としていたのだから。
その考えにたどり着き愕然とする。
俺が―――いや、俺たちが遠坂を失う。それは、どう考えたって許されないことだった。
「シロウ。貴方と凛は私を助けてくれた。今度は、私たちが凛を助ける番ではないのですか?」
「セイ……バー」
俺は、自分の不甲斐なさに涙がこぼれそうになるほど悔しかった。
セイバーはすべてを承知した上で、その身を消し去ると言った。俺の身勝手なわがままでそれがかなわなくなっても、まだ、俺たちのことを何よりも大切にしてくれている。
それにひきかえ俺は、ただ感情の赴くままにセイバーを抱き、セイバーの心を傷つけ、遠坂を失いかけた。
今この場で、自分自身を殺してやりたいほどの自己嫌悪。
「シロウ、そんな顔をしないで。貴方は私を―――消え去るのをただ待つ身だった私を助けてくれた。これは紛れも無い事実なのです。ですから……今度はその手で、凛を助けてあげてください」
誰よりもつらい立場にありながら、誰よりも俺たちのことを考えていてくれたセイバー。それは、今の俺にとってあまりにまぶしすぎるものだった。だから、セイバーの言葉に、俺は首を横に振ることしか出来なかった。
「ごめん、セイバー……。俺に、その資格は……無いよ……」
「シロウ」
俺の蚊の鳴くような声の返答に、初めてセイバーがきつい眼差しになる。
「貴方以外、誰が凛を救って上げられるというのですか。貴方に凛が必要なように、凛にも貴方が必要なのです」
それは、わかってる。ほんとうにわかっている。もう……痛いほどに。
「でも……俺は……」
遠坂を裏切ってしまった。だから、俺には……
その瞬間――――
ぱあぁっっん……っ!!!
と。
乾いた音を残して俺の頬が鳴った。
「…………っ!」
左の頬が熱い。
セイバーがその右手をひらめかせて、俺の頬を打ったのだ。俺はあっけに取られてセイバーを見る。セイバーはその美しい瞳でじっと俺を見据えていた。
そういえば……セイバーとは剣術の修行で何度も打ち合ってるし、何度も手ひどい目にあわされてるけど、こうやって平手で頬を打たれたのは初めてだ。平手で、なおかつさほど力を入れてないようなのに、竹刀で頭や体を打ち付けられるのより、はるかに痛むのはなぜだろうか
「少しは……目が覚めましたか? シロウ」
「……セイバー」
「本来なら、こういったことはタイガの役目なのでしょうが……」
確かに、昔はよく藤ねえにこうやって怒られてたっけ。最近はそんなこともなくなったけど。それでも時々、士郎が良い子になりすぎちゃってさびしいよお、なんて理不尽な言いがかりをつけられることはある。
なんだろう。
痛いけど、すごい懐かしい感じ。
セイバーは赤くなりつつある俺の頬に右手を添えた。そのまま優しくなでてくれる。
「シロウ。貴方は自分の誓いを忘れてしまったのですか?」
「俺の……誓い?」
俺はバカみたいに繰り返した。
「貴方は、貴方の父……切嗣になんと誓ったのですか?」
「それは……」
忘れるはずがない。
俺は、切嗣に……死を目前とした切嗣に約束した。『正義の味方』になると。周りの人たちが幸せでいられるように、目に見える人たちが笑っていられるように、『正義の味方』として頑張ると。子供心にそう誓った。
その誓いは、衛宮士郎がこれまで生きてきたすべて、その証。なにがあっても決して捨てなかった、切嗣との約束。死んだ人間との約束は、もう絶対に破ることが出来ないから。
「シロウは『正義の味方』になる」
セイバーは、そう、震えるほど美しい声音で告げたあと、優しく微笑んだ。
「はじめて聞かされたときは、この人はいったいなにを言っているのだろう、と、驚きもしました。でも今は、それこそが貴方にもっともふさわしい誓いだと、私は信じています。ですから……シロウ」
凛を助けてあげてください。彼女の涙を止めてあげてください。
囁くようにセイバーが言った。
「それが、貴方の目指す『正義の味方』なのでしょう?」
静かな部屋に、はっきりと透き通る、そのセイバーの言葉。
正直、頭がどうにかなりそうだった。
自分のバカさ加減にほんとうんざりして、わあっと頭をかきむしりながら叫び出したい気分。
俺は、あまりにもひとつのことに目が行き過ぎて、もっとも大事なことを忘れていた。
周りの人たちが笑っている姿を見たいから。みんなに幸せになってもらいたいから。
そう誓ったあの日の記憶を、忘れかけていた。
誰か一人を泣かして、誰かを救う。
それは、俺が最も否定したいはずのことだった。
遠坂凛。
俺はもしかしたら、無意識のうちに彼女に甘えていたのかもしれない。
彼女なら、なにがあっても俺のそばにいてくれるはずだと、身勝手にそう思っていた。
自分ではなんの努力もせずに、そんな都合のいいことあるはずもないのに、ただ彼女の強さにすがっていた。
遠坂凛という少女が、じつはとても打たれ弱い少女だと知っていたくせに。
「俺……最低だな」
「はい、そうですね」
即答されてさすがに言葉が詰まる。
そんな俺に、セイバーはにっこり微笑んで見せた。
「私たちをこんな気持ちにさせておいて、それに全然気づかなかったんですから」
「うっ……いや、それはその……」
さすがに、なんというか、もう気づいた。自分が今までどれだけ恵まれた―――というか、他の男どもから見れば、どれだけうらやましい立場にいたのかということを。遠坂凛というパートナーがいて、こうやって優しく見守ってくれているセイバーがいた。俺は、この二人の気持ちにこたえないといけない。二人にふさわしい男にならなければいけない。
切嗣が言っていたひとつの言葉を思い出す。
『女の子は泣かせちゃいけないよ』
なるほど。今ならそれが良くわかる。
この言葉は、男にとってのひとつの真理、あるいは生涯を通じての永遠のテーマか。
正義の味方になるというのなら、まずは自分の周りにいる女の子たちを幸せにしなくちゃいけない。
だから今は。
「あのさ……セイバー」
「はい、承知しています。シロウは、はやく凛のところへ行ってあげてください」
そう言って微笑むセイバーは、あまりに奇麗すぎて、俺は何を言えばいいのかわからなくなってしまう。
「私はもう大丈夫です、シロウ。貴方から、これ以上ないくらい大きなものをもらった」
にっこりと笑って胸を押さえる。ふたつのふくらみの間。それを見て、自分たちがまだ裸なことに気づき、俺は顔を真っ赤にしてしまう。
でも、俺はセイバーに言わなくちゃいけないことがある。
薄闇の中にほのかに浮かぶセイバーのシルエット。俺が手にするには余りにもったいないようなその体。さっきまで自分の腕の中にあったそれを、俺は優しく引き寄せた。
「あ、シロウ」
「セイバー……」
ごめんと言うか、ありがとうと言うか、ほんの少し迷って、すぐに決めた。
「ありがとう、セイバー」
柔らかなセイバーの体。優しく抱きしめて、その短い言葉にすべての思いを乗せた。
身勝手かもしれないけど、俺にはこれしか言うことが出来ない。
「はい、シロウ」
短く、それだけをセイバーは答えた。
俺の背中に手を回し、ぎゅっと力を入れる。
「もう、迷わないでください。貴方は、常に前を見続けていてください。貴方の後ろは……凛と、私が守りますから」
「セイバー……」
俺たちは、そのまま見詰め合ったまま、どちらからともなく、最後に口付けを交わした。
俺がセイバーの部屋を出たのは、十時になる少し前だった。三時間近く、セイバーの部屋にいたことになる。
廊下はより肌寒さを増しており、体の中に残っていた高揚感があっという間に消え去っていった。
結局、俺はセイバーを助けるどころか、逆に彼女に救われ、忘れそうになったものを思い出させてもらった。スタート地点の再確認。これから衛宮士郎が歩むべき道。それらを、セイバーは指し示してくれた。
「なんか……なさけないな……」
自分が、だ。
見失うはずが無いと思っていたもの。薄れるはずが無いと思っていた記憶。
そういったものが、ほんのちょっとしたきっかけで、泡のように消え去ってしまう。
自分の未熟さを改めて痛感した。
それを考えると。
「すごいよな、セイバーは」
あの少女は、どんな時でもその心を曲げない。見失わない。なにがあろうと、どんな困難が立ちふさがろうと、顔を上げ、敢然とそれに立ち向かうのだろう。
セイバーの強さはその剣術の腕や魔力の強大さにあると思っていたが、彼女の本当の強さは、実はその負けない心にあるのかもしれない。
そういえば……今あらためて気づいたが、俺はセイバーが生前どんな英雄であったかを、いまだに知らない。
サーヴァントの能力は、サーヴァントとなったその英霊の知名度によって左右されるのだという。セイバーほどのサーヴァントなら、やはりそれなりの知名度を誇る英雄であったのだろう。今までは大して気にならなかったのだが、一度意識してしまうと、なぜだか妙に気になってしまう。
セイバーがどこの世界の英雄だったのか。それを知ることがすなわち、セイバーの過去を知ることにつながるのだ。どんな生き方をしてきたのか、どんな仲間たちに囲まれていたのか、なぜ英霊になどなったのか、など、知りたいことは山のようにある。
そういえば、遠坂はうすうすなにかに気づいていたみたいだった。今のセイバーのマスターは遠坂だし、なにか感じるものがあるのだろうか。
ああ、駄目だ。なんかこう、いろいろ考えるごとに自分が半人前だということを知ることになる。
なさけない。
なさけないけど……
「もう、立ち止まってなんかいられないからな」
絶対に失ってはいけないもの、失ってはいけない人がわかった。いまさらだけど、遅すぎるかもしれないけど、それは絶対にあきらめてはいけないことだった。
居間には明かりだけがついていた。
人のいる気配は無い。
「遠坂」
そう呼んでも、出てくる人はいない。
俺はキッチンへと向かった。
迎えてくれるのは、すでに冷え切った作りかけの夕食。遠坂の手料理。
そこにもやはり遠坂の姿はなかった。
「遠坂!」
もう一度呼ぶ。
帰ってくるのは沈黙だけ。
もう、自分の屋敷に戻ってしまったのだろうか。誰も待つ者のいない、広く暗い屋敷へ。
「……っ!」
俺はあわててキッチンを出る。
と。
そのとき、視界の片隅に不思議なものを見た。
キッチンに備え付けられた小さなゴミ箱。そこに放り込まれるように捨てられた、四角い白い箱。ゴミ箱が小さすぎて合わないため、斜めになって突き出ていた。なぜか無性にそれが気になり、俺はその白い箱を手に取った。
「なんだ……?」
中になにか入っているような重み。
俺はそっと、その箱を開けた。
「……あ」
中から出てきたのは予想外のものだった。
崩れかけた白いケーキ。
もとは奇麗な丸いそれが、今はいびつな形にゆがんでいる。
トッピングされていただろうイチゴ、もそのいくつかが零れ落ちていた。
そして真ん中にあるもの。ふたつに割られた、もとは一枚のチョコレート。それを見て、これがいったいなんであるのかがはっきりとわかった。
「あの、バカ……」
それは、遠坂凛と言う少女のためのもの。
一年に一度だけ味わうことの許される『バースディケーキ』
「もっと早く言えよ……」
言っても意味の無いことだけど、言わずにはいられない。あいつは、どんな気持ちでこれをゴミ箱へと捨てたのか。
俺は、その崩れかけたケーキをじっと見下ろした。
甘くておいしそうなケーキ。イチゴをひとつ手に取り、口の中へと放り込む。イチゴの甘みが口いっぱいに広がり、わずかな酸味が俺の胸を締め付ける。
と。
ぴーんぽーん。
この雰囲気にそぐわない、どこかお間抜けな呼び鈴の音。
それが部屋に鳴り響くと同時に、俺は玄関へと駆け出した。
「遠坂……っ!」
猛然とダッシュした俺の目の前に現れたのは、玄関からびっくりした顔で俺を見つめる桜と、その桜の持つ白い箱を物欲しそうな顔で見つめている虎。
「先輩……」
桜が驚いた声で俺を呼んだ。
「あ……桜」
「どうしたんですか? 先輩」
「え、あ、いや……」
そうだよな。
いまさら遠坂がここに来るわけ無いよな。
ふうっと俺はひとつため息をついた。
「なんでもないよ、桜」
そう答える。
と。
「今日は、ずいぶん遅かったな」
今はもう十時を回っている。外は真っ暗だ。こんな時間に桜が来ることは今まで無かったことだ。
「はい、ほんとうはもう少し早く来るつもりだったんですけど……」
そうか、そういえばそんなことを言ってたっけな。九時ぐらいにうちに寄ると。
「これを買い忘れてしまったので、藤村先生と一緒にあわてて買いに行ったんですよ」
そう言って桜は手に持った白い箱をちょっと上げて見せた。それにつられるように、虎の視線も上下する。
「藤ねえ、なんか犬みたいだぞ」
あきれる俺にその虎はむうっとうなって見せた。
「だってだって、すっごい美味しそうなケーキなんだよ。クリームもたぁっぷりのってるし、イチゴだってとっても甘そうだし、生地なんかもうすっごいふわふわだし、それにねそれにね……」
どれだけそのケーキが偉大かを延々と並べる藤ねえ。
って、ケーキ?
「なあ桜? これって、もしかして……」
「あ、これはその、バースディケーキです」
「バースディケーキ……てことは、今日は……」
「はい、今日は遠坂先輩の誕生日です」
やっぱり。
そういうわけか。
あのバカ……
「あの……先輩?」
考え込んでしまった俺に桜が心配そうな声をかけてくれた。
「ああ、なんでもない。大丈夫だよ、桜」
「え……でも」
はたから見ると、俺の顔はどうやっても大丈夫には見えないらしい。ま、自業自得なんだけどな。
「ほんと、桜ちゃんから聞いたときは驚いたわよぉ。遠坂さん、そんなこと一言も言わないんだもん。私もあわてちゃったわ」
遠坂さんらしいけどねー、と、けらけら笑う藤ねえ。
そうか、今日は忙しくてこれないって言ってたのに、それでわざわざうちに来たわけだ。いい加減に見えて、時々ちゃんとしてんだよな、藤ねえは。時々だけど。
「ねえねえ、遠坂さんはー、居間にいるのー」
相変わらずのハイテンションで家に上がり、ずんずんと歩く。
「……いや、遠坂はいないよ……」
「え」
ぴたっと止まり、振り向く藤ねえ。
「先輩……?」
桜の声も聞こえる。
「悪い、ふたりとも。せっかく来てくれたのに……」
俺にはそう言うことしか出来なかった。
ここにはもう遠坂はいない。
もしかしたら、もう二度とここには来ないかもしれない。
俺は、失ってはいけないものを失ったのかもしれない。
「ちょっと、士郎」
気がつけば、藤ねえが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「な、なんだよ」
その顔があまりにも近すぎて、さすがにちょっとあわててしまう。
そんな俺のことを、むぅー、とうなりながら睨んでくる虎。正面からだけではなく、横からとか後ろからとか斜めからとか、それに何の意味があるのかはさっぱりわからないけど、いろんな角度から俺のことを検証している。
ふむふむ、と何度かうなずきながら、
「よしっ!」
なんて言っていきなり大きくうなずいた。
「挙動不審すぎるぞ、藤ねえ」
「いや、なんかさあ、士郎ったら妙に落ち込んでるなあって思ってね。これはひさしぶりに、元気の出るお姉ちゃんのビンタが必要かなあって思ったんだけど……」
そう言って右手をひらひらさせる藤ねえ。
子供のころの恐怖が一瞬よみがえり、俺は思わずあとずさる。なんかやけに怖いぞ、藤ねえ。
「でも、そんな必要無いみたいね。うん。なにがあったか知らないけど、士郎、ちゃんと男の子の顔してる」
そう言ってにっこりと笑った。
「あ、あのなあ」
「ああー、でもやっぱりなんかさびしいなあ。ほんのちょっと前までは手のかかる可愛い弟だったのに、士郎ったらどんどん大人になっていっちゃうんだもん」
「そ、そういうことを言うな」
すげえ恥ずかしい。
でも藤ねえはそんな俺の抗議はどこ吹く風、やけに楽しそうにニヤニヤしながら、呆然と立っている桜の腕を引いた。
「さ、桜ちゃん。私たちは居間に行こっ。先生おなかすいちゃった」
「あ、でも……」
「大丈夫、大丈夫。士郎も遠坂さんも大丈夫だし、桜ちゃんだってこれからいくらでも挽回できるんだから。先生が応援しちゃう」
おい、なんか容易ならざることを言ってないか? 藤ねえ。
俺が睨みつけても、この虎はただにっこりと笑うだけだ。くそう、なんだかわからんが妙に手ごわさを増しているぞ、今日の虎は。
「ほら、士郎は早くしなさい。遠坂さんのところに行くんでしょう?」
「あ、ああ」
微妙に釈然としないが、その言葉にはうなずける。
俺は靴を履いて外へと向かった。
「じゃあ、行ってくる……」
桜と藤ねえに向かってそう言う。
桜は複雑そうな表情で、藤ねえはにっこりと微笑んで、俺を見送った。
「士郎、女の子は泣かせちゃ駄目よ」
「ああ、わかってるよ」
最後にそう答えて、俺は外へと出た。