目の前のテーブルには士郎の入れたコーヒー。
冷めかけたそれをわたしは口にする。
独特の苦味が口の中に広がる。ああ、やっぱりコーヒーはどうも好きになれない。ミルクをいくら入れたってこの苦味は消え去ってはくれない。
無理やり飲む干す。
今日二杯目のコーヒーは胸の奥に嫌な苦味を残した。
「……ふぅ」
空のカップを置くと同時にため息が漏れてしまう。
紅茶でも入れて口直しをしようかしら、と考えてすぐにやめた。
二人ならともかく、一人っきりで飲んだところでなんの口直しにもならない。そもそも自分のためだけに入れるなんて、そんな気力はない。
時計を見る。
士郎がこの居間を出て行ってからすでに三十分以上たっていた。
思わず自分にあきれてしまう。
この三十分間ほとんど記憶にない。なにもせずぼうっと座ってて気がつけばこんな時間。
おそらく、遠坂凛の生涯においてもっとも無駄に過ごした三十分間であったろう。
「馬鹿みたい……」
つぶやく自分のこえですら空々しく聞こえた。
セイバーが倒れた。
そう士郎に聞かされたとき、わたしは最後の望みが打ち砕かれたことを知った。
聖杯の失われた今、セイバーのようなサーヴァントをこの世界にとどめることがどれほど厳しいものであるか、この一ヶ月でわたしは身をもって体験していた。
サーヴァントの限界に必要な魔力は、わたしが想像していた以上に巨大なものだった。
はじめのうちは体内に蓄積された魔力を根こそぎ奪われることもあった。なおそれでも足りず、遠坂家に残された数少ない宝石を胃の腑に落として、それでなんとか急場をしのいだこともあった。
タイトロープを渡るような毎日。
いくら魔力の流動がわたしの得意とする分野とはいえ、いつまでもすべての魔力を与え続けることは出来ない。そんなことをすれば魔術師としてのわたしは破滅だ。
ただ幸いにも、セイバーは自ら魔力を生成するという能力を持っていた。ある程度の魔力をはじめに蓄えさせておけば、あとはそれを元として魔力の構成を維持することが出来る。
そのおかげで一週間もすれば状態は安定した。魔力の大部分をセイバーに送らなければいけないのは変わらないが、それも士郎のサポートのおかげでなんとかなった。魔術師として必要なある程度の魔力量を維持するだけのめども立った。
だから、このままの生活がこれからも続くと思い、またそう願った。
このまま……衛宮士郎の一番近くにいられる生活が続くことを。
それがいきなり狂った。
原因は士郎だ。
士郎にわたしの魔力が流出し始めたのだ。
理由はわからない、が、士郎と何度か体を重ねることでひとつ気づいたことがある。
士郎の体。魔術刻印を持たないという、魔術師としては致命的な体。
その体の中に、外からの干渉をいっさい受けない、いわばブラックボックスのような箇所があるのだ。
それがなんなのかはわからない。そこになにかある、と、そう気づいたことさえ奇跡のようなものだったから。
そこに、わたしの魔力が流れ込んでいる。
士郎にはわからないだろうが、わたしにはわかる。
回路に狂いが生じてからは、それを必死で修復しようとした。
それは、セイバーためでも士郎のためでもなく、ただ自分のために。
でも、結局はやはり無駄だった。
ベッドに横たわったセイバーからは確実に命が抜け落ちようとしていた。
正直、聖杯を失ったサーヴァントがここまでもろいものだとは思わなかった。魔力の供給が途切れてほんの数時間しかたっていないのに、その衰弱ぶりは目を覆うほどだ。
にもかかわらずセイバーはわたしに言った。
「このまま……消え去ることを許してください――――凛」
さらに
「あなた方を裏切ることはできない」
と。
ああもう、ほんとこの娘は!
セイバーは知っていたのだ。自分が助かるためにはもうひとつの方法しか残されていないことを。
そしてそれが……わたしを裏切る行為であることを。
だから消え去ると、そうセイバーは断言した。
シロウには貴方から謝っておいてください、と、今にも泣きそうな顔をしながら……
そんなことを言われて、はいそうですねと頷けるほど遠坂凛は器用じゃない。
わたしは確かに衛宮士郎が好きだ。心のそこから惚れている。
でも、それでも、譲れないものがある。
ここで頷くと――――わたしは今後、まっすぐ立って生きて行くことが出来なくなる。
結局わたしは思いっきりセイバーを怒鳴りつけて、衛宮士郎を失う道に歩き出すことを決めた。
聖杯戦争の終わったあと、この世界に残るため契約を続行して欲しいとセイバーに言われ、そしてそれに頷いた時から、いつかはこういう日が来ることになるのだろうと覚悟していた。
ただそれが思っていたよりも早く、そして予想外の形でやってきただけ。
セイバーがこの世界に残ると決心したのは士郎のためだ。それぐらいはわたしにもわかっている。
セイバーは確かにわたしのサーヴァントだが、彼女が真にその剣をささげたのは衛宮士郎に他ならないのだから。
聖杯戦争で契約を結んだ二人。
半人前の魔術師と最強のサーヴァント。
あまりにアンバランスな組み合わせにして最強のコンビ。
誰よりも強い信頼関係の上に成り立っていたそれは、しかし唐突に終わりを告げた。
キャスターの契約破りをその身に受けたセイバーは衛宮士郎の元を離れた。
残されたのはただの半人前の魔術師。
士郎の聖杯戦争はその場で終幕を迎えたはずだった。
にもかかわらず、あいつは傷だらけの体を引きずりながらもセイバーを求めた。なんの力もないくせに、それこそ強引に、力ずくでセイバーを助け出した。
結局、再び士郎がセイバーのマスターになることはかなわなかったけど、そんなことあいつにとってはほんの些細なことなのだろう。
セイバーを救う。あいつはそれだけのために戦い、そしてそれを成し遂げた。
あの時――――ああ、こいつには……この二人にはかなわないな、と、そう思った。
だから、わたしが士郎と契約を結ぶ時、士郎が言ってくれた言葉が嬉しかった。
「俺、遠坂が好きだから」
思いっきり照れながら真っ赤な顔でそう言ってくれた士郎。
「だから……契約とか、そういうのは抜きでおまえと触れ合いたい」
その言葉で、わたしは救われた。
そして、同時に思った。
セイバーに……勝った――――と。
「ばちが当たったのかな……」
結局はそういうことなのかもしれない。
正々堂々と手に入れたものじゃないから、だから……自分の手から離れていく。
セイバーは士郎に自らの剣をささげた。
騎士である彼女にとって、それはなにより代えがたい崇高なもの。
でも、それだけではないこともすでにわかりきった事。
セイバーは衛宮士郎を愛している。
そしておそらく衛宮士郎も……
頭を振る。
そのわかりきっている事実を振り払うかのように。
セイバーが倒れた時、わたしの心に一瞬黒いものが走った。
遠坂の家の魔術を用いて、ほかの人間から魔力を吸い取る方法を考えている自分に気がついた。
もっとも簡単で、もっとも確実な方法が目の前にあるのに、意図的にそれを無視している自分に気がついて愕然とした。
自分の心が自分の意思では抑えられないような感覚。
心の隅にある醜い影。
わたしはそれを無理やり押し込め、あえて挑発するように士郎をたきつけた。
セイバーを抱きなさいと。
そうすればセイバーを救うことが出来ると。
すべてを吹っ切るようにそう言った。
そして、思い通りに事が運んで、わたしはこうして一人さびしくたたずんでいる。
「割に合わないわね」
ほんとに……割に合わない。
わたしは席を立ち、そのままキッチンに向かった。
そこには作りかけの夕食。
いっそのことあの二人が『事』を終えるまでに、ありったけの豪華な料理を用意して、嫌味ったらしく振舞ってやろうかしら。
にっこりと笑って「おめでとう」とでも言ってやる。
そんなむなしいことを考えていて、ふと、キッチンの隅に置かれた四角い白い箱に気がつく。
そういえば、こんなのも用意してたんだっけ。
わたしはその白い箱を手元に引き寄せた。
箱を開けると中から出てきたのはたっぷりの生クリームをのせたケーキ。
イチゴがまるく円を描くようにトッピングされ、真ん中には細長い長方形のホワイトチョコレート。そして、そこには「Happy Birthday」の文字。
「馬鹿みたい……」
士郎やセイバーを驚かせてやろうとたくらんでた。
こうすればわたしの誕生日を覚えてもらえるし、「もっと早く言えよー」なんて言うだろう士郎をからかうことも出来た。そのからかう方法も考えていたし、士郎のことだから明日にでもあわててプレゼントを買いに行くだろう、とも思った。
そしてきっと来年のこの日は……
「ほんとに……馬鹿みたい……」
自分で用意したバースディケーキを前にしてもう一度つぶやく。
どれもこれも無駄なこと。
魔術師であるわたしには必要のない心の贅肉。
だからこのたくらみが失敗に終わっても別にどうってことない。
孤独には慣れてるし、それをつらいと思ったことも無い。
それなのに……
なんでこんなに悲しいんだろう。
なんでこんなに涙があふれてくるんだろう。
「ずるいよ……セイバー……」
わたしはわけもわからず泣いていた。