吉谷地信号場
東北本線 昭和19年開業:昭和24年9月15日信号場廃止により消滅
太平洋戦争開始以降、特に北海道からの石炭の輸送力増強を目指して、
東北本線上にも数多くの信号場が設置された
(仙台局管内だけでも18ヶ所)。
中でも、奥中山を越える急勾配区間に設けられた、西岳・滝見、そして、
この吉谷地の三信号場(開業は、西岳のみが、昭和18年10月1日と早く、
滝見と吉谷地は、昭和19年10月11日)は、シザースクロスを挟んで
点対称に引き上げ線を有する、本格的なスイッチバック配線が採用された
(*なお、同時期に同様の要請によって設置された、上越線の信号場が、
「戦時型信号場」と呼ばれる、勾配上に加速線を有する“簡易型スイッチバック”の
構造を採ったのに対して、これら東北本線の信号場が通常型になった理由については、
今後の研究待ちである)。
当信号場に関して、「ものがたり東北本線史」(国鉄仙台駐在理事室編)
に、陸奥市川駅が終戦直後、駐留米軍基地の最寄り駅として
大拡張されるに際して建設資材が不足し、
「とにかく線路は大河原の旧海軍専用線や吉谷地信号場
その他の線路を一部外して集めるなど苦心したものであった」
との記述がある。
この工事は、昭和22年4月から開始されたらしく、
記述を正しいとするならば、昭和24年の正式廃止を待たずして、
吉谷地信号場の引き上げ線は短縮されたか、実質的な機能停止に陥っていたと思われる。
いずれにしても、戦争が終結し、本来の用途を失うと、
旅客駅にも昇格できずに消えていくしかなかったのであろう
(西岳・滝見が複線化時点まで残っただけに、
当信号場だけが、同区間複線化の昭和31年の遥か以前に消え去ったのは、至極残念である。
さらに言えば、同区間でSL三台運転が実施されたのは、昭和25年10月1日
改正以降ゆえに、当信号場には定期の三重連は姿を現さなかったと言える)。
三重連運転でSLブームの1大聖地となった、吉谷地の大カーブ。
その真っ只中に、人知れず消えていった、スイッチバックが存在したことは、
ほとんど知られていない。
吉谷地信号場という“世紀の大発見”は、兵庫県の原英俊氏の精緻なる調査の賜物である。
この場で改めてお礼を申し上げたい。
存在発見の決め手は、戦後、米軍が空撮した写真である(国土地理院所蔵)。
いくら有名な撮影地といっても、この時期に、趣味で列車撮影をしていた者がいるとも思えず、
その意味では、この航空写真が、当信号場の唯一の写真ではないだろうか?
本来なら、この写真をお見せするのが最も早いのであるが、未だ許諾を取ってない現状では、
それも出来ないので、写真コピーから筆者が作成した配線図と共に、昭和40年代に撮られた
当地の写真を加工して、往時の信号場の様子を再現してみた(原図の撮影は富塚昌孝氏)。
一応、D51を後部補機に従えた(テンダーの重油タンクは一応削除)の下り貨物列車が
引き上げ線に進入する間もなく、上り貨物列車(D50かD51?)が
遠く奥中山方面から顔を出すという美味しい光景であるが、
これは、あくまで“当時の雰囲気を再現した”ものであることを御了承戴きたい。
■まず、写真左隅に本線とスイッチバック線のクロッシングポイント(らしきもの)を描き加えたが、
実際の信号場の位置は、もう100m以上御堂寄りと思われる。
■同様に、信号場中心に位置する本屋(これも、パソコン上で描き込んだ「絵画」です!)の
位置もずっと御堂寄りで、大カーブの入り口付近にある「詰所」のような建物
(少なくとも、ヨンサントウ以前の三重連写真では、よく登場)が、それだったのではないだろうか?
■単線時代の本線は、現在の上り線であろうと思われる。つまり、線増時、
奥中山方面に向けては、吉谷地信号場の跡地に盛り土をして、
複線の用地を確保したと、筆者は推測し、その位置関係に従って、この図は作ってある。
――にしても、三重連写真を見るたびに、
このカーブ区間の上下線が、なぜこんなに離れているのか疑問であったが、
あるいは、当時の引き上げ線と本線の距離が、そのまま複線化時にも
反映されたのかもしれない。
■さらに、ロクな鉄道知識もパソコン技術もないので、
間違い探し(信号機位置や標識類は、全くいい加減だし、描くのが面倒臭くて省略した施設も
数多く!)か、はたまた出来そこないの社会主義国家写真
(失脚した元幹部が不自然に消えたり…という例のアレ!)
みたいで、本当に恐縮である。
とにかく“雰囲気だけ”を感じながら、
御笑覧いただけられば幸いである。
※奇跡とも言えるスイッチバック現役当時の写真及びデータ募集中!
スイッチバックリスト2に折り返す
西岳信号場に向けて発車する