谷峨


御殿場線:旧東海道本線 明治40年開業(信号場として):昭和30年代には、施設使用停止




丹那トンネルが開通する以前、 東海道本線の「箱根越え」区間に設けられた 信号場(明治40年3月15日「東海道線五十九哩六の箇所に設置す」達39)。
同年8月24日の水害で、山北〜小山間不通。 当信号場付近も築堤が流失し、仮乗降場を設けて、 徒歩で接続する状況に陥ったが、 10月2日までには、復旧、複線運転が再開された。
「谷峩(原文まま)信号所東西両端に上下線に渡る 転轍機を設け、同所にて列車行違い得るよう仮設備(中略)竣功次第使用を開始すべし」 (明治40年9月17日鉄運乙1048)と資料に記されているが、 この水害復旧以降に スイッチバック型の待避線が設置された のは間違いないようである。

マップで当時の配線を示したが、 これを見ていただければわかるように、 同線箱根越え区間に設置された スイッチバック型信号場の配線は (足柄、富士岡、岩波の各信号場も、 すべて谷峨と同じ構造を持つ)、 上り勾配側の線路から、加速線的に引き出された 待避線が一本、 その待避線から上方に安全側線が1本、 上下線間の渡り線が1本という スタイルをしている。
この構造からすれば、 待避線を使うのは、通常、上り勾配側の列車に限られていたことがわかる。 登坂速度の遅い重量貨物列車が、特急「燕」を待避するという 具合である。 一方、下り勾配側の列車が、 優等列車をやり過ごすという光景は、 ほとんどなかったと思われる。

ただ、いずれにしても、この施設、 それほど頻繁に使われてはいなかったようで、 昭和9年時点(丹那トンネル開通前)でも、 すでに正常ダイヤでは、この施設を使って 待避する列車は、ほとんどなかったようである。
昭和18年の単線化後も、この待避線は残り、 昭和22年、信号場から「谷峨駅」に昇格してからは、 この線路を使って貨物の扱いがされていたようであるが、 昭和32年には「側線64m撤去、残り125m」という記録があるように、 側線は短縮。
その後、昭和34年(?)に、行違いの施設が当駅に設けられ、 小田急のディーゼル準急が乗り入れるようになったりしたが、 その頃には、この待避線は完全に役目を終えたと思われる。
同様な役割を持って誕生した、富士岡や岩波の待避線が、 同線のSL廃止まで生き残ったのに比べ、 往時「箱根越え」の撮影名所であった 当駅のダイナミックな施設が、 意外なほど、人知れず消えていったのは、悲しいものを感じる。

*なお、複線区間のスイッチバック型信号場というもの自体、 同区間以外には、ほとんどあったとは思えず(山陽本線の スイッチバック型信号場が、複線時代まで機能していたかどうかは、 調査中であるが、少なくとも設置は単線時代である)、 その意味では、これら「箱根越え」の信号場こそ、 複線勾配区間に設けられた交換施設としては 我が国唯一のモデルと言えるものである。
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