潮沢信号場


篠ノ井線 昭和36年開業:昭和63年ルート変更により消滅



篠ノ井線の山岳区間で、唯一廃止されたスイッチバックである。
明治35年、篠ノ井線で最後に開通した松本〜西条間。 明科から西条へと向かう線路は、潮沢川に沿って蛇行しながら、 25パーミルの急勾配を上るルートが採用されたが、 輸送力の強化を目指して、昭和36年9月27日に開設 (姨捨〜稲荷山間に設置された桑ノ原信号場と 同日)された当信号場。
篠ノ井線の他のスイッチバック型信号場と同様に、シザースクロスを挟んで 点対称に引き上げ線が一本ずつというシンプルな構造のものであった。
昭和63年、篠ノ井線の隘路である同区間 (急勾配という点では、同線山岳区間は、すべて隘路とも言えるが、 特に、潮沢周辺に関しては、トンネルが変形・劣化したりというような 地質的な問題があったと、筆者は記憶している) のルート変更が行なわれると同時に廃止になった。
*写真は、上滝徹三郎氏によるもの(撮影は、昭和56年8月5日)。 当時、すでに同線でも、貴重な存在になっていた荷客同士の交換風景 (2825レの車内より836レを撮影)である。
●三十六年前、蒸気時代の潮沢信号場
*三重県の西口幸一氏より、昭和41年4月に撮影された 当信号場の写真を提供いただいた。
「ここへは 長野から潮沢停車の各停に乗り、 臨時に下車をさせてもらったように記憶しています。 春の1日でしたがまだ 風が冷たく、撮影の合間には日向ぼっこをしていました。 もちろん自分一人で、構内を自由に写していました。両トンネルと川に挟まれて 撮影地は狭く撮りにくかった事を覚えています。ネットダイヤが組まれていて、 24時間、列車が通過退避し、ここが廃止されるなんてそのときは思いも 寄りませんでした」とのコメントが添えられた貴重な写真類。
何一つとっても、鉄道ファンとしては、ため息モノの内容であるが、 筆者的には、特に、引き上げ線脇の山肌が広範囲にわたって 真新しいセメントで補強されているのが印象に残った。 これこそ、当信号場を含むこの区間全体が廃止の憂き目に遭った原因 ――地滑り崩壊多発地帯であること――を物語る証左と言えるだろう。 それにしても、明治期の鉄路は、狭く厳しい山間を引っ張りまわされたものである。合掌。




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